黒田長政って凄いんだ!関ヶ原の戦いでは大活躍して徳川家康もご満悦

黒田長政って凄いんだ!関ヶ原の戦いでは大活躍して徳川家康もご満悦

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軍司官兵衛の息子、黒田長政をゆるりと楽しく解説!

黒田長政,朝鮮出兵,関ヶ原の戦い,エピソード

生涯 1568年~1623年
出身 播磨(兵庫県)
全盛期 筑前福岡52万石
主君 織田信長、豊臣秀吉・秀頼、徳川家康、秀忠
有名な親族・家臣 黒田官兵衛(父)、黒田忠之(長男)、長興(次男)、後藤又兵衛・母里太兵衛・栗山利安・栗山大膳(家臣)
思い出の戦 備中高松城の戦い、朝鮮出兵、関ヶ原の戦い、大坂夏の陣など
黒田長政といえば 黒田官兵衛の息子、関ヶ原では大活躍

 

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黒田長政の歴史、逸話などゆるりとご紹介

黒田長政といえばなんたって、黒田官兵衛の息子ってのが有名ね!


長政は『天下人秀吉の軍師』という偉大な父親を持っちゃったわけだけど、そんなプレッシャーに潰される事なく立派な武将に成長したのよ~!

 

豊臣家の武闘派武将として戦で大活躍!

そして関ヶ原の戦いでは外交的な面でも大活躍!

 

一家に一長政欲しい、そう思えるバランスの良い武将かも~??

 

黒田長政は豊臣 秀吉子飼いの武将!

 

豊臣家家臣として有名な黒田官兵衛・長政親子ですが、もともと官兵衛は西播磨の大名・小寺政職(こでらまさとも)に仕えていました。

 

1575年頃、官兵衛は小寺政職と共に織田信長に臣従し、羽柴秀吉の下に配属されます。

 

これにともない、官兵衛の長男だった長政が臣従の証として秀吉の人質となりました。

 

 

ちなみに幼い頃は『松寿丸(しょうじゅまる)と名乗っていたよ。


 

人質というとネガティブな印象がありますが、子供のいなかった秀吉ねね夫妻は長政の事をとても可愛がっていたそうです。

 

そしてこの時点では、あまりパッとするポジションにない黒田家ですが、

 

後に小寺氏が織田信長を裏切り…その織田信長が本能寺で死去したり…

 

という事件を経て官兵衛・長政親子は秀吉の直臣となり、豊臣家を代表する家臣になっていくのであります…!

 

 

父は軍師、俺は武闘派!


 

長政の波乱な幼少期&竹中半兵衛と黒田長政のいい話

 

1578年…、

織田家家臣の荒木村重が謀反を起こし、摂津の有岡城に籠城するという事件が勃発。

 

黒田官兵衛は単身で有岡城に出向き荒木村重の説得にあたるのですが、失敗してそのまま捕えられ有岡城の土牢に幽閉されてしまいました。

 

そんな事情があるなんて知る由もない織田信長は

 

 

官兵衛の野郎…ワシを裏切って荒木の味方についたな?!


 

と勘違い。そして

 

 

人質にとってる松寿丸、処刑しろ。


 

こう秀吉に命じました 。

長政、大ピンチ!

 

しかし、

 

 

官兵衛に何かあったのでは?

こんなの松寿丸が不憫すぎるよ。


 

 

私にお任せを。

 

信長様には偽首を差出しましょう。

松寿丸は私の家臣の屋敷でこっそり保護します。


 

竹中半兵衛がアレコレ奔走してくれたおかげで、長政は処刑を回避する事ができました。

 

 

しかし俺の身代わりで罪のない子が死んでしまった…。

父の安否も不明だし…これからどうなるの(;ω;`)


 

命拾いしたとはいえ、当時11歳だった長政にはなかなかしんどい状況であります。

 

長政がこの不安な日々から解放されるのは、この約1年後…

 

有岡城が落城したことで官兵衛は無事に救出され、それにより信長の誤解も解けたので、長政も官兵衛の元へと戻る事ができました。

 

しかし、命の恩人である竹中半兵衛はこの間に病気でこの世を去っていたという…。

 

 

半兵衛殿は危険を顧みずに息子を守ってくれた…マジ感謝…。


 

 

半兵衛さんは命の恩人、マジ一生リスペクト…。


 

長政・官兵衛親子はこの時の恩を忘れる事なく、竹中半兵衛から譲り受けた『黒餅(こくもち)の家紋を大切に使用したのでした。

 

 

ちなみに黒餅の家紋は

 

 

↑こんなのだよ。

白地に黒丸、超シンプル!


 

黒田長政の初陣が色々と大変だった件。

 

1582年、長政は父・官兵衛と共に備中高松城の戦いに参戦。

※備中高松城は毛利方の武将・清水宗治の守る城。

 

この時長政は15歳、 この一連の戦が長政の初陣でした。

 

ちなみに残念ながら、武闘派武将にありがちな

 

 

一番槍!首取ったどー!!


 

といった華やかな初陣エピソードは残っていないみたいです。

 

 

備中高松城は『水攻め』という奇抜な戦術を用いた戦だったしね。


 

 

そして『水攻め』の考案者は何を隠そう、ワシ!(秀吉様とも)


 

水攻めによって備中高松城は水没、敵は羽柴軍に包囲されて身動きとれず…

 

で羽柴軍が優位に立っていたのですが、こんな時に

 

 

本能寺で明智光秀が謀反!


 

という情報がいきなり舞い込んできたので現場は騒然。

 

 

殿が死んだ?!

どうしよう?!

備中高松城どころじゃなくない?!


 

 

(ヒェーッ。えらいことになってるぅ。)


 

 

毛利と和睦を結んでこの戦を早急に終わらせましょう!

 

すぐさま京へ戻り、明智光秀を討つのです!

さすれば天下は秀吉様のものですぞー!!


 

 

(この大事な局面を動かすだと?!親父スゲー!!)


 

ここで秀吉がスムーズかつ、的確に行動できるよう助言したのが長政の父・官兵衛でした。

 

そしてこの後、秀吉は見事に明智光秀を討ち取り大勝利を得たという。

 

水攻めというレア戦法、歴史的大事件勃発、父の活躍で秀吉が天下人候補に躍り出る…

 

色んな出来事がありました。

長政の初陣はそこそこかなり濃い…!

 

 

親父の背中でけぇ~。


 

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カッコイイ!黒田長政は父親思いの熱い武士だった

 

本能寺の変のおよそ1年後、賤ヶ岳の戦いが勃発。

※賤ヶ岳の戦い…信長亡き後、羽柴秀吉と柴田勝家が政権を巡って対立。戦にまで発展した。

 

黒田長政はこれまた官兵衛と共に戦に参加し、近江の賤ヶ岳方面へ出陣するのですが、

 

秀吉の本隊が賤ヶ岳付近にやってくる前、黒田の軍勢は敵の佐久間盛政に攻めたてられ窮地に陥ってしまいました。

 

その時、官兵衛は討ち死に覚悟で戦場に留まることを決意するのですが…、

 

 

息子を連れ、急ぎここを退くのだ。


 

長政には生き延びてもらうべく、家臣の栗山利安(善助)にこう命じました。

 

そして栗山は長政を連れ、戦場をあとにするのですが…

 

 

俺達はどこへ向かっているのだ?


 

栗山利安

 

実は…(;´・ω・)


 

一里ほど進んだところでやっと、官兵衛の命令や覚悟がどのようなものであったのかを告げました。

 

すると長政は

 

 

父を捨てて逃げる息子がどこにいるというのか!

命令であっても、こればかりは従うわけにはいかない!


 

と、すぐさまその場を引き返しました。

 

栗山もそれを止めることはなく、涙で目を潤ませ長政の後を追ったという…。

 

 

なんと天晴な心意気。

長政は親孝行者じゃ(;u;)


 

このエピソードの後の長政の活躍は描かれておりませんが、黒田軍がここで踏ん張り戦い抜いて窮地を脱したのは事実…!

 

そしてこの後、秀吉の本隊が賤ヶ岳に到着すると羽柴軍が優位に戦を展開。

 

賤ヶ岳の戦いは羽柴軍の勝利で幕を閉じました。

 

 

詳しい功績は謎だけど、俺はこの戦で武功を挙げたと伝わっているぞ。


 

そして翌年には小牧長久手の戦いが勃発。

※小牧長久手の戦い…羽柴秀吉VS織田信雄・徳川家康の戦。

 

この戦の際、長政は大阪城の留守役を務め、雑賀衆や根来衆といった敵勢力と戦い、大坂の平和を守り抜きました。

 

こういった功績で長政は、官兵衛とは別で2000石を加増されたとのことです。

 

この戦で秀吉は織田家を完全に手中に治めて確固たる地位を築いたし、秀吉の重臣である黒田家も益々安泰…!

 

 

ちなみにこの頃、俺は蜂須賀子六(正勝)の娘・糸姫と結婚しているぞ。


黒田長政、九州にお引越し!家督を継いで立派な大名に

 

1587年…

黒田長政はこれまた父・官兵衛と共に九州征伐に参加。

 

父・官兵衛は軍の指揮官となり各地を転戦。

長政もその命に従い、城攻めなどで武功を挙げたといいます。

 

そして秀吉が九州を平定した後、官兵衛は豊前中津に12万石を与えられました。

 

 

大坂から遠いし、活躍の割に石高少ないしで父は不満だったらしい。


 

豊前に移った後、秀吉に反抗的な国人達の討伐などで黒田家はしばらく大変だったみたいです。

 

そして1589年、父・官兵衛は隠居。

長政が黒田家の家督を継ぎ、豊前中津12万石の大名となりました。

 

武闘派武将として大活躍!黒田長政の朝鮮出兵

 

1590年、秀吉は関東の北条氏を滅ぼして天下統一!

 

そしてその後、秀吉は 明(中国)の征服を夢見て海外へと兵を進めました。

 

 

そう、朝鮮出兵!


 

黒田長政は1592年と1597年の二度行われたこの朝鮮出兵にどちらも参加しております。

 

1592年の文禄の役…、

豊臣秀吉は総勢30万を超える大軍を朝鮮へと送り込みました。

 

黒田長政,朝鮮出兵,関ヶ原の戦い,エピソード

上陸してからの日本軍の快進撃は凄まじく、武将達は朝鮮の地をグイグイ突き進み平壌にまで拠点を置いた。

 

黒田長政はというと、

 

5000(1万とも)の兵を率い、同じ先鋒隊である小西行長や宋義智と朝鮮の開城(ケソン)を攻略したり…

 

朝鮮軍の夜襲に合い苦戦していた宗義智の救援に駆けつけ、長政自身が怪我を負うほどに奮戦してこれを撃破したり…

 

およそ15万もの兵を率いてやってきた朝鮮・明連合軍を、宇喜多秀家や小早川隆景ら(総勢4万)と共に戦い撃退したり…

 

といった活躍をしております。

 

 

その後、日本軍は食糧難でスランプに。

明・朝鮮との戦は和睦の方向に動いて一時停戦となるぞ。


 

そして和睦の話は上手くまとまらず、1597年にまた戦(慶長の役)が勃発…

 

黒田長政は慶長の役でも、およそ5000の兵を率いて朝鮮へ渡海しました。

 

が、敵も今度は万全の態勢でスタンバイしていたので、日本軍は文禄の役の時ほどの快進撃はナシ。

 

とはいっても、黒田長政は明・朝鮮軍と戦い城を落とすなどの活躍をしています。

 

そして『蔚山の戦い』では、明・朝鮮連合軍5万に包囲され窮地に陥っていた日本軍(加藤清正ら)の為に援軍を送ったりしています。

 

長政は日本の勝利の為にちゃんと働いていたのですが、この後…

 

 

黒田軍がろくに戦ってなかった~。

ちょっとやる気が感じられなーい。


 

なんて事を奉行衆にチクられてしまい、長政は秀吉にそのことを責められてしまいました。

 

この一件で、長政と石田三成ら奉行衆との間には深~い溝ができたと言います。

 

家康大感激!黒田長政は関ヶ原の戦いで1番頑張ってた?!

 

1598年、豊臣秀吉が死去。

これによって朝鮮出兵も中断されました。

 

この約2年後に、天下分け目の『関ヶ原の戦い』が勃発するわけですが、

 

黒田長政はアンチ石田三成派であったのもあり、父・官兵衛と共に早い段階で徳川家康に接近しております。

 

接近どころか、糸姫と離縁して家康の養女・栄姫(えいひめ)を妻に迎えて徳川家と婚姻関係を結んじゃいました。

 

(ちなみに、糸姫の実家・蜂須賀家はこの理不尽で身勝手な離縁に激怒。黒田家と蜂須賀家はここから100年以上、絶交状態にあったんだとか。)

 

そして1599年には

 

 

三成が豊臣家ででかい顔してるのマジ気にくわねぇ。


 

 

殺っちまおうぜ、三成。


 

 

前田利家殿も亡くなったし、誰も我々を咎めまい。


 

 

賛成~。


 

こんな感じで豊臣家の武闘派メンバーと結束し、石田三成を襲撃す るという事件を起こしています。

 

 

(うまく逃げたがな。)


 

もちろんのこと、関ヶ原の戦いでは東軍に所属。

 

戦勃発前には小早川秀秋や吉川広家(西軍武将)などとコンタクトをとり、東軍の味方につくよう裏で働いておりました。

 

結果、彼らは無事に関ヶ原の戦いで西軍を裏切りました。

 

この裏切り組がいたからこそ、徳川家康率いる東軍が勝利できたわけなので黒田長政の功績はでかい…!

 

そして長政はこうした調略に加え、関ヶ原の戦いでも目覚ましい活躍をしております。

 

黒田長政,朝鮮出兵,関ヶ原の戦い,エピソード

黒田長政は左上らへん

 

黒田軍は先陣に立ち、戦が始まると石田三成の本陣めがけて突撃…、

 

島左近の軍勢と激戦を繰り広げ、これを討ち取る武功を挙げていたのです。

(しかし、島左近は生き延びたという説もある。)

 

この一連の長政の活躍に徳川家康もご満悦。

 

戦後、長政は

 

 

第一の功は長政!


 

と家康にベタ褒めされ、筑前福岡に52万石を与えられました。

 

 

父の全盛期を軽く超えちゃった!


 

しかし、密かに関ヶ原の混乱に乗じて天下を狙っていた(と言われている)官兵衛は…

 

 

家康様は俺の右手を握って感謝してくれたんだ~。


 

 

その時、お前の左手は何していた?

(空いてるほうの手で家康刺せよ!天下取ったらんかい!)


 

こんな逸話があるくらいなので、長政の出世を喜んでくれなかった模様。

 

 

息子の活躍がワシの野望を潰していたなんて皮肉なものだよ…。


 

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関ヶ原の戦いの後、色々と揉めていた黒田長政

 

関ヶ原の戦いの後、長政は豊前から筑前にお引越し!

 

そして黒田長政の後に豊前に入ったのは細川忠興、『天下一気が短い』と言われる武将であります。

 

黒田長政と細川忠興は同じ豊臣家家臣だし、『石田三成襲撃事件』でも一緒に行動していた仲間だったのですが、

 

長政は引っ越す際に豊前の民から年貢をごっそり取り立て、細川忠興を怒らせてしまい…

 

 

長政嫌い!

黒田の人間も総じてクソ!

黒田のやつらと仲良くする奴も許さん!!


 

めちゃくちゃ嫌われて不仲になってしまいました。

 

 

こっちだって経済的な事情があるじゃんね。

そんな怒らなくたっていいのにね。


 

そしてこの後、長政は細川家と交流があった家臣の後藤又兵衛に

 

 

細川のやつらと連絡とってるらしいじゃん?

なんなの?お前は細川家のスパイなの?


 

なんて内通を疑って出奔されるという事件も起こしています。

 

もともと長政と又兵衛は性格が合わなかったみたいですが、猛将と名高い後藤又兵衛に出奔されるのは長政にとってとても不名誉な事…。

 

なので長政は『奉公構』を出して、又兵衛を追い詰めてやったのでした。
※奉公構(ほうこうかまい)…前の主君の許可がないと再仕官できないという、武士にとって人生終了レベルの重い罰

 

なんかここらへんのエピソードを見てると、長政は結構気の強い性格してそう。折れなさそう。

 

黒田長政亡き後、黒田家はちょっぴり大変だ った!

 

戦国時代最後の戦といえば『大坂の陣』!

 

黒田長政は1614年の冬の陣では江戸で留守番を務め、

 

1615年の夏の陣は徳川家康の息子・秀忠に従って出陣しました。

 

 

残念ながら大坂の陣での俺の活躍は謎。


 

そして大坂夏の陣から8年後、56歳で病死。

 

その後、黒田家は長政の長男・忠之が継ぐことになりました。

 

 

忠之はチョイと乱暴でワガママな性格…。

当主にはふさわしくないから、三男の長興に継がせたい。


 

と長政は思っていたのですが、家臣の栗山大膳が

 

 

イヤッ!

なんで忠之様じゃないの?!死んでやるぅ!


 

と凄まじくゴネたので、忠之になったんですってさ。(超ザックリ)

 

その後、忠之は栗山大膳の諫言に腹を立てたり、ワガママな振る舞いをしたりで栗山大膳と仲違い。

 

後にお家騒動にまで発展し、

 

栗山大膳

 

忠之は幕府を倒そうと企んでますぞー!


 

幕府

 

幕府に謀反?

オイオイオイオイ黒田家どうなってんの?


 

黒田忠之

 

んなわけないでしょ。

栗山は頭おかしいから相手にしないでくださいね。


 

こんな感じで揉めて大変だったみたいです。

(最終的に忠之の言い分が認められ、黒田家はお咎めを受けなかった。)

 

 

だから忠之はダメだと…。

しかしまぁ、無事に黒田家が存続していって良かった~。


 

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