石川数正をゆるりと解説!なぜ徳川から豊臣へ?突然の出奔が謎!

石川数正をゆるりと解説!なぜ徳川から豊臣へ?突然の出奔が謎!

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石川数正をゆるりと解説!なぜ徳川から豊臣へ?突然の出奔が謎

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生涯 ??年~1592年
出身 三河(愛知県)
全盛期 信濃松本に8万石(10万石とも)
主君 徳川家康→豊臣秀吉
有名な親族・家臣 石川康正(父)、石川康長(長男)、康勝(次男)
思い出の戦 姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、小牧長久手の戦いなど
石川数正といえば 突然の裏切り、井伊直政に虫ケラ呼ばわりされる

 

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徳川家の重臣!石川数正(いしかわかずまさ)って何者?

石川数正は徳川家康が今川義元の人質だった時代から側で仕えてきた側近中の側近!


酒井忠次と並んで徳川家のトップに立って活躍した重臣で、家康からの信頼もとっても厚かったの。

 

でも後々、突如として家康のもとを出奔して豊臣秀吉の家臣になってしまったのよね。

 

今回はなんだか複雑な事情があったであろう石川数正をゆるりとご紹介~。

 

徳川家康の参謀役!石川数正は優れた外交官

 

石川数正は徳川家康の幼少期から側に仕えてきたベテランの徳川家家臣であります。

 

生まれ年は不明とされていますが、1533年生まれとの噂もあるのでこれが本当なら家康より10歳ほど年上…

 

 

家康様が小さい頃はいいお兄ちゃんって感じの存在だったかも~?


 

家康の出陣する戦にはほとんど付き従い、戦場では優れた指揮官として活躍、武功を挙げてきたとのことですが、

 

石川数正は、主に徳川家の外交官として活躍をしており、冷静沈着で頭脳派といった感じの武将だったようです。

 

どんな働きっぷりであったのかというと、例えば1560年に起こった桶狭間の戦い(今川義元と織田信長の間で起こった戦)で今川義元が討ち死にした後…

 

家康は

 

 

これは今川家の人質から脱するチャンスでは?

この混乱に乗じて故郷の三河に帰れるかも!

今川家の人達、今後大変すぎてワシのことなんか気にしてる暇ないでしょ。


 

と、隙を見てササーッと地元の三河に帰還するのですが、突然の出来事ゆえ家康の正室・瀬名姫とその子供達は今川領内に取り残されたままでありました。

 

そこで彼女たちを無事に取り戻せるよう、奔走したのが石川数正でありました。

 

 

今川家の家臣・鵜殿という者を捕らえて、瀬名姫親子と交換するよう今川氏真と交渉したのだ。

めっちゃ嫌な顔されたけど、まぁ上手くいって良かった。


 

また、徳川家康は1562年に織田信長と同盟を結ぶのですが、その際に同盟の交渉役を務めたのが石川数正でありました。

 

 

俗にいう『清洲同盟』ね。

このおかげで家康様は織田信長という強力な後ろ盾ができ、大名として大きく成長できたんだからワシってばいい仕事したよねぇ。


 

石川数正の徳川家康への忠義とはいかほどか??

 

1563年…

三河で一向一揆が勃発。

 

この一揆は徳川家康が領民から強引に年貢を取り立てた結果、浄土真宗の信者達の反感を買ってしまい起こった出来事でありました。

 

 

三河に帰国して以降、まだ戦準備が十分ではなかったから早く沢山兵糧が欲しくて…。

焦って無理目な取り立てをしちゃってたみたい…。


 

そして家康の家臣の中には浄土真宗(一向宗)を信仰する者達が大勢いたのですが、それらの多くが一揆勢の味方につくというまさかの事態が起こります。

 

宗教勢力と戦う事自体が罰当たりで恐れ多い事…という風潮がある中、ましてや相手が自分の信仰する宗教となると仕方ない話ではあるのですが家康からするとなんとも悲しい展開であります。

 

この時、石川数正も親子で浄土真宗を信仰していたのですが…

 

 

父は殿を裏切り一揆勢の味方に付きましたが、私は殿のお味方であります!


 

 

でもでも…お前にだって信仰心はあるだろ?

罰当たるぞ?


 

 

改宗します!

殿と同じ浄土宗に!


 

石川数正は父に流されず、宗派を変えてまで家康に尽くす事を決めたのでした。

 

人質時代からずっと家康を側で支えてきた数正はとても信頼されていたといいますが、このエピソードを見てるとそれも納得の忠義心の持ち主であります。

 

 

何より、数正は頭も良く仕事のできる有能な人物!

徳川家にとってかかせない存在だったのだ!


 

 

徳川家の重要拠点である岡崎城の城代を任せられるほどに信頼されていたよ!


 

 

ちなみに三河一向一揆では康政が大活躍してるぞ!

無事に一揆勢を鎮圧して三河に平和をもたらしたぜ。


 

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徳川家の為に!石川数正は自分の子供達を人質に

 

1584年…

小牧長久手の戦いと呼ばれる戦が勃発。

 

織田信長亡き後、織田家の実権は羽柴(後の豊臣)秀吉が握っていたのですが、

 

そのことに不満を抱いていた信長の次男・信雄が

 

 

助けて家康さん!

このままだと織田家は秀吉に乗っ取られちゃう!


 

と家康を頼り、それに家康が応じたことで勃発した戦でありました。

 

この小牧長久手の戦い、戦自体は家康が有利に立っていたのですが、

 

戦況を不利とみた秀吉が機転を利かせ、家康に内緒で織田信雄と話し合って和睦を結んだことで終結しております。

 

あくまで家康は織田信雄のヘルプだったので、

 

 

信雄が勝手に戦放棄しやがった!

ワシももうヤメ!

なんやったんこの戦は~!


 

ってな感じで、なんだかとっても不本意なかんじで終わってしまいました。

 

 

いち権力者である秀吉を倒す大チャンスだったのに…。

信雄は秀吉の下につく形で和睦しちゃってるし、ますます秀吉の力が大きくなっちゃってるじゃん。


 

とはいえ家康はこの時、三河・駿河・遠江・甲斐、信濃の五ヶ国を領する大大名。

 

小牧長久手の戦いでは秀吉軍を奇襲して大勝利する場面もあり、

 

 

家康は野戦の天才じゃ!


 

と諸大名達にその武勇が知れることとなり、十分に大名としての威厳を世に知らしめておりました。

 

だからこそ…

 

 

そんな徳川家康をワシの下につく形にもっていければ、いよいよ天下は秀吉のものかと世にアピールできる!

家康をひれ伏せさせたいぃぃ!


 

秀吉はなんとか家康を自分の傘元に入れる為、色々と手を打ってきました。

 

 

家康さん、ワシらもちゃんと仲直りしようよ。

友好の証として、家康さんの息子をワシにちょうだい?


 

織田信雄を支配下に置いて権力を増した秀吉は、一筋縄ではいかない強敵となりました。

 

これを拒否すればまた戦となる可能性もあり、家康は次男の於義丸(おぎまる・後の結城秀康)を秀吉に差し出すことになります。

 

 

けど頭を下げには行きません。

養子に出すだけね。


 

この時、石川数正は

 

 

私の長男と次男を於義丸様の小姓にし、共に大阪へ付き従いさせます。


 

と、自ら二人の息子を差し出すことにしました。

 

長男、次男と二人も跡継ぎ候補を差し出すのは余程の事であります。

 

 

うちの家のことなんぞ二の次よ、徳川家の事が一番なんだからぁ。


 

徳川家筆頭家臣!なのになぜ豊臣秀吉の家臣に?

 

宗派を変え、家康の為に息子を手離すほどに忠義心の厚い石川数正・・・。

 

ずっと徳川家の為に尽くしてきたのに、この後に石川数正は突如として家康の元を出奔してライバルである羽柴秀吉の家臣となってしまいました。

 

 

なぜ?!

数正に何があった?!


 

一体なぜ?

石川数正が家康を裏切ったのにはどんな理由があったのでしょう??

 

その理由はハッキリと分かってはいまぜが、以下のような説があります。

 

説①秀吉に気に入られて引き抜かれた

 

石川数正は小牧長久手の戦い以前にも、徳川家の外交官として秀吉と会う機会がチョイチョイあったようです。

 

こうして会談を重ねていくうちに秀吉が、石川数正の才能に惚れ込んで自分の家臣となるようスカウトした言われております。

 

秀吉は人材コレクターと言われるほどに有能な人物を積極的にスカウトして自分の家臣にしていました。

 

石田三成や竹中半兵衛なんかの有名武将も秀吉自らスカウトしてますし、

 

直江兼続や本多忠勝、片倉小十郎なんかも秀吉にスカウトされた事があるそうです。

(ここは家臣にはなっていないけど)

 

他家の客人を迎える時、威厳たっぷりに構える大名が多い中で秀吉は笑顔で手を握り

 

 

よく来てくれた!

長旅で疲れたろう?


 

といった言葉をかけ、身分関係なく暖かく迎えてくれる大名であったといいます。

 

秀吉が人たらしと言われるのも納得のあたたかみ…。

 

こういった嫌味のないフレンドリーなところが秀吉の魅力であり、武将達は思わず心を開いてしまうんでしょうね。

 

石川数正もその内の一人かと思われます。

 

小牧長久手の戦いの後、自分の息子を二人も秀吉の元へ差し出した数正ですが、秀吉を好意的に思っていたから出来たことかもしれませんね。

 

また、秀吉はケチケチする事なく、ここぞという時には惜しみなくお金を使う人でした。

 

 

家康の倍、給料だすよ!

だからウチへおいで?


 

なんてやり取りもあったかもしれません。知らんけど

 

 

実際、秀吉様から信濃松本8万石(10万石とも)を与えられております。


 

説②石川数正、徳川家に居づらくなってしまった

 

忠義心厚くて団結力のあるイメージの三河武士達ですが、石川数正のようなインテリ派の家臣と、本多忠勝や榊原康政といった武闘派の家臣達はあまり仲が良くなかったそうです。

 

石川数正が家康のもとを去ったのが1585年…

 

この頃になると、石川数正より歳下の武将達がメキメキと頭角を現していきました。

 

徳川家康が特に重用した、徳川四天王の本多忠勝・井伊直政・榊原康政なんかは皆武闘派、強気でクセの強い性格の持ち主であります。

 

 

良く言えば忠義心厚くてまっすぐ!

悪く言えば融通の利かない面倒くさい奴らね。


 

このようなメンバーが徳川家の中心人物として台頭していき、だんだんと石川数正は居場所を失ったような、肩身の狭い思いをするようになっていったと言われています。

 

こんな状況に置かれている時に、大名としての才覚もあり人間としての魅力もある秀吉が、

 

 

ワシには君が必要なんだ!

給料もはずむからウチに来ておくれ!


 

なんて声をかけてくれていたとなると、石川数正が徳川家を去るのも致し方なし、といった感じなのかもしれません…。

 

 

現代人だって職場での人間関係が上手くいかない時期が続いたら憂鬱になって転職考えるでしょ?

それと一緒。


 

説③徳川家のスパイとして秀吉の元へ送り込まれた

 

これまでの説とは一変、実は石川数正はスパイとして秀吉の元へ送られた?!という説があります。

 

だとすれば秀吉はすっかり石川数正に心を許して大名として取り立ててるわけだし、上手いこと潜伏できていたということになりますね。

 

 

しかしながら私が出奔した理由は明らかになっていないので真相は闇の中・・・。


 

数正出奔!その後の徳川家への影響とは??

 

石川数正は古くからの家臣であり、家康から常に必要とされ重要な役割を任されてきました。

 

様々な秘密事項、軍事的作戦や人間関係、ありとあらゆる徳川家の情報を持っている石川数正の裏切りは徳川家に大きな衝撃と打撃を与えたといいます。

 

 

秀吉はただでさえ頭のキレるやり手武将。

徳川家の情報まで知られたとなるとそら大変な事よ…。


 

家康は、やむなく徳川家の運営方針や軍事政策を一から見直して変更するなどの対処に迫られることとなりました。

 

そして家康は、武田家の軍略を参考にオリジナルの軍略を作りあげました。

※家康は武田の旧領甲斐・信濃をゲットした時、同時に旧武田家家臣達を自分の家臣に迎え入れていた。

 

これが前よりクオリティの高いものになり、徳川家の軍事力がより強いものとなったとの事なので『災い転じて福となす』…であります。

 

徳川家随一の外交官がいなくなったのは大きな痛手ですが、ここでよりいっそうのパワーアップを可能としたのはさすが後の天下人…!

 

 

徳川家康の人生はピンチ→乗り越え→ピンチ→乗り越えの連続だね。


 

ちなみに石川数正、出奔後に元同僚の井伊直政と再会した時、

 

 

この裏切り者め。

お前、徳川家のみんなから虫ケラのごとく軽蔑されてるからな!


 

なんて事を言われたそうな。

 

 

30ちかくも年下の子に…


 

おまけ。石川数正亡き後の石川家は・・・

 

石川数正は1592年、秀吉が天下をとって間もなくしてからこの世を去りました。

 

その後、石川家を継いだのは長男の康長…

 

石川康長は秀吉亡き後に起こった関ヶ原の戦いで徳川家康率いる東軍の味方につき、所領を安堵され徳川幕府のいち大名としてやっていくのですが、

 

1613年、徳川家の家臣である大久保長安という人物が不正に財を蓄えていた事が発覚、

 

石川家もそれに加担していたと罪を問われ、石川数正の三人の息子・康長、康勝、康次は流罪となり石川家は断絶してしまいました。

 

悪事を働いたので裁かれるのは仕方ないですが、お家断絶とまでなってしまったのは彼らの父親が徳川家を裏切ったという事情も少なからず影響しているのかも…?

 

 

だとしたら申し訳ないなぁ…。


 

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