長宗我部元親の魅力的な逸話や功績、歴史をご紹介!
長宗我部元親は戦国時代の四国の覇者!
言ってみれば四国最強の武将だったわけで、そりゃあもう輝きに輝いていたわけよ~!
今回はそんな元親の魅力と歴史を少しでもわかりやすくお伝えできればと!ヒウィゴー!
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長宗我部元親は四国の大スター!でも実は遅咲きだった?
生まれも育ちも土佐南国、長宗我部元親が家督を継いだのは22歳の時…。
その頃の長宗我部家の所領は、土佐の3分の1にも満たない程度のものでした。
ここから長宗我部元親は土佐・阿波・伊予・讃岐・・・四国全域を支配する大大名となるのですが、
意外にも武士としての目覚めは遅かったようで、
戦の事なんにも知らない。
教えて。
と、家臣の秦泉寺豊後(じんせんじぶんご)に聞いたのが18歳の時だったそうで、そこからやっと兵法を学び始めたといいます。
それからは兵法書を愛読!
戦についての心得や知識なんかを豊後から積極的に学んだのだ!
そしてそんな長宗我部元親の初陣は22歳。
15歳前後の少年時代に初陣を飾る武将達が多い中で、20歳を超えてからの初陣は結構遅めであります。
ここでも元親は、
槍の突き方知らない。
教えて。
と秦泉寺豊後に聞いたそうです。
武家の跡継ぎが22歳でこれだと
この先、長宗我部家は大丈夫なんか…
と周囲は心配だったのではないでしょうかね??
(あと家臣の秦泉寺豊後って名前、寺と地名がゴッチャんなってるみたいでややこしい。)
姫若子という不名誉なあだ名…長宗我部元親はナメられていた
長宗我部元親の若い頃のあだ名は姫若子(ひめわこ)でした。
このアダ名だけ見ると、長宗我部元親の容姿は中性的で美形だったんだろうなぁ・・・なんてイメージしてしまうけど、『姫若子』とは、
うちの坊ちゃま、口数少なくて大人しい性格で頼りねぇ…
身長高いけど色白だし女みたいな軟弱野郎だわ。
長宗我部家の跡継ぎがこれじゃあねぇ…。
といった、悪口系のアダ名なのであります。
※ちなみに元親の容姿が美形であるとかイケメンであるとか、そういった記録は特に残ってないみたい。
そう、長宗我部元親は若い頃、あまりにも武将としてのオーラがなさすぎて家臣達から陰で舐められていたのです。
戦&戦&戦な下剋上の戦国時代…
大人しい性格で兵法の心得も未熟な殿様じゃ、そりゃ家臣達もガッカリしちゃうわな。
長宗我部元親、初陣で男を見せた!姫若子から土佐の出来人へ!
これといった活躍をすることなく、兵法の知識もないまま20歳を超えてしまった長宗我部元親…。
そんな元親の初陣が1560年、土佐で起こった『長浜の戦い』と呼ばれる戦でありました。
敵がおよそ2500の兵に対し、長宗我部軍はおよそ1000ほど…。
兵力差も結構あるし勝てる気しないわぁ…。
ウチの軍団、パッとした人いないしさぁ。
(オイオイオイオイ、期待の新人がここにいるではないか!)
これは元親のデビュー戦、負け戦で終わらすわけにはいかない元親は周囲の思いとは別にやる気満々でありました。
そしていざ戦が始まると…
イモけてんじゃねぇぞ皆!
ワシについてこいっ!!
元親は自ら先頭に立ち、敵を次々と槍で突き伏せていきました。
おおっ!
なんとも勇ましい戦いっぷり!!
土佐のヘタレ野郎と思っていた若殿の凄まじい活躍に家臣達は大興奮!
元親の活躍は味方全体の士気を上げ、長宗我部軍は見事この戦に勝利したのでした。
この戦いでワシは家臣から土佐の出来人と賞賛され、敵からは鬼若子と恐れられる存在になったぞ!
一領具足とは?!長宗我部元親の戦力アップの秘密
初陣での大活躍で、誰しもが認める立派な武将となった長宗我部元親…。
それからしばらくして元親の父が死去すると、元親は長宗我部家の家督を継いで本格的に土佐の統一に乗り出しました。
今現在、土佐の3分の1が長宗我部の領土…
まずは土佐一国制覇だな!
まだまだ我らは弱いし、まずは兵力アップを図らねば!
長宗我部元親は父・国親が発案した一領具足というシステムを本格的に導入する事にしました。
これはどういう事かというと、
戦が始まるよ!
農民のみんな協力頼むー!
と言った時にすぐ農民達が戦場に馳せ参じれるよう、農作業をしている傍に甲冑や槍などの武具、兵糧などを常備させていたのであります。
これにより、長宗我部家の動員できる兵力は格段にアップ!
圧倒的な兵力差で近隣の敵対勢力と戦う事ができたので、元親は順調に勢力を拡大させる事ができたのであります。
農作業に影響でちゃうのは申し訳ないけども。
農民の方々にはマジ感謝してっから。
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長宗我部元親は案外野心家?昔と性格変わりすぎ?
長宗我部元親は脱・姫若子してからは大人しいどころか、むしろ野心家となっていました。
初陣で得た自信と一領具足で得た軍事力でグイグイ四国の地を侵攻し、領土を拡大させていきます。
1575年には京周辺でかなりの権力者となっていた織田信長と同盟を結び、良好な関係を築いておりました。
信長さんから四国で頑張れやってエールもらったし、味方だと思うと怖いもんナシだわ。
四国で思う存分暴れてやるぅ!
しかし、元親が四国で勢いを増すと…
阿波の三好さんがお前に攻められて困ってるってよ。
やめてやってくれんか?
奪った領地もナンボか返したげて?
いつの間に信長さん、三好と仲良くしてたの?
ワシと三好が仲悪いの知ってたくせに…。
てか土地返せって言われても自力で奪ったもんだし、人に言われる筋合いないよね!
色々な情勢の変化もあり、信長と元親の関係が悪くなってしまいました。
織田軍は最新の装備に徹底された訓練兵がいてめちゃ強いわけですが、元親、そんなの見たことないから知らないしギラついていた元親は信長からの要求を突っぱね徹底抗戦する構えを見せました。
大人しかったあの日の姫若子はもういないのだ。
しかし、元親は結局『織田信長に逆らうとマジでヤバイ』という事を説得されてビビって降伏を申し出るなどし、信長に屈しているし、
豊臣秀吉の時代になってからは10万もの兵で四国に攻めてこられて降伏して厳しい現実を前に夢破れる事になってしまいます。
今更降伏してきても許さん。
四国へ攻め入るから待っとけや。
と言っていた織田信長が本能寺の変で亡くなったのが1582年…
それから秀吉が四国へ攻めてくるまでの約3年の間で隣国へ侵攻し、元親はほぼ四国を統一していたのですが、
秀吉に降伏した後は、領地を没収されて土佐一国のみの大名となりました。
四国では結果を出してたけど、上には上がいるというのを思い知らされたよね…。
ワシャ、鳥なき島の蝙蝠だったってワケよ。
豊臣秀吉の傘下となってからは秀吉に媚び媚びだった元親公
秀吉に降伏し、豊臣政権の一員となってからはギラギラ野心は封印…。
元親は長宗我部家の安泰を図る為、うまいこと秀吉のご機嫌をとっておりました。
ある時、二人の間でこんなやりとりがあったそうな・・・
天下人になりたいって思う??
もちろんです。でも無理でしょうね。
他の人の天下ならともかく、秀吉様ほどの英雄が天下人だとかないませんわ。
ワシには天下が狙える実力があるのにこんな時代に生まれて…
運が悪かったんだなぁ。
あざとすぎるヨイショですが、秀吉はこの元親の言葉に大ウケしてご満悦だったといいます。
そして元親は他にも土佐からクジラを一匹丸ごと大阪へ運んで秀吉にプレゼントしたりと、度肝を抜く派手なパフォーマンスで秀吉を喜ばせておりました。
ワシ、世渡り上手!
長宗我部元親、家臣への思いやりが素敵!
長宗我部元親は土佐で善政を敷いていたらしく、家臣や民たちからも愛される領主であったといいます。
そんな長宗我部元親の、温かい人柄を感じるエピソードをここでひとつ…。
天下人となった豊臣秀吉が船遊びをする時、諸大名達は岸辺に並び、秀吉を送迎するというのが決まりでありました。
そしてある時、船で戻ってきた秀吉は…
お饅頭あるよ~!
一人一個ずつでーす!
武将達に直接、饅頭を配りました。
配られた饅頭はその場で有難く頂戴するのが習わし、大名達は皆その場で饅頭を完食するのですが、
元親は饅頭の端をちぎって一口だけ食べると、場を離れて隅で待機する従者達の元へ行きました。
そして…
これは秀吉様が直に下さったありがたい饅頭だ。
お前たちにもお裾分けしようと思って持ってきたぞ。
元親は一つの饅頭を従者たちに分け与えたのでした。
長宗我部の殿様はなんと慈愛に満ちたお方なのだ…。
これを見た他の大名の従者達は元親の心使いに感心し、羨ましがったといいます。
元親の人柄が垣間見える素敵な逸話ですね。
長男・信親が亡くなってから性格が豹変したとも言われますが、やはり基本的には人情味溢れる人物だったのかな~と想像しちゃいます。
長男の話や信長、秀吉との歴史は別記事にて詳しく掘り下げてるから、興味があったら下のリンクから見てみてねん。
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楽しんでいただけたらイイネ!