石田三成の関ヶ原!西軍はなぜ負けた?三成の最後が泣ける

石田三成の関ヶ原!西軍はなぜ負けた?三成の最後が泣ける

石田三成VS徳川家康!関ヶ原の戦いで三成はなぜ負けた?

豊臣秀吉が死去したのが1598年・・・、ここから豊臣家の天下は凄まじい早さで崩壊していくことになるの。


 

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秀吉の死によって、もともとあった武闘派と奉行衆達との対立が悪化
家康と張り合える力を持っていた前田利家も死去し、家康が好き放題し始める
豊臣家の内部分裂を利用して家康が天下を本気で狙い始める

 

とにかくグダグダ、秀吉の変わりに豊臣家をまとめれる人がいなかったのね。そして関ヶ原の戦いが起こったのが1600年。秀吉の死から約2年後ね。

 

この2年間、石田三成はどのような状況にあって何をしていたのでしょう・・・??

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豊臣秀吉の死後、徳川家康の暴走がはじまる

 

秀吉がいなくなったとたん、家康は速攻で天下を自分のものにすべく行動にでています。

 

まず、豊臣家の武闘派の武将達(加藤清正、福島正則、黒田長政など)に徳川家の人間と婚姻関係を結ばせました。

 

これは秀吉が生前決めた【政府の許可なしに大名同士が結婚するのは禁止する】という法に違反しております。

 

秀吉様がいなくなった途端にこの手のひら返し!酷すぎる!


 

これに関して、石田三成ら奉行衆や前田利家は厳しく徳川家康を批難しました。

 

 

悪気はなかったの。もうしないから許して。誓います。


 

武力衝突待った無し!・・・というくらい緊迫していたようですが、ひとまずここでは和睦する事となりました。

 

しかしこの後、前田利家が病により死去。

 

 

イェェエエェイ!!怖いもんなしだぜ!!


 

 

あわわわ。家康と対等に渡り合える唯一の大名が・・・。


 

徳川家康や、武闘派武将達のストッパーとなっていた前田利家がいなくなったことにより、また状況が変わっていくのであります。

 

石田三成、嫌われすぎて暗殺されそうになる!

 

1599年に前田利家が死去。これを好機と捉えたか、

 

加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、藤堂高虎、浅野幸長、蜂須賀家政の七名が凄まじい殺意を抱いて、石田三成の屋敷を襲撃するという事件が起こります。

 

この武闘派武将達の動きを知った三成は急いで屋敷を脱出し、京都の伏見城・徳川家康の屋敷へ逃げ込みます。

 

 

(悔しいけど奴らを止められるのは家康しかいない!)

 

助けて家康さーん!!


 

 

おやおや。災難だったね。(どんだけ嫌われてんの。でも徳川家的には好都合・・・!)


 

少し前に和睦した三成と家康、この時点では表面的には敵対関係じゃないのです。

 

そして家康は、あくまで豊臣政権を支える大名の一人として中立の立場をとりました。

 

 

伏見城にいるのはわかってる!でてこい三成ーっ!!


 

 

みんな、ひとまず喧嘩はやめよう。ここはワシに任せて。


 

 

うむむ。家康さんがそう言うなら・・・。


 

家康がとりもってくれたおかげで命拾いした三成ですが、

 

 

この騒動を収束させる為にも君は引退した方がいいよ。


 

とのことで三成は止むを得ず五奉行を引退。佐和山に引きこもり、政権から離れることとなってしまったのです。

 

こうなるといよいよ豊臣政権下で権力をふるうのは徳川家康。

 

約束を破ってまた婚姻関係を結ぼうとしたり、大名達に勝手に加増してあげたり、上杉景勝を謀反人に仕立てあげ上杉を潰そうとしたり・・・

 

と、ますます暴走していきました。

 

 

いよいよ我慢の限界だ!武力行使で家康を倒す!


 

表向きは引退していた三成ですが、宇喜多秀家や大谷吉継と相談してついに打倒家康を掲げ挙兵することを決めたのであります。

 

 

家康と戦するのはリスクが高い、やめとけ。って何度も言ったんだけど三成は聞いてくれなかったんだよね。


 

『家康の悪行を許すな〜っ!』【内府違いの条々】!

 

三成は挙兵するにあたり、『内府違いの条々』と題した文書を全国の大名達に発行しました。

 

『上杉景勝が謀反を企んでいる!』として悪者扱いした
誓いを裏切って勝手な縁組を行った
決まりを無視して勝手に大名に知行を与えた
北政所を大坂城から追い出して家康が居住した
五奉行、五大老が相談して決めるべき事を一人で勝手に行っている

 

↑このような、家康が行ってきた悪業を十三ヵ条にして綴った文書です。

 

そしてこの十三ヵ条に、五奉行のメンバーである前田玄以、増田長盛、長束正家が

 

 

家康公は秀吉様の遺言、誓いに背き数々の悪事を行った。十三ヵ条に書いたとおりである。

 

我々は武力をもってこれに制裁を加えることに決めた。

 

秀吉様から受けた御恩を忘れておらぬなら、我々と共に戦って秀頼様に忠義を尽くそうぞ。


 

といったような檄文を添えています。

 

そしてこれに呼応して集まってくれた武将達が、

 

毛利輝元、宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継、立花宗茂、長宗我部盛親、安国寺恵瓊、脇坂安治、小早川秀秋・・・などなど。

 

そう、関ヶ原の戦いで西軍として戦うメンバーであります!

 

 

西軍の総大将は毛利輝元に決めたんだ。石田三成の名前だと人が集まらないからね。

 

あとこの中に裏切る奴がいるぞ・・・!


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石田三成、関ヶ原の戦いでの敗因は??

 

一方、徳川家康も負けじと武将達とコンタクトをとっておりました。

 

 

三成が嫌いだから徳川につくぜ!


 

 

三成に味方するって言ってるけど、本番では徳川にお味方しますね!


 

 

徳川の味方につきます!(とは言ってもまだどっちが有利かわからん、様子見しよう・・・)


 

武将達も色々な事情、葛藤を抱えていました。

 

そして関ヶ原の戦い当日、関ヶ原の地に集まった兵は

 

 

西軍が8万2000!


 

 

東軍が7万4000!


 

であったといいます。(兵の数は諸説アリ)

 

兵力だけでいうと石田三成率いる西軍が上・・・、
戦が始まってしばらくは互角の戦いが繰り広げられていたと言います。

 

しかし、徳川家康に通じていた西軍の吉川広家が兵を動かさなかったり、

 

西軍の島津義弘が石田三成・島左近と戦略の事で揉めて『もう知らん!どっちの味方もせん!』と日和見決め込んだり、

 

小早川秀秋が東軍に寝返り、西軍に攻撃を開始した事がきっかけで、西軍は一気に崩れて敗北してしまいました。

 

小早川秀秋は関ヶ原の戦いで、1万5000もの大軍を率いていました。

 

そして小早川秀秋の隣に布陣していたのが大谷吉継であります。

 

その大谷吉継の配下として参戦していた脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱の四隊が小早川秀秋の裏切りに呼応して大谷吉継に襲いかかりました。

 

この四隊の兵力は合わせて4500ほどだったといいます。

 

小早川秀秋の隊と合わせて1万9500、この大軍の裏切りが西軍の敗北を決定的なものとしました。

 

関ヶ原の小早川秀秋

 

小早川秀秋はギリギリまで兵を動かさずに日和見をしていたといいます。

 

一向に兵を動かさない小早川秀秋にシビレを切らした家康が、

 

 

ヒヨってんじぇねぇぞ!動け小早川ー!!


 

と鉄砲を打ち込んだことで、西軍に攻撃を開始したというのは有名な話ですね。

 

小早川秀秋が裏切らなければ、おそらく脇坂安治ら四隊も裏切らなかったと思われます。

 

 

さすがに1万5000もの兵力は影響力がでかい・・・。


 

石田三成がもっと上手く小早川秀秋を手懐けていれば・・・もう少し西軍が有利に戦っていれば・・・

 

小早川秀秋の出方も違ったかもしれないし、勝敗の行方も違ったかもしれませんね。

 

関ヶ原の戦いのその後、石田三成の最後は??

 

関ヶ原の戦いで敗北・・・、石田三成ら西軍の武将たちの末路は悲しいものでした。

 

撤退戦で戦死する者もいたし、命拾いした武将でも、所領を大幅カットされたり、お家断絶となったり・・・と厳しい処罰を受けています。

 

そして一番厳しい処罰を受けたのが、西軍の中心人物であった石田三成・小西行長・安国寺恵瓊の3人でした。

 

この3人は、罪人として堺の街で晒し者にされた後、京都の六条河原で斬首されています。

 

 

斬首は罪人が受ける刑罰・・・。切腹すらさせてもらえないのは武士として辛いね・・・。


 

その他の西軍武将の末路

大谷吉継は小早川秀秋らに襲われた後に自害して果てた。

 

毛利輝元は総大将だったけど、分家の吉川広家が徳川の味方をしていた関係で死罪になることはなかった。が、所領を大幅カットされた。

 

上杉景勝も所領大幅カット。

 

宇喜多秀家は八丈島に流罪。

 

真田昌幸・幸村親子は九度山へ追放。

 

これぞ石田三成。捕らえられた後のエピソードでわかる人物像

 

石田三成、小西行長、安国寺恵瓊の3人は、捕らえられた後、罪人として堺の町を引き回されることとなります。

 

そして捕らえられた時、3人の着物はボロボロでみすぼらしいものでありました。

 

 

戦に負けた故、罪人となってしまったが皆立派な武士・・・。せめて着物だけでも綺麗なものを・・・。


 

家康は3人に小袖を用意しました。

 

 

上様から小袖のプレゼントです。


 

 

ありがたや・・・着させていただきます・・・。


 

小西行長、安国寺恵瓊は家康からの小袖を受け取りましたが、石田三成だけは

 

 

上様って誰の事言ってるの?家康?上様は秀頼様以外にいないでしょ?いつから家康は上様になったの?

 

その小袖は受け取りませんっ!!


 

断固拒否したのであります。

 

そしてその後・・・

 

処刑場である六条河原へ護送される途中、

 

 

喉が渇いた。白湯をおくれ。


 

 

白湯はないけど柿ならあった。これで我慢してくれ。


 

 

いらない。柿は痰の毒だから。


 

 

今から首を斬られる人間が、そんな事を気にするなんて笑っちゃうね。


 

 

大きな志を持つものは、最後の最後まで命を惜しみ、その本懐を遂げようとするものだ。


 

なんてカッコイイ言葉を残したというエピソードはあまりにも有名であります。

 

最後の最後まであきらめず、ボロボロになりながらも信念を貫き生き抜いた石田三成・・・。

 

日本の歴史至上、一番カッコイイ敗北の将ではないでしょうか??

 

良いところも悪いところも全て、愛さずにはいられない魅力的な武将であります。

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