直江兼続の年表&主君や父などの関係性を解説!
2009年NHK大河ドラマ『天地人』でおなじみ『愛』の武将、直江兼続!
直江兼続は戦で活躍する武闘派武将というよりかは、内政面や策略、軍師的なポジションで活躍した武将なの。
そして関ヶ原の戦い勃発時には、徳川家康の権力に屈することなく堂々と喧嘩売ったりと、なかなか強気で面白い性格の持ち主でもあるのよ~!
ここでは直江兼続の歴史がわかるようにザーッと簡単に年表でまとめてみたわよ~♪
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1560年 | 樋口惣右衛門の長男として越後で誕生。
幼名は与六。この時点では直江姓ではない。 |
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1564年 | 上杉謙信の姉・仙桃院に見出され、上杉景勝の小姓となる。
※上杉景勝は上杉謙信の養子 |
1578年 | 上杉謙信が死去。
御館の乱 上杉家の跡継ぎ争いが勃発。 |
1581年 | 上杉家家臣、直江景綱の娘・お船の方と結婚。婿入りして直江家の当主となり与板城に入る。 |
1587年 | 新発田城の戦い 上杉家家臣・新発田重家が裏切って織田軍に味方した為、許すまじと新発田氏の討伐に出た。 |
1588年 | 主君景勝と共に上洛して秀吉に謁見。従五位下の位階と豊臣の姓を与えられる。 |
1592年 | 文禄の役 一度目の朝鮮出兵に参加。 |
1594年 | 嫡男・景明が産まれる。 |
1597年 | 慶長の役 二度目の朝鮮出兵に参加。 |
1598年 | 秀吉の命令で上杉景勝は会津へ移る。
直江兼続は米沢城主となり30万石の大名となった。
この年、秀吉が死去。 |
1600年 | 4月 『直江状』を家康に送って激怒させる 徳川家康から『上杉家が謀反を企んでいる』と疑いをかけられる。それを否定する為に家康に送った超長文の書状が喧嘩売ってるような内容。
6月~7月 直江状で激怒した家康は上杉征伐の為に会津へ兵を向ける。が、石田三成が打倒徳川家康を掲げて挙兵した為に引き返す。 ※直江兼続らは徳川と戦う準備をしていたが追う事をしなかった。
9月 関ヶ原の戦い 関ヶ原の地(岐阜県)で徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍が大激突。 ※直江兼続ら上杉軍は関ヶ原の地にはおらず、長谷堂の戦いに集中していた。
長谷堂の戦い 上杉景勝の命令で最上攻めを開始、最上軍・伊達軍と戦う。 ※徳川家康が引き返したのを好機と捉え、上杉景勝は隣国の最上義光(徳川側の武将)の領地を狙った。伊達政宗は最上の援軍。
関ヶ原の戦いで西軍が敗北したのを聞くと、兼続自ら殿を務め、長谷堂から撤退して米沢城へ戻った。 |
1601年 | 関ヶ原の戦いで西軍についていた上杉家は会津120万石から米沢30万石へ減封される。
※上杉景勝は家臣をリストラしなかったのでかなりの財政難に陥った。徳川の世となってからは、米沢の城下町の建設や治水工事など土地や商業の発展に力を入れていた。 |
1614年 | 大坂冬の陣 徳川家康VS豊臣秀頼の戦。直江兼続は上杉景勝に従い、徳川方の武将として参戦。 |
1615年 | 大坂夏の陣 徳川方の武将として参戦。
この年、嫡男の景明が死去。 |
1619年 | 直江兼続、病により死去。享年60。 |
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直江兼続の生い立ち、上杉家に仕えるようになった理由とは?
直江兼続は樋口惣右衛門(ひぐちそうえもん)という武士の子で、名を樋口与六(よろく)といいました。
もともとは下級武士の家の子だったのであります。
そして樋口惣右衛門は長尾政景の家臣であり、長尾政景の妻は上杉謙信の姉・仙桃院です。
この仙桃院が、
与六は勉強熱心でとても賢い子!きっと大物になる!
と直江兼続の才能を見出し、上杉景勝の小姓としたのが始まりでした。
兼続は景勝の5歳年下で、主君と家臣というよりかは兄弟のように親しい関係にあったんだとか。
なんか人間関係がややこしいよね。笑
↓参考までに・・・
兼続と景勝と謙信の関係図
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