島左近の関ヶ原の戦い!三成を支え続けた最強武将の最後が熱い!
石田三成の名参謀役、島左近!
豊臣秀吉の死後は悩める石田三成の為に知恵を絞り、関ヶ原の戦いではその命尽きるまで勇猛果敢に戦った…!
ここではそんな島左近の『出来る男感』や石田三成への思いが垣間見得る、『島左近の関ヶ原の戦い』をゆるりと解説っ!
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秀吉の死後、島左近が石田三成に語った言葉がカッコイイ!
1598年、豊臣秀吉が死去してすぐの事…。
石田三成は大阪城の天守閣から城下町を眺めてこう言いました。
城下はとても賑やかで栄えているな。これも全ては秀吉様が天下を治め、平和な世をもたらしてくれたおかげだ。
城下の民は皆、秀頼様の代となっても豊臣の世が続く事を願っているであろうな。
石田三成の側に控えていた家臣もこれに同意しました。
‥‥。
しかし、島左近だけは無言。
??
そしてこの後、島左近は場を移してからこのような事を石田三成に言いました。
殿は大阪の町が賑わっていると仰ってましたが、昔から王の都には人が集まると決まっているものです。
人が城下に集まるのはただ金儲けができるから、豊臣の徳とは関係ないのです。
城下を少し離れると、ボロをまといその日食べる物にも不自由する村人達がいる事をご存じでしょうか?
城下の繁栄だけを見て豊臣の世が大正義と思っているようではいけません。
未来永劫、豊臣の世である事を願うのなら民を愛し、彼らの苦しい現状があるという事を決して忘れぬよう。
巨城を築き、兵を大勢養う事だけが豊臣家の安泰ではないのです。
さすがは島左近、『三成に過ぎたるもの』と言われるだけあって石田三成の何倍も世の中を広い目で見てらっしゃいます。
目の前の現状に満足して周囲が見えないようでは豊臣家に未来はない、上に立つ者はどうあるべきか。
を主君に説いたわけですが、こうもハッキリと主君に意見できるのは石田三成の事を本当に大切に思っているからでしょうね。
石田三成が島左近を信頼し、重用していたのも納得。島左近の『出来る男』っぷりが垣間見得える名言です。
関ヶ原の戦い勃発前、島左近が三成に授けた必勝の策
城下町栄えてる~。豊臣家万歳!!
なんて言っていられたのも束の間…。
秀吉いなくなったラッキー!天下取るぞ~!
秀吉の死後、速攻で天下人の座を奪うべく徳川家康が動き始めました。
徳川家康は250万石の大大名、日本で敵なしの超大勢力です。
秀吉様の遺言に従って豊臣家を支えていこうね?決まり事は守らなきゃダメよ?
は~い…。
てな感じで、大御所大名・前田利家が争い事のストッパーとなっていたのですが、前田利家も秀吉の死からしばらくして死去してしまいました。
えらいこっちゃで…。
石田三成は、加藤清正や福島正則など、一部の豊臣家の武将達に凄まじく嫌われていました。
三成が豊臣家ででかい顔するのが気に食わない。俺ら武闘派武将の事だって冷遇するに違いない!
利家さんいなくなったし、三成ヤっちゃおうぜ。これを機にクリーンな豊臣家にしようじゃないか。
加藤清正、福島正則らは石田三成が憎いあまり凄まじい殺意を抱いて三成の屋敷を襲撃しました。
加藤らを説得できるのは家康しかいない!腑に落ちないけど助けてもらおう!
OK!助けてあげる!みんな喧嘩はやめて!
うーん。家康さんがいうなら仕方ない…。
徳川家康の仲裁によって難を逃れた石田三成ですが、アンチ三成勢の怒りを鎮める為に政権から引退させられる事となってしまいました。
ラッキー!邪魔者が一人消えたよ♪
豊臣政権の重役であった石田三成が政権から離れた事により、徳川家康はよりいっそう好き放題できるようになったわけです。
このままでは豊臣家が家康に乗っ取られてしまう…。
このような状況の時に、石田三成に必勝の策を進言したのが島左近でした。
殿、家康をヤっちゃいましょう。
えっ!!
家康は殿を追いやったばかりで安心しているのは間違いないでしょう。
今なら家康の警備も手薄、ここに攻め込めば家康を討ち取る事はたやすい事かと。
ワシは家康に命を救ってもらったばかりだぞ。それを騙し討ちするなど、そんな卑怯な事はできん。
これ以上家康の横暴が増すと、諸将は家康に屈服せざるを得なくなります。
取り返しのつかなくなる前に、悪の芽は摘んでおくべきです。
言いたい事はわかるけどダメ。そんな不義理な事をしては世間からの反感も買ってしまうし…。
石田三成は島左近の家康殺害計画を渋り続けました。
殿は何もしなくていいから。私が首謀者ならいいでしょう?パパッとやってきます。
えぇ~…。
島左近は強引に三成を説き伏せ、家康討伐計画の策を練ります。
家康は上杉攻めに出かけている…。宿泊先に夜襲をかけるぞ!
が、この動きを徳川家康が察知した為に作戦は失敗に終わってしまったのであります…。
残念なようなホッとしたような…。
石田三成は大谷吉継に
才覚はあるけど、三成には勇気が足りない。
なんて言われていますが、こういったここ一番での決断がくだせない所や、世間の反感を恐れて尻すぼみしてしまうといった所がそうなんでしょうね。
ここで本当に家康を亡き者としていたらどうなっていたのか気になるところ…。
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悔いの残る関ヶ原の戦い…!島左近の最後とは??
殿はちょっぴりヘタレ…。正直、殿ではこの先豊臣家を背負っていけると思えない…。
島左近は家康殺害にバシッと踏み切る事のできなかった石田三成の優柔不断さに失望したといいます。
しかし、
殿は所領の半分を与えてまで私を必要としてくれた。私はその御恩に報いる為、最後まで殿に尽くすぞ。
島左近は頭の良いお方、このまま徳川家康と敵対すれば破滅の道を行く事になるかもしれない…と予感しつつも、主君を最後まで支える覚悟を決めたのでした。
そしてその後…、
ついに徳川家康の横暴は極まり、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発する事となります。
島左近は関ヶ原の戦いで、石田三成率いる西軍の参謀役として働いておりました。
が、島津義弘や宇喜多秀家と作戦の事で揉めるなどのっけから不穏なムードで戦に臨む事となってしまいました。
いざ戦が始まると、完全に拗ねた島津義弘は西軍の為に軍を動かしてくれなかったし、
徳川家康に内通していた裏切者が大勢いたりと、西軍はグッダグダの総崩れとなり敗北してしまったのです。
かかれ~ッ!!
石田三成の前に布陣していた島左近は、石田軍の先鋒隊として東軍の黒田長政・田中吉政の軍勢と交戦。
徳川家康の本陣に迫るほどに奮戦したとの事ですが、乱戦の中で黒田軍の銃撃を受け戦死したと伝えられております。
家康殺害計画の時もそうですが、良い策を考え、懸命に采配を振るっても肝心の武将達が動いてくれないのでは意味がない。
関ヶ原の戦いは島左近にとって、とても歯がゆい悔いの残る戦となってしまった事でしょう。
島左近の最後と首の行方…生存説について
島左近の最後については、関ヶ原の戦いで討ち死にしたというのが定説であります。
が、島左近の首の行方はわかっておらず、本当に関ヶ原の地で討ち死にしたのかはハッキリと断定できないそうです。
鉄砲隊の攻撃を受けた後、家臣にかつがれ本陣へ連れ戻されたと伝えられているぞ。
資料によっては『関ヶ原脱出後に佐和山城で自害した』と書かれているものもあるし、『島左近は関ヶ原の戦いの後も生き延びた』と書かれているものもあります。
対馬に逃亡した。
西国方面へ逃亡した。
京へ逃亡し、1632年に死去した。
↑生き延びた説も謎が多いという…。
ようするに、島左近の最後はよくわからん!って事だな。笑
島左近の戦場での姿が伝わってくる逸話
関ヶ原の戦いで島左近は
かかれ!かかれーッ!!
と怒号をあげ指揮をとり、自らも馬を駆って槍を振り回し、敵の大将目掛けて突撃するなど凄まじい戦いっぷりだったといいます。
その時の鬼気迫る島左近の怒号は敵兵達の耳に焼き付き、黒田の武士達は関ヶ原の戦いの後も
かかれーッ!!
という幻聴、悪夢にうなされたといいます。
そして関ヶ原から数年経ち、黒田武士の間でふいに関ヶ原の話になった時も…
関ヶ原といえば島左近…。あの鬼のような形相に『かかれーっ』という声は忘れたくとも忘れられん…。
その名を聞くと、今でも身の毛がよだち気分が悪くなる…。
あの時やつを鉄砲で仕留める事ができなんだら、我らは今ここにいなかったであろうな。
島左近の勇姿は黒田武士の記憶に強く残り、いつまでもいつまでも語り継がれていったのであります。
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