宇喜多秀家、八丈島へ!関ヶ原後の行方をゆるりと解説
宇喜多秀家、関ヶ原の戦いでは西軍の主力として奮戦!
がしかし、東軍の武闘派武将、井伊直政・福島正則らと戦い大健闘するも、小早川秀秋の裏切りにより西軍は敗北・・・。
宇喜多秀家は関ヶ原の戦いの後どうなったの??というと、戦場から脱出し、逃れに逃れて九州の島津氏を頼り、薩摩に落ち延びていたのであります。
が、残念ながら
九州までくれば大丈夫でしょ。
とはいかず、『島津が宇喜多をかくまっているらしいぞ』という噂が広まってしまったようで、約3年間の逃亡生活の後に幕府に捕えられ八丈島へ流罪となってしまいました。
西軍の中心人物であった石田三成・小西行長・安国寺恵瓊は、関ヶ原の戦いの後すぐ捕らえられて斬首の刑になっております。
彼らと同じ、反家康派の中心人物であった宇喜多秀家も、関ヶ原の戦いの後すぐに捕まってたのなら問答無用で同じ末路を辿っていたと思われます。
島津忠恒と前田利長が助命してくれたおかげで流罪で済んだんだよ。
見つかったのがほとぼり冷めた頃で良かった・・・。
ちなみに、大名家としての宇喜多家は滅亡しました。
秀家の二人の息子も一緒に八丈島に流罪となっております。
秀家の妻・豪姫は八丈島へ同行する事は許されず、実家の前田家に身を寄せました。
家族が離れ離れになってからは、二度と再会する事は叶わなかったそうです。
そして豪姫は秀家や子供たちを想い、誰とも再婚せず61歳で生涯を終えています。切ないですね。
会えなかったけど文通はしてたの。
そんで何十年もの間、妻の実家は食料や物資の仕送りをしてくれたんだよ。
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なんやかんやで八丈島で人生を終えた宇喜多秀家
仕送りはあったとはいえ、八丈島での生活は食べるものに困るほど貧しい時もあったといいます。
宇喜多秀家には、【悪天候でたまたま八丈島に流れ着いた舟が福島正則の家臣達で、酒をめぐんでもらった】というエピソードがあるのですが、その福島家の家臣は
あの57万石の大名だった宇喜多殿がこんなみすぼらしい姿に・・・
と切なくなったといいます。
一体どんな格好をしていたのか気になるところ・・・。
贅沢三昧の暮らしをしていたお坊ちゃまには地獄だよね。
しかし、もともと高貴な身分であった宇喜多秀家は他の罪人より優遇されていたと言われております。
よく釣りをしていた…というエピソードもあるみたいですし、そこそこ自由な行動はできていたような印象をうけますね。
もしかしたら島の女子とラブロマンス()なんかがあったかもしれないし、殺伐とした武家社会から解放されて案外心安らかに第二の人生を生きていたかも??
なんだかんだで84歳まで生きたよ~。
まさか50年も八丈島で過ごす事になろうとはね・・・。
そもそも八丈島ってどこにあるの??
八丈島は伊豆諸島の小さな島。住所的には『東京都八丈町』という場所になるらしい。
↓東京と聞くとなんとな~く嫌な感じがしないような気もするけど、遠目でみるとめちゃ遠い。交通の発達していない戦国時代にこんなところに追いやられるとか絶望・・・。
※グーグルマップより
でも現代では立派な観光地!一昔前には『日本のハワイ』とまで言われていたんだとか!
そして八丈島には『アシタバ』という植物がたくさん生えていて、これが宇喜多秀家の長生きの秘訣と言われているらしい。葉っぱや茎が食べれるんだと。
『アシタバ』はビタミン・ミネラル豊富、現代でも美容・健康に良いと大注目を浴びているらしく、青汁やらサプリメントやら、アシタバを使った健康食品が沢山あるみたい。
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肖像画が戦国時代No1?宇喜多秀家がイケメンであるとの噂
宇喜多秀家は容姿端麗、高身長の美丈夫!と評されております。
甲冑から推測される身長は約170cmだそうです。
成人男性の平均身長が160cm前後の戦国時代なら確かにイイ感じの高身長!
これでイケメンで地位もお金もあるんだから、女中達の間でキャーキャー言われていたに違いない。笑
そして何より宇喜多秀家は肖像画がイケメン!
(二度目。笑)
この世には沢山の歴史上の人物の肖像画が存在しますが、こんなに目元がピュアな肖像画は見たことがない!
カラコン女子が嫉妬するであろう大きな黒目・・・。
おそらくパッチリ目系のイケメンでしょう。
そう、こんな似顔絵を描かれる人がイケメンじゃないわけがない!笑
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楽しんでいただけたらイイネ!