上杉謙信の年表!謙信の歴史をわかりやすくまとめてみた

上杉謙信の年表!謙信の歴史をわかりやすくまとめてみた

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上杉謙信の年表を簡単に、ざっくりと見てみよう!

上杉謙信といえば戦国最強?!

…なんて言われるくらい戦に強い戦国大名だったのよ~。


そしてなんてったって『義』を重んじる武将という事で有名ね。

 

野心溢れる武将達が私利私欲にかられて戦を繰り広げている戦国時代、上杉謙信は己の欲望の為でなく、人の為に戦ってきた正義のヒーローだったの。

 

ここでは上杉謙信の歴史ができるだけ簡単にわかるよう、ザーっと年表にまとめたわよ~っ!

 

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1530年 上杉謙信、誕生

越後の春日山城にて生まれる。

幼名は虎千代(とらちよ)

 

父は越後守護代・長尾為景(ながおためかげ)、その四男として生まれた。

上杉姓になるのはまだまだ先。

1536年 四男として生まれた謙信は父から疎まれており、7歳で春日山の麓にある林泉寺に預けられる。

 

この年、父・為景が死去。

謙信の兄・晴景が長尾家を継ぐ。

1543年 兄・長尾春景の計らいで俗世に戻り、栃尾城城主となる。

 

この年、元服して長尾景虎(かげとら)と名を改める。

1544年 栃尾城の戦い、15歳で初陣

越後の国人が反乱を起こし栃尾城に攻め寄せたのを撃破、見事に勝利を飾る。

 

初陣にして才覚を発揮し、家臣や諸将に一目置かれる存在となる。

1545年 越後守護・上杉定実の家臣(黒田秀忠)が反乱を起こしたのを討伐し、降伏させる。
1546年 黒田秀忠が再度反乱、ついに攻め滅ぼした。
1548年 謙信、長尾家の家督を継ぎ、越後守護代となり春日山城に入る

謙信の人望が高まった結果、越後の国人や身内の一部が兄・晴景に代わり謙信を守護代にしようと画策。

その結果、越後守護・上杉定実の介入を得て兄から家督を譲り受けることとなった。

1550年 謙信、事実上の越後国主となる

越後の守護大名・上杉定実が死去。

後継者がいなかった為、謙信が将軍・足利義輝の命で越後の守護を代行することとなった。

1551年 一族の長尾政景(謙信の姉の夫)が謀反を起こす。

謙信が勝利。

これがきっかけで越後の内乱が鎮まり、越後が統一された。

1552年

関東管領・上杉憲政が相模の大名・北条氏康に上野を追われ、越後へ逃亡する。

謙信は上杉憲政を匿い、北条氏と敵対することとなる。

 

この後、謙信は関東に兵を送り、上野に侵攻してきた北条軍を蹴散らし上杉憲政の居城であった平井城を奪還している。

1553年

第一回・川中島の戦い

 

信濃の川中島で上杉謙信と武田信玄が戦うも、小競り合い程度でハッキリと決着つかず終了。

(武田信玄の信濃侵攻によって土地を追われた信濃の国人・村上義清が謙信に助けを求め、それに応えて謙信が信濃に向けて兵を出したのが始まり。)

 

この年、初めての上洛を果たして将軍・足利義輝と謁見している。

1554年 武田氏・今川氏・北条氏の間で三国同盟が成立する。

武田、北条と敵対する謙信的には面倒くさい展開。

 

この年、家臣の北条高広(きたじょうたかひろ)に謀反を起こされる。

が、翌年には降伏させ、また家臣として迎えいれている。

 

※北条(きたじょう)氏は関東の北条(ほうじょう)氏とは別モノ。

1555年 第二回・川中島の戦い

武田信玄の信濃侵攻が活発となっているのを耳にした謙信がまたまた信濃へ出兵。

小競り合いが長期間続き、今川義元の仲介で和睦を結んで終結させた。

1556年 謙信、突如出家するも、家臣の反乱や武田軍の動きが気になり俗世に戻る。
1557年 第三回・川中島の戦い

和睦を結んだのにまた信玄が信濃へ侵攻、謙信も信濃へと出兵した。

3度目の戦いも決定的な決着つかず、謙信が兵を引き上げて終了。

1559年

将軍・足利義輝の要請で上洛する。

謙信と将軍・義輝は良好な関係を築いていた。

1560年 謙信、越中へ出兵

越中の神保長職(じんぼうながもと)に攻められた椎名康胤(しいなやすたね)が謙信に助けを求める。

謙信はこれに応じて越中へ侵攻、神保氏の居城である富山城を落とす。

 

この年、桶狭間の戦いが起こり今川義元が死去する。

謙信を脅かす三国同盟の一つ、今川氏が崩れたことを機に上野・武蔵へと侵攻し、北条氏の支城を次々と落としていき勢力を拡大させる。

 

この活躍により、謙信は関東の武将達を大勢味方につけることに成功。

 

この後、関東管領・上杉憲政の領土回復を名目として北条氏の本拠地・小田原城を目指して相模へ侵攻する。

1561年

小田原城の戦い

 

およそ10万もの大軍で北条氏康の居城を攻めるも落城できず、およそ一カ月後に兵を引くこととなる。

 

第四回・川中島の戦い 

謙信が北条氏と戦をしていた隙に信玄が川中島に海津城を作るなどして信濃攻略を進めていた。

謙信が再び出兵、激しい戦いを繰り広げたがこれまたハッキリとした決着はつかなかった。

 

この年、上杉憲政から上杉家の家督と関東管領の職を譲り受け、名を上杉政虎(まさとら)と改める。
その後、将軍・足利義輝から一字名をもらい上杉輝虎(てるとら)と名を改めている。

 

さらにこの年、上野の箕輪城主・長野業正(上杉家家臣)が死去。

武田信玄の上野侵攻を良く防いでいてくれたが、これをきっかけに箕輪城が信玄に落とされてしまい、西上野が信玄のものとなってしまった。

1562年 上野の赤井氏を攻め滅ぼす。

 

越中へ出兵、神保長職を降伏させる。

1563年 武蔵の松山城が北条軍の攻撃を受け落城。

謙信は武蔵での拠点を失ってしまった。

 

が、謙信は武蔵へ侵攻し、小田朝興の守る騎西城を攻め落とし、朝興の兄である武蔵忍城主・成田長泰を降伏させた。

 

その後、下野・下総へも侵攻して関東の諸城を攻略した。

1564年 唐沢山城の戦い

下野の佐野昌綱が謙信に降伏するも、今後も度々争うことになる。

 

第五回・川中島の戦い 

またまた謙信が信濃へ出兵。

信玄の信濃攻略阻止を試みるが、信玄が謙信との戦を回避した為に謙信が撤退した。

 

これ以降、謙信と信玄が戦う事はなかった。

1565年 謙信、北条軍にロックオンされた下総の関宿城へ援軍を送る。

北条軍は城攻めを断念した。

1566年

常陸国へ出兵

小田氏治を降伏させた。

 

臼井城の戦い

北条氏に与する千葉氏の臼井城を攻めるも敗北。

謙信に味方・降伏していた関東の豪族らが次々と北条氏に降ることになってしまう。

1567年 厩橋城代を務める上杉家家臣・北条高広が北条に通じて謀反を起こす。

謙信は北条高広を破り、厩橋城を奪還した。

 

敵に塩を送る

この年、武田信玄が同盟国の今川氏を裏切る。

怒った今川氏真は経済制裁として近隣諸国に甲斐への塩の輸出を禁止するのだが、それを知った謙信は甲斐へ塩を輸出した。

1568年 越中の一向一揆と椎名康胤が武田信玄と通じた為、これを討伐しに行く。

が、決着つかず。

 

本庄繁長の乱
上杉家家臣の本庄繁長が武田信玄と通じ、越後で謀反を起こすが無事にこれを鎮圧する。

 

北条氏と同盟を結ぶ

武田と北条が同盟破棄となり、北条氏康が謙信に同盟を申し入れた。

 

この後、北条氏康の七男・氏秀が謙信の養子となる。

1570年 謙信』の名前を称したのはこの年。
1571年 越中へ出兵

2万8千人の兵を率いて出陣。

椎名康胤が籠もる富山城ほか新庄城、守山城などを落とす。

 

この年、北条氏康が死去。

跡を継いだ北条氏政に同盟を破棄され、また北条氏と敵対関係となる。

1572年 尻垂坂の戦い

武田信玄と通じている加賀、越中の一揆衆が越中で大暴れし、富山城など上杉方の城を落としていった

これを駆逐すべく越中に出兵、無事に勝利を飾り一揆衆を蹴散らした。

 

 

織田信長と同盟を組む
信長包囲網に危機感を抱いた信長から同盟の申し入れがあり、謙信が同意した。

1573年 越中の一向一揆討伐

椎名康胤がまた兵を起こして上杉の支城・富山城を奪うが無事にこれを奪還する。

 

この年、武田信玄が死去している。

 

謙信はさらに越中を侵攻。

神保氏や椎名氏、一揆衆などを降し、越中のほとんどを支配下に置いて加賀にも着手し始める。

1574年 関東に出兵

上野や武蔵などに侵攻して北条氏の支城を落としていくが、他国の大名達の力を借りる事ができず、北条氏に大きなダメージを与えることはできなかった。

1576年 打倒織田信長を掲げる将軍・足利義昭の要請により、武田氏・北条氏との和睦に応じる。

 

本願寺の顕如と和睦する

信長に攻められていた本願寺・一向一揆勢が謙信に助けを求めてきた為、これを受け入れた。

信長の敵と同盟を結ぶことで、信長との同盟が破棄されることとなる。

 

七尾城の戦い
上洛を急ぐ謙信は能登へ侵攻。重要拠点になる七尾城を攻めるが、難攻不落だった為に落とせなかった。

1577年 七尾城攻めリベンジ。

調略により敵側の遊佐氏を上杉の味方につけて反乱を起こさせ、七尾城を落とすことに成功。

 

この後、加賀との国境に近い能登の末森城も攻略。

能登を傘元に置くことに成功した。

 

手取り川の戦い

七尾城の救援に来た織田家家臣・柴田勝家の軍勢と戦い勝利する。

1578年

上杉謙信、死去

春日山城内の厠で倒れて急死。享年49歳。

 

御館の乱

謙信の死後、後継ぎを巡って上杉家で内乱が起こる。

景勝(謙信の甥っ子で養子)VS景虎(北条家出身で養子)で争い、景勝が勝利した。

 

以後、上杉景勝が上杉家を継ぎ、豊臣秀吉の天下の時代には会津に120万石を領する大大名となる。

 

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