キリシタン大名、小西行長ってどんな人?商人出身?逸話や活躍をゆるりと

キリシタン大名、小西行長ってどんな人?商人出身?逸話や活躍をゆるりと

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小西行長は元商人でキリシタン大名!逸話や活躍をゆるりと

小西行長

生涯 ??~1600年
出身 山城
全盛期 肥後半国24万石
主君 宇喜多直家、豊臣秀吉、豊臣秀頼
有名な親族 小西隆佐(父)、小西如清(兄)、小西行景(弟)、宗義智(娘婿)
思い出の戦 九州征伐、朝鮮出兵、関ヶ原の戦い
小西行長といえば キリシタン大名、朝鮮出兵ではハプニングだらけ

 

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小西行長は豊臣秀吉の家臣であり、キリシタン大名だった事で有名なお方ね~!


 

そして朝鮮出兵では盛大にやらかした!

聞いてる分には面白いけど、当事者は全然笑えない大事件起こしちゃってるのよ~。

 

その朝鮮出兵のエピソードは長くなっちゃうから、今回はとりあえずジャブ程度に小西行長の事をご紹介するわね~。

ゆるりと見てってね~!

 

商人だった小西行長、出来る男すぎて大物大名にスカウトされる

 

小西行長は父親が薬屋を営む堺の豪商であったとの噂であり、行長も武士となる前は備前の商家に養子入りし、その地で商人として働いていたといいます。

 

行長はハッキリとした生まれ年も不明であり、どのような経緯で武士となったのか断定できるような史料がないみたいので多分、そうなんじゃない?ぐらいでしか語れないのですが、

 

備前の大名・宇喜多直家のもとへ商売で出入りしている所、

 

 

君、光るものがあるね。

私のもとでその才覚を発揮してはどうかな?


 

才能を気に入られ、武士に取り立てられたと言われております。

 

そして織田信長による中国征伐が行われていた時期…

 

宇喜多直家の使者として織田軍の羽柴秀吉に会った際、

 

 

君には素晴らしい才能があるっ!


 

ここでも気に入られ、秀吉に仕えるようになったとのことです。

※宇喜多直家は中国地方で力を持っていた毛利氏に味方していたけど、秀吉に接近して毛利氏の敵である織田氏に寝返っている。

 

小西行長に関しては

 

力強く智謀に秀で、色白の長身にて尋常の者と見えず

 

…なんて記録があるので、大名達に気に入られるのも納得の相当、出来る男オーラのある華やかな人物であった事が予測されます。

 

ちなみに、かつて小西行長の馴染みの場所であったと思われる堺は商業都市であり、外国との貿易が盛んな場所でありました。

 

そして港で貿易に携わる商人はその界隈の秩序を守る為に武装する事もあったし、海や船に関する知識やスキルも持ち合わせておりました。

 

行長がそういったノウハウを持っていたかは謎ですが、行長は秀吉の家臣となってからは舟奉行なる役職に任命され、水軍の将として活躍していくことになります。

 

1585年には紀州征伐、四国征伐に水軍を率いて参戦し、その後に小豆島(今の香川県に属する島)1万石を与えれました。

 

 

紀州征伐は紀伊の雑賀衆、根来衆らとの戦で

四国征伐は長宗我部元親との戦だよ~!


 

小西行長はキリシタン大名!熱心なキリスト教信者だった

 

1587年…

豊臣秀吉は九州征伐を行い、薩摩の大名・島津氏を降して九州全土を支配下に置きました。

 

小西行長もこの戦に参加、食糧輸送を行うなど、水軍を率いて活躍したとの事であります。

 

さておき、この後秀吉は…

 

 

キリスト教広まりすぎじゃない?

日本の秩序が崩壊しかねんよ?

宗教を足掛かりにした日本侵略始まってない?

そろそろ厳しく規制したほうがいいんじゃない?


 

ということで『バテレン追放令』なるものを出しました。

 

これは

 

 

個人の信仰の自由は認めるけど、大名たる者が布教活動したりと肩入れしすぎるのはアカン。

影響力の大きい宣教師も日本から出ていってもらう。


 

といった感じの事を盛り込んだ条例であり、キリシタンにとって肩身が狭くなるような政策が行われたという事であります。

 

これは小西行長にとっては結構な一大事…

 

なぜなら行長は本人に加えて父母、兄弟、妻や子供…と身内の多くもキリスト教信者という、ゴリゴリのキリシタン大名だったのです。

 

 

ちなみに私の洗礼名はアウグスティヌス!


 

同じ秀吉の家臣でキリシタン仲間の高山右近は弾圧に屈さず、所領を手放し大名の地位を失ってまでも信仰を貫いたのですが、

 

行長はそんな高山右近を小豆島に匿い、自身は現状維持で秀吉に仕える事を選びました。

 

 

でも信仰心はまっったく捨てておりません!


 

しかし実際、海外貿易で国外から人はやってくるし、余裕で宣教師も紛れていたようなのでさほどキリスト教が弾圧された感じはなかったようです。

 

小西行長と加藤清正で肥後半分こ!行長、理想の国作りで幸せ

 

1588年…

肥後一国を与えられていた佐々成政が失脚。

 

その後、肥後は小西行長と加藤清正で大きく二分して治めることとなりました。

 

 

肥後の南半分いただきました!

24万石の大名となったわけだけど、元商人であったことを考えると超出世だね。


 

ちなみに九州はキリスト伝来の土地ってのもあって、キリシタンが多い土地でありました。

 

行長は肥後に入ると、宇土という地に修道院を建設して複数の司祭と修道士を置き、

 

それに加えて各地に教会を立て、孤児院やハンセン病患者の為の療養施設も立てたんだとか。

 

 

ハァン…

肥後が私の理想とする世界に変わってゆく…素敵。


 

 

うわぁ…

俺は完全に仏教徒だし、ちょっと小西とはソリが合わんなぁ…。

 

あ、でも慈善活動に力を入れるのは良い事だな。


 

アジアの平和の為に騙し騙され…小西行長の朝鮮出兵が始まる

 

九州征伐後、関東の北条攻めを経て豊臣秀吉が天下統一を果たしました。

 

その後、秀吉は明(今の中国)の征服を目指し、その玄関口となる朝鮮へと兵を送る事を決定します。

 

この『朝鮮出兵』は明の属国であった朝鮮に

 

 

明を征服しようと思ってるので、朝鮮にお邪魔するよ。

明までの道案内、協力よろしくね?


 

といった事を求めて断られ、

 

 

ほな武力行使で突き進むしかありませんわ。


 

といった流れで始まった戦でありました。

 

小西行長はこの朝鮮出兵において、外交を任されるとともに1番隊として先陣を任されることになります。

 

この戦の主力として、めちゃくちゃ秀吉から期待されていたわけです。

 

しかし、行長本人はあまりこの戦に乗り気でなかったようです。

 

海外の大国と戦をする、という秀吉の無謀な挑戦に

 

 

上手くいくとは思えない。

莫大な費用もかかるし無益な戦だよ…。


 

なんて思ってモチベーションが上がらない武将は多分少なくなかったであろうし、

 

小西行長の場合、朝鮮と繋がりの深かった宗家と懇意だったので、朝鮮と揉めたくないという思いが他の武将達より強かったと思われます。

※小西行長の娘が対馬の大名・宗義智の妻。宗家は古くから朝鮮と貿易などを行い交流があったので、平和的な面でも経済的な面で国交が切れるのはよろしくなかった。

 

 

話し合いで解決できるのが1番いいよね!

平穏無事に戦を終わらせられるよう、頑張るぞぅ。

 

朝鮮出兵のお話は長くなるから後半に続きまーす!

後半:小西行長の朝鮮出兵!文禄の役の活躍としくじり…そして関ヶ原へ


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