石田三成の家紋、旗印、兜、刀、お城について
九曜紋(くようもん)
石田三成が家紋として使っていたのは上の『九曜紋(くようもん)』です。
三成の他には細川忠興、片倉小十郎が九曜紋を使用していました。結構メジャーな家紋なんですね。
石田三成の家紋といえば『大一大万大吉』が有名ですが、実はコレ、家紋ではないのです。
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石田三成の旗印
『大一大万大吉(だいいちだいまんだいきち)』
有名な『大一大万大吉』家紋ではなく、石田三成が旗印に掲げていたスローガンであります。
一人は皆の為に、皆は一人の為に・・・そうすれば皆が幸せに暮らせる天下泰平の世になるのだ!といった意味です。
石田三成はこのような信念を掲げて関ヶ原の戦いに挑んでいたんですね。
『大一大万大吉』、図案としてもカッコ良く仕上がっていますが、何と言っても内に秘めたる石田三成の思いがカッコイイ!
石田三成の兜について
上のイラストの兜は石田三成所用『乱髪天衝脇立兜(らんぱつてんつきわきだてかぶと)』を参考にして描きました。
ドラマや映画、戦国無双の石田三成なんかもこの兜をかぶっていますよね。数ある武将の兜の中でもかなり認知度が高い一品かと思われます。
もふもふの髪の毛みたいなデザインがかなりインパクトあって一度見たら忘れられないデザインですね。
左右の大きな『天衝』と言われる飾りもオシャレでカッコイイです。
この兜の上に乗っているもふもふの毛は『ヤク』という動物の尻尾の毛でできているそうです。
※ヤクの見た目は牛・・・というかバッファローといった感じの大きな動物。
ヤクは日本に生息していないので完全なる輸入品、かなり高級&贅沢&貴重なものだったのです。
この兜は結構な量のヤクの毛を使っているみたいですし、石田三成はかなり奮発したんじゃないでしょうか?笑
関ヶ原の戦いでかぶっていたと伝わるそうですが信憑性は薄い模様。そして残念ながら実物は現存されていないとのことです。
石田三成の居城『佐和山城』について
秀吉のもとで出世を重ね、石田三成は最終的に近江・佐和山城に19万4000石を領する大名になりました。
三成はこの地に移ると佐和山城を大幅改築し、立派な天守がそびえ立つ五層のお城を築き上げました。
(一説には三層だったとも。)
三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近に佐和山の城
※島左近はめちゃくちゃ有能な武将、佐和山の城は立派なお城、三成ごときにはもったいねぇ!
と言われるぐらいに立派であったと言われております。
関ヶ原の戦いの時、この佐和山城は三成の父・正継(まさつぐ)と兄・正澄(まさずみ)が守備にあたっていたのですが、関ヶ原の主戦場で西軍の敗北が決定した後に徳川軍に攻められ落城し、城に籠る父や兄、一族はみな戦死してしまいました。
その後、三成のいた近江佐和山には徳川家康の家臣・井伊直政が入ります。
そして井伊直政の死後、佐和山には新たに彦根城が築かれます。そこが井伊家の居城となると、石田三成の痕跡を消すべく佐和山城は解体されてしまったのでした。
今現在、佐和山城跡には石碑がたっているのみ・・・、静かな山の中に石碑がポツンと建つ光景はなんとも寂しいものですね。
石田三成の刀について
石田正宗(いしだまさむね)
宇喜多秀家が石田三成に贈ったとされる刀。後に石田三成はこれを結城秀康に贈った。
※秀吉の死後、加藤清正や福島正則らが石田三成を殺害するために三成のいる屋敷を襲撃した。三成は徳川家康の加護を受けそれをまぬがれた。その後、三成が地領へ帰るのに護衛してくれたのが結城秀康。『石田正宗』はそのお礼に贈ったものとされる。
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