武田信玄が『野心家』『卑怯者』なんて言われるのはなぜ??
武田信玄はかなりの野心家であったと言われているのよ~!
己の勢力拡大の為なら同盟も裏切るし、人を騙す事も平気でやってのける…ってね。
戦国時代じゃ裏切りや嘘は珍しい事ではないけれど、武田信玄は父親を追放した…とか、
息子を幽閉して切腹させた…とか、結構物騒なエピソードをお持ちの方なのよね。
信玄はただただ冷酷な人であったのか?
野心からの行動なのか??
普通に卑怯者だっただけなのか??
ここではそんな疑問を解決してくれるようなエピソードを紹介しているわよ~!
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野心家の武田信玄!天下の為なら父親に対しても鬼になる!?
武田信玄の父・信虎は信玄をあまり好いておらず、次男ばかり可愛がっていたそうです。
しょっぱな切ないエピソードとしては、信玄が13歳になった時に
父上の愛馬『鬼鹿毛』を下さい。
今から乗りならしときたいのです。
他の家宝は私が武田家を継ぐ時でいいので。
と信虎に言うと、信虎は
信玄の父・信虎
うぬぼれるな。
誰が武田家をお前に継がすと決めた?
武田家はお前のものではない。
と拒否したそうな。
その他、信玄は16歳で初陣を飾ると36もの城を攻略するという活躍を見せるのですが、それでも父・信虎は褒めもせず冷たい態度をとっていたそうです。
36もの城を攻略するって普通に凄まじい武功だと思うし、むしろこれがきっかけで息子の事を見直してもいいレベル…
父・信虎がそんな感じなので
なぜ弟ばかりなのだ…
こんなに頑張ってるのに。
と信玄は思ったことでしょう。
しかし、父からは疎まれていた信玄ですが、家臣達からは
なぜ信虎様は信玄様を認めないのか!
あんまりではないか?
信玄様こそ武田家の当主になるべきお方だ!
と圧倒的な支持を得ていました。
信虎の信玄に対する態度は、家臣達の反感を買っていたのであります。
しかも信虎は信玄に対する態度が酷い他にも戦に明け暮れ、軍事費を賄うのに領民から強引に年貢を取り立てたり、
無理矢理家臣の妻を自分の側室にし、それを止めようとした家臣を斬り捨てるなどかなり乱暴な一面があったのです。
このような理不尽な事が続いた結果…
信虎様はもはや暴君、先が思いやられる。
武田家の当主にふさわしいのは信玄様だ!
ついに武田家家臣達の間で不満が爆発、信玄を当主にすべく武田信虎を甲斐から追放することになります。
そして1541年某日…
信玄は家臣達と謀り、
父上、久しぶりに今川家に嫁いだ姉にお会いしてきてはいかがでしょう??
と信虎を今川領である駿河へ向かわせ、信虎が甲斐を過ぎた頃に兵を出して国境を封鎖しました。
※武田信玄の姉は今川義元の正室
そして信虎の供をしていた家臣も、信虎を置き去りにして甲斐へササーッと退却。
信玄の父・信虎
え…??
意味がわからん…何なの?!
といった状態であっただろう信虎は忙いで甲斐へ引き返すのですが、国境を封鎖した兵は断固として信虎を受け入れませんでした。
今日からワシが武田家の当主じゃ!
信玄の父・信虎
まさか息子に裏切られるとは…。
家臣もみなワシを見捨てるなんて酷い…。
完全に甲斐から追い出されてしまった信虎は、泣く泣く今川氏を頼り駿河へ向かったのでした。
その後、信虎は二度と武田の家には戻れなかったそうです。
信玄が武田家当主になったのは家臣にかつがれたからなのか、父を憎んでいたからなのか、自分の野心からなのか…
信虎追放に至った真相は不明ですが、実の父親に対してこれはなかなかに酷い仕打ちであります。
改めて戦国時代って凄い時代だなぁ…と思わされます。
でも父親に生活費の援助はしていたのよ。
まったくもって、完全に見捨てたわけじゃないからね。
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武田信玄は息子を切腹に追いんだり同盟相手を裏切ったり
1560年…
武田信玄の同盟相手であった今川義元が、桶狭間の戦いにて討ち死に。
それ以降、今川氏は義元の子・氏真が相続するも混乱の中にあり、かつての勢いを失いつつありました。
信玄はこうした現状を見て
義元さんの跡継ぎの氏真は頼りないし、仲良くしててもいい事なさそうね。
今川の領地、攻めちゃおっかな~。
と、今川氏と決裂する姿勢を見せました。
今川義元の娘を正室に迎えていた義信は
信玄の嫡男・義信
今川義元は亡くなったとはいえ、父上の義理の兄だぞ?
武田家と今川家は家族同然、裏切るなんてダメに決まってる!
第一、私の嫁の実家だし。
こういった理由から信玄に賛同せず。
もともと親子仲が良くなかったらしいのに加え、こういったいざこざがあったので2人の関係は余計に悪化してしまいました。
ついに信玄は、
戦国の世、武田が天下を取る為には致し方ないこと。
義信はもう武田家の跡継ぎには考えられないわ。
義信を東光寺に幽閉し、妻とも強制的に離縁させてしまいました。
その後、義信は3年間も幽閉生活を送る事となるのですが、その間も義信は依然として考えを変えず今川家との友好を望んでいました。
一向に方針に従わない義信に信玄は・・
致し方なし。
腹を切れ。
ついに切腹を申し付けたのであります。
そして1567年、義信は切腹して30歳という若さでこの世を去ったのでした。
本来跡継ぎとなるはずの嫡男を切腹させるなんて余程のこと。
今川家との問題のほか、義信が信玄に対して謀反を企んでたという噂もあったようですが真相はいかに…。
なにはともあれ今川家とはこれで完全に手切れとなった。
次は…今勢いのある織田信長と同盟でも組むかな。
この後、武田信玄は勢いを増してきた終わりの大名・織田信長と同盟関係を結ぶことに決めました。
そして武田信玄の娘・松姫と織田信長の長男・信忠の婚約が成立します。
これには今川氏真もびっくりしたことでしょう。
今川氏真
織田信長は私の父親を討った憎い相手だぞ?
同盟を破棄した上にそんな男と組むとは…なんという裏切りにつぐ裏切り…!!
武田信玄の不誠実すぎる行動に今川氏真は激怒しました。
今川氏真は報復として、近隣諸国に呼びかけて信玄(の領地)に対して塩の輸出を禁じるようお触れを出しました。
つまりは現代でいうところの経済制裁、であります。
武田信玄の領地は内陸地なので自国で塩を確保できず、自業自得ながらこの制裁に苦しめられるのですが、
そこで救いの手を差し伸べたのがあの上杉謙信でありました。
塩が入手できず困ってたみたいだから、私が送ってあげたのだよ。
もちろん、お金はいただいたけどね。
『塩』と言うワードで御察しの方もいると思いますが、あの有名な『敵に塩を送る』はこの時の出来事であります。
ワシの悪どい一面と、謙信の良い一面が対照的な一件であるな。
戦国の世、裏切りは当たり前!な武田信玄は家康とも揉めていた
嫡男・義信を切腹させ、今川家とハッキリ決裂した後…
武田信玄は今川領にいよいよ攻め込みます。
ここで武田信玄は戦を有利に進める為に三河の大名・徳川家康と密約を結び、
武田は駿河!
徳川は遠江!
というふうに協力し、今川領を折半して攻め入ることとなりました。
武田信玄は駿河に攻め入ると、早々に今川氏の本拠である駿府の今川館を落としました。
そしてその後、武田軍がちょいと徳川の獲物である遠江に攻め込んじゃったものだから
えっ!
約束が違わんか?
遠江はワシらのもん…なにちょっかい出してんの?
当然ながら、徳川軍と揉めてしまいました。
ゴッメーン!誤解だよ誤解!
仲良くやりましょ。
協力しあってそれぞれで領地攻めようって話だったのに何それ…。
信玄さん信用できない…。
武田軍の行動により、早くも徳川家康との友好関係は終わる事となってしまいました。
武田信玄は織田信長とも同盟を結んでいましたが、このせいで
ワシの盟友の家康と揉めたらしいな。
武田は信用ならんわ。
自然と武田と織田の関係も悪化、松姫と信忠の婚約も無かった事になってしまいました。
というかこの頃、信玄は織田信長と同盟を結んどきながら、将軍・足利義昭の織田信長討伐作戦に参加する事を決めておりました。
※俗にいう信長包囲網に参加。武田信玄は1573年に亡くなるので結局、織田信長と戦う事はなかった。
武田信玄はあっちこっちで同盟を結んでおきながら、自分が有利になり得る状況があれば簡単に裏切る事ができる人物だったのであります。
ちなみに信玄は相模の大名・北条氏康とも同盟関係にありましたが、義元の死後に今川氏を裏切ったことで…
今川家はウチの娘の嫁ぎ先なんですけど?
皆で同盟組んで仲良くしてたじゃんか?!酷い!
北条氏を敵に回すことになってしまいました。
自業自得とはいえ、なかなかに大変な戦国ライフを送っております。
薄情、卑怯と言われても仕方がないね。
この貪欲さ、情にとらわれない行動力も武田信玄の強さの一つさ。
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