家康の妻・瀬名姫の悲壮感漂う生涯・・・息子・信康との悲しい最後まで

家康の妻・瀬名姫の悲壮感漂う生涯・・・息子・信康との悲しい最後まで

徳川家康 ラインスタンプ

家康の正室・瀬名姫の悲壮感漂う生涯・・・

2017年大河ドラマ『おんな城主直虎』で有名になった家康の正室、瀬名姫。


家康が今川家から独立したのを境に、瀬名姫は徳川の敵となった今川家の人間ということで不遇な人生を送ることとなります・・・。

 

瀬名姫はいいとこのお嬢様!

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家康と瀬名姫か結婚したのは1557年、家康が16歳の時であります。

 

今川家は足利将軍家とも親戚関係のある格式高いお家柄であり、三河・遠江・駿河の三国を支配下に置く大名。

 

瀬名姫はその今川家当主・今川義元の姪っ子(と言われている)なのです。とてもいい所のお嬢様であります。

 

かたや当時の家康は三河の弱小勢力、しかも今川家の人質という立場の人間。結構な格差婚ということになります。。

 

夫婦仲がどんな感じだったのかは謎ですが、子供が2人いるのでもともとは仲が悪かったわけではないのかもしれませんね。
(武家の女性なので仲が悪くても子供を産むことは必要となってくるからなんとも言えないかも。笑)

 

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正室・瀬名姫と長男を死に追いやった真相は?

 

1560年の桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にし、

 

 

脱人質のチャンス!実家へ帰るぞ!!


 

とのことで家康は駿府に戻る事なく三河・岡崎城へ帰国しました。

 

瀬名姫と2人の子供(嫡男の竹千代、長女の亀姫)は駿府で置いてけぼりをくらってしまった形になります。

 

 

殿は今川と決裂するの?2人の子はどうなるの?私達のことはどうでもいいの?


 

瀬名姫は今川側の人間であるとはいえ、家康の妻という立場。瀬名姫は今川家にとって人質も同然であり、非常に厳しい風当たりの中で生活する事となっていきます。

 

 

ワシは完全に氏真を見限った。もう今川家に戻ることはなかったのである・・・。


※今川義元の跡をついだのは今川氏真(うじざね)、有能であった父・義元と比べるとできが悪いと評される。

 

そして家康が今川氏のもとを離れて2年後、家康は織田信長と同盟を結びます。

 

織田氏といえば今川氏の敵、これを知った今川氏真は大激怒します。

 

そして瀬名姫と子供らは軟禁されることとなり、瀬名姫の両親は自害させられてしまいました。

 

直接的に家康が悪いわけではないですが、瀬名姫はさぞ家康のことを恨んだことでしょうね・・・。

 

今川家からの脱出、それでも続く瀬名姫の不幸

 

もう家康は瀬名姫と2人の子供のことはどうでもいいのか?

 

と思ってしまいますが、その後家康の家臣が今川氏真の親戚である鵜殿長照という者を生捕りにし、瀬名姫と子供らと人質交換を行いました。

 

瀬名姫と子供たちはやっと家康の元へ帰ることができたのです。

 

しかし、今川家の人間である瀬名姫は岡崎城へ入ることを許されず、城から離れた寺で生活を送ることを強いられたのであります・・・。

 

瀬名姫の息子が今川の敵と結婚・・・

 

今川家にも敵とみなされ、徳川家でも腫れ物扱いされ、なんとも寂しく辛い生活をしていた瀬名姫・・・、瀬名姫の不幸な人生はまだ続きます。

 

1567年、息子の松平信康(竹千代)が織田信長の娘・徳姫と結婚しました。

 

瀬名姫にとって織田信長は今川義元を討った憎き相手・・・、下剋上の戦国時代、仕方がないこととはいえ辛い事であります。

 

しかし、良い事もありました。

 

結婚後、信康は岡崎城城主となり瀬名姫も共に岡崎城へ入ることとなったのです。

 

 

やっと殿の元で暮らせる!息子が城主となって生活レベルも向上するしひとまず安心・・・


 

と思ったのもつかの間、なんと家康は信康と瀬名姫を岡崎城に置いて、その年に浜松城へ居城を移したのであります。

 

家康が居城を移したのは勢力拡大に向けての準備などもあるとは思いますが、またしても瀬名姫は家康の側に居られなかったのです。

 

どうにも家康には瀬名姫に対する愛情があまり感じられないように思っちゃいますね。

 

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瀬名姫と信康はなぜ家康に殺害された?

 

嫁姑問題・・・、今川VS織田という関係が尾を引き、瀬名姫と徳姫はあまり仲が良くなかったみたいです。

 

なにかと不満のあった徳姫は父・信長に

 

 

築山殿(瀬名姫)は武田と通じているの!武田と組んで織田を潰そうと企んでる!


 

と書状を送ります。

 

家康の家臣、酒井忠次は謀反の誤解を解くために信長と会見しますが、信長の怖さに腰が引けたか上手く弁明できませんでした。

 

 

瀬名姫・信康親子はワシに対して謀反を企んでいるらしいな。2人を処刑せよ。


 

 

えっ・・・


 

 

(これを拒否すれば織田と徳川の同盟は無きものとなり、織田は容赦なく徳川にも牙を向いてくるであろう・・・。

 

徳川家が生き残るには瀬名姫と信康を処刑するしかない・・・。)


 

家康は徳川家の存続を選びました。

 

そして瀬名姫は家康の家臣が手討ちにし、信康は切腹・・・、2人とも悲しい最後を遂げることとなってしまったのです。

 

瀬名姫・信康親子の殺害について3つの説

 

上には織田信長に謀反を疑われたと書きましたが、瀬名姫・信康殺害事件については若干内容が違う説もあるのです。

 

説その①瀬名姫は本当に謀反企んでいた?

瀬名姫が武田氏と通じ、織田氏を滅ぼそうとしていたのが嘘かホントか、真相は謎のまま・・・。

 

これまでの瀬名姫の境遇や織田憎しの感情を考えると、織田と十分に戦える力を持った武田と通じて復讐を考える事は十分にあり得ることかと思います。

 

説その②信長の陰謀だった?!

家康の息子・信康は、実は武勇にもすぐれ有能な人物であったと言われています。

 

織田信長はそんな信康を警戒し、後々の障害を無くすために謀反人に仕立て上げた、という説もあります。

 

説その③家康の陰謀だった?!

それは信康が有能であった為に、立場を追われる事を不安に思った家康が、信長と組んで瀬名姫と信康を謀反人に仕立てて殺害にこじつけた、という説です。

 

もし本当だとすれば、家康は実の子に対してとても冷酷ですね。

 

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しかし!信康の死を嘆くエピソードがある

 

徳川家康陰謀説をご紹介しましたが、これを否定するエピソードがあります。

 

瀬名姫親子殺害事件から何年も経ってからの事・・・、

 

酒井忠次は自分の息子のお給料アップを考えてもらえないかと家康にお願いしました。

 

これを聞いた家康は

 

 

お前にも我が子を思う気持ちがあるんだな。


 

と冷たく酒井忠次に言いました。

 

昔、瀬名姫・信康が謀反の疑いをかけられた時に弁明をしたのは酒井忠次、その時忠次は信康が謀反を企んでいないという事をちゃんと信長に訴えられなかった。

 

この一言は、

 

 

自分の息子の事となれば必死になれるんだね。
あの時もっとお前が信長にしっかりと無実を訴えてくれていたら信康も死なずに済んだかもしれなかったのに。


 

といった徳川家康の恨みのこもった一言だったのです。こう言われ、酒井忠次は自分の無責任な発言をとても後悔したそうです。

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