島津義弘のチェスト関ヶ原!敵中突破&最後まで島津の性格の癖が凄い

島津義弘のチェスト関ヶ原!敵中突破&最後まで島津の性格の癖が凄い

島津義弘の関ヶ原!敵中突破&最後まで島津の性格の癖が凄い

チェスト関ヶ原!島津義弘といえばなんたって関ヶ原の戦いで見せた『島津の退き口』と呼ばれる撤退戦が有名ね。


 

撤退戦のインパクトも凄いけど、関ヶ原の戦い開戦前から敗戦後までずっと『これが島津ですが何か?』感がブレてなくて面白いわよ〜っ!

 

そんな島津義弘の関ヶ原の戦いを最初から最後までゆるりと解説!

 

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関ヶ原の戦い勃発!その時、島津義弘は・・・

 

秀吉の死後、天下を狙う徳川家康と、それを良く思わない石田三成ら秀吉恩顧の家臣達の間で戦が勃発!

 

そう、1600年に起こった関ヶ原の戦いであります。島津義弘は・・・というと

 

 

石田三成らと戦になりそう!ワシ、上杉のいる会津攻めに行かなきゃダメだし援軍に来てくれるかな?伏見城が狙われてるの。


 

という徳川家康の要請を受け、薩摩を出立。
徳川家康の家臣・鳥居元忠の守る京都・伏見城へ到着するのですが

 

鳥居元忠

 

援軍が来るなんて聞いてない。怪しい・・・城の中へは入れられないよね。


 

と追い返されてしまいました。

 

 

この辺、石田三成派の武将しかおらんやんけ・・・。


 

徳川家康はすでに会津へ出立。ヘルプで呼ばれて来たのに、伏見城に入れないとなると行くところがない・・・。

 

島津義弘は致し方なし、とそのまま石田三成ら西軍のいる大阪へ入ったのでした。

※石田三成の恩に報いる為に、積極的に西軍に参加したとの説もあるそう。九州征伐の仕置きの際、石田三成が豊臣秀吉にとりなしてくれたおかげで島津の領地が大幅カットされる事がなかったんですって。

 

 

ヨロシクごわす。島津の兵力は1500にごわす。


 

 

ヨロシクごわす。(1500?!少なっ…。)


 

九州を代表する大名が少ない手勢で現れた事に西軍の武将達は驚いたと同時にガッカリ。

 

 

頼りないでごわす・・・


 

と言わんばかりに義弘の事を軽視したといいます。

※島津家の決定権を持つ義弘の兄・義久はこの争いにおいて静観する事を決めていた。その為、義弘は大勢の兵を連れていく事ができなかったらしい。その後も何度か援軍を頼んだけど、兄・義久は動いてくれなかった。

 

関ヶ原の戦いの開戦前、軍議の場では

 

 

敵はまだ揃っていないし戦準備も整っていない。夜襲を掛け早いとこ決着をつけると良いだろう。


 

といった策を提案するも聞き入れてもらえませんでした。

 

故・天下人秀吉の側近である都会のエリート武将達からすると

 

 

たった1500の兵しか連れてない田舎の大将が口出しするんじゃないわよ。西軍には島左近や大谷吉継という天才もいるしまかせておくれ。


 

といった感じだったのかもしれませんね。

 

間違いなく戦上手で実績もあるし、戦国屈指の最強武将と名高い島津ですが、関ヶ原の戦いでは両軍あわせて15万を越える兵がいるわけだし、石田三成らも

 

 

いいね!それでいこう!


 

なんて簡単に言えたものではなかった事でしょう。致し方なし・・・。

 

とはいえ、作戦の事で石田三成らと揉めに揉めた島津義弘は完全に機嫌をそこねてしまいました。

 

 

徳川も石田も自分勝手!もう知らん、勝手にやってろ!


 

とのことで戦を放棄。

 

島津隊は西軍の主力部隊である石田三成や宇喜多秀家隊のすぐ近くに布陣していましたが、関ヶ原の地で彼らが戦っている間何もせずに戦況をただただ見守り続けました。

 

 

なんたる頑固者・・・


 

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関ヶ原にて西軍敗北。その時、島津義弘と島津豊久は・・・

 

動かざること山の如しの島津軍・・・

 

 

東と西、一進一退のええ勝負しとるやんけ。


 

なんて思っている時にご存じ小早川秀秋が東軍に寝返り、西軍は一気に崩れ敗走する事となってしまいました。

 

西軍の武将達は次々と戦場から逃亡を開始。そしてそれを討つべく東軍の武将達は容赦なく追撃を開始します。

 

島津軍はというと、西軍東軍の武将達が入り乱れる中で退路を塞がれてしまい、ポツンと取り残され周りが敵だらけの絶望的な状況に陥ってしまいました。

 

 

こうなったら戦うのみ!島津の意地見せたれや〜!全軍突撃〜っ!!


 

始めは真正面から敵と戦っていた島津軍ですが、敗北の流れが覆るわけもなく・・・気づけば島津の軍勢は500にも満たないほどに減ってしまっていました。

 

 

もはやこれまで。腹を切って見事天晴れな最後を遂げてやるぞ。


 

島津義弘はいよいよ覚悟を決めました。

 

 

いや、何が何でも薩摩へ帰りましょう!大将さえ生き残れば、この戦は我々にとって勝利となります!


 

この時、柄にもなく弱気な発言をした義弘を諫めたのが、島津豊久でした。

 

島津豊久は島津義弘の甥っ子、17歳で父・家久を亡くしてからは義弘が父親がわりとなって面倒を見ておりました。

 

豊久は、武将としても立派で人情味溢れる優しい叔父・義弘をとても尊敬し慕っていたといいます。

 

豊久が関ヶ原の戦いに参加したのも最初から義弘についてきたわけでなく、『叔父上の力になりたい!』と島津義久の方針に背いて独断で大阪へやってきたのです。

 

豊久だけでなく、他の家臣もそう。

『義弘様が少ない兵で戦をするそうだ』と聞いて薩摩から一人二人…と飛び出して来たのです。

 

こうして1000名を超える薩摩武士が大阪に集結、これを入れての島津軍1500という兵力だったのです。

 

つまり、関ヶ原の戦いに集まった島津の兵士達は、島津義弘の人望のもとに集まった忠義心厚い兵士ばかり。

 

 

我々が敵を食い止めるので叔父上はひたすらに進んでください!


 

 

おまえら・・・(´;ω;`)


 

こうして、覚悟を決めた島津豊久と家臣達による必死の撤退戦が始まり、島津義弘は大胆にも徳川家康の本陣を正面突破する形で逃亡を開始したのであります。

島津の退き口!必殺の『捨てがまり戦法』で敵中突破!

 

討ち死に覚悟で戦う姿勢を見せていた島津軍の突然の逃亡・・・、この動きに徳川家康ら東軍の武将達も驚きます。

 

が、どう転んでも東軍の勝利だし多勢に無勢の島津軍であります。徳川家康も

 

 

逃げれるもんなら逃げてみな〜


 

てな感じで余裕だった事でしょう。

 

しかし、この敵中突破はただの逃亡ではありません。『捨てがまり』という島津の戦法を用いた文字通り『必死』の逃亡なのであります。

 

撤退戦にて兵を小分けにし、その一隊が死ぬまで戦って敵を食い止める全滅したら次の隊が死ぬまで敵と戦って敵を食い止める全滅したら次の隊がry....

 

という、討ち死に前提の壮絶な戦法が『捨てがまり』です。

※この『捨てがまり』の戦闘のメインは鉄砲だったんだとか。逃亡しつつ、鉄砲を持たせた兵を左右に散らばせ追撃してくる敵を攻撃、崩れたところで槍を持って突撃・・・といった感じだったそうです。

 

そしてこの島津を追撃しようとした東軍の主な武将が福島正則、井伊直政でした。

 

福島正則は

 

 

今の島津は怖いものなしの死兵!甘く見ると痛い目にあいますぞ!


 

という家臣の意見を聞き入れて追撃を断念。

本当に島津は怖いものなし状態で、徳川家康の本隊のすぐ側を突っ切って進んでいったそうです。

 

 

開いた口が塞がらないとはこの事。


 

 

家康を討ってやる!・・・なんて余裕はさすがになかったのでごわす。


 

そんな中、井伊直政の隊は徹底的に島津軍を追撃しました。

 

 

井伊直政はどんな時もゴイゴイで突っ走るスタンスで戦ってますので!


 

最初の捨てがまりとなった島津豊久らを撃破し・・・、

次の捨てがまりとなった長寿院盛敦らも撃破、グングン島津義弘の本隊に近づいていきました。

 

徳川最強・赤備え部隊の大将であり、強気な姿勢で突っ込んでいく戦い方が魅力的な井伊直政…しかし今回ばかりは運が無かったか、

 

 

あと少しで島津義弘を討てる!


 

という所で島津軍の鉄砲隊が放った弾を食らい落馬、大怪我を負ってしまったのであります。

 

 

直政ァァァ(´;ω;`)!!もう追撃ヤメ!島津はとりあえず放っとけばいい!


 

徳川家康もいよいよ追撃中止の命令を下し、島津軍はようやく戦場を脱し薩摩へと向かう事ができたのでした。

 

 

チェスト関ヶ原(´;ω;`)!!!!


 

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薩摩に帰国・・・島津と徳川家康の外交バトル

 

命からがら戦場を脱出した島津軍・・・。甥っ子の島津豊久はじめ、義弘を慕っていた家臣達はことごとく撤退戦で討ち死にしてしまいました。

 

無事に生き残ったのは島津義弘を含めて80人程だったといいます。

 

そこからは運よく西軍の武将に遭遇、道案内をしてもらうなどして大阪へ辿り着き、海を渡って九州の日向国に上陸、なんとか薩摩へ帰還したとのことです。

 

 

無事に薩摩へ帰国したはいいが西軍に属していた以上、島津は敗軍の将・・・。


 

処刑、追放、取り潰し、減封…、関ヶ原の戦いで西軍についた武将達の末路は悲惨なものでした。

 

 

兄さんごめんよ・・・。


 

 

こういう事になるから上方の戦に関りたくなかったんだよ。このおバカ・・・。


 

島津義弘はやむを得ず西軍についたうえ、結局どっちつかずで誰の味方もしてないし兵を動かさなかった。

そんな中で家臣を大勢死なせてしまっただけでも辛いのに、重い処罰を受けるかもしれない。

 

冷静に考えるとこの状況はかなり憂鬱・・・。

 

 

けどこんな状況でも強気でいくのが島津節!!


 

 

こうなってしまったからには島津の軍事力と外交テクニックで乗り切るぞっ!


 

ここからも島津の本領発揮、とことん島津は強気でいきます!

 

まず、徳川との戦を想定して軍事を強化。国の守りを固め、いつ戦になってもOKの万全の態勢をとりました。

 

そして徳川家康の使者が 島津義久に降伏勧告をしてきた時には、

 

 

島津家は徳川に敵対してないし、そもそも関ヶ原での戦に関わってない。

 

全部弟の義弘が勝手にやったこと。島津家の意向ではないから責任は島津家にないし、ワシが家康に頭を下げる理由がない。


 

と降伏を断固拒否しました。

 

 

(島津が取り潰しにあうかもしれないというのに何でこんな威圧的なんだよ…)


 

 

(勝算があるからでごわす・・・)


 

兄・義久が強気に構える一方、島津義弘は関ヶ原の戦いで因縁のある井伊直政に和平交渉の協力を頼み、家康への謝罪に努めました。

 

撤退戦で井伊直政の追撃に苦しめられた島津義弘と、島津軍の鉄砲隊の攻撃を食らい大怪我を負った井伊直政ですが・・・、

 

 

戦が終われば憎しみ合う理由もない。力になってはくれまいか?


 

 

義弘殿ほどの英雄に頼られるなんて…こんなに嬉しい事はないぞ!


 

昨日の敵は今日の友達、二人の間にはわだかまりなど全くありませんでした。

 

そして義弘は

 

 

徳川に呼ばれて来たのに伏見城で追い返されたから止むを得ず西軍に与する事になった。
ワシが西軍についたのは徳川に逆心があったからではない。


 

と自分の行動に非がないことを説きました。

 

 

事実、関ヶ原で島津軍は兵を動かしてないし、撤退戦以外で東軍に攻撃を加えておりません。義弘殿に罪はない、お許しになってください。


 

 

(うーん…)

 

わかった。島津は無罪、所領もそのまま安堵しよう。


 

井伊直政の助力もあり、島津は西軍メンバーでは異例のお咎めなしという結果に終わりました。島津の完全勝利です。

 

 

(こうなると思ったのでごわす)


 

島津は関ヶ原の戦いで主力部隊を動かしていないから戦力は温存されたまま、まだまだ戦える。
家康が島津を許さず、九州で戦を続けるとなると長期戦になる可能性も大いにあるし、

 

 

島津は悪くないって主張してるのに、家康は島津を潰そうとしてる。


 

と他の大名達から反感を買う可能性もあります。

 

そしてなにより、関ヶ原の撤退戦で見せた島津の尋常ならざる戦いっぷりは世に知れ渡っており、島津と積極的に戦いたがる大名なんかいないのであります。

 

 

許さざるを得ないよね。色んな意味で島津は強い…。


 

島津の鉄のメンタルや家臣たちとの絆、異様なほどの忠誠心のもとに発揮される薩摩武士の強さには家康もたじたじ。

 

徳川の脅威となる者にはなにかとイチャモンつけて潰しにかかっていた家康ですが、島津だけはどうにも手出しできなかったようですね。

 

あと何が凄いって、関ヶ原の戦いの時点で義弘は65歳というなかなかの老齢だったという事…。

 

 

島津の強烈な存在感よ。
我々が九州じゃなくて日本の中心にいたなら、大分歴史が変わっていたかもね。


 

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