お坊ちゃま大奮闘!小早川秀秋の関ヶ原の戦い!
小早川秀秋で外せないのが関ヶ原の戦い!
当サイトは関ヶ原ネタがやたら多いですが、細かい事は気にせず今回は『小早川秀秋目線での関ヶ原の戦い』をどうぞご覧ください♪
(大谷吉継の関ヶ原記事と内容が酷似している事を先にお詫びいたします。笑)
関ヶ原の戦い勃発までの経緯も知りたい!という方は【石田三成の関ヶ原!西軍はなぜ負けた?】←こちらから読むのがオススメ!
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小早川秀秋の関ヶ原事情
1600年、天下の行方を決める大戦・関ヶ原の戦い勃発!
土壇場で徳川家康率いる東軍に寝返った小早川秀秋、彼は関ヶ原の戦いが始まるにおいてどのような状況におかれていたのでしょう…??
小早川秀秋の関ヶ原事情
●小早川家は毛利氏の分家。西軍の総大将を務めるのは毛利輝元なので、流れ的には当然、西軍につくことになる。
●けど秀秋本人は毛利と血の繋がりはないし、毛利家に対して特別に忠義心はない。
●小早川秀秋は豊臣家の一族の人間。家康の豊臣家乗っ取りを阻止したいなら石田三成に味方するべき。
●西軍が勝利すれば秀頼が15歳になるまでの間、秀秋を関白の職に就かせてくれると石田三成が約束した。これはなんとも魅力的な恩賞。
●でも小早川秀秋は朝鮮出兵の時に勝手な行動をして、石田三成にチクられて秀吉に説教された恨みがある。
●徳川家康には秀吉の死後に領地を復活させてもらった恩がある。
●徳川家康から味方につくように誘われて『OK、当日は家康様の為に動きます』って言っちゃった。
●小早川秀秋が慕うねねは徳川家康に好意的。
どっちが勝つかわかんない。
どうしよう…三成にも家康にも味方につくって言っちゃった。
小早川秀秋は秀吉のご威光だけで大名に成りあがったお坊ちゃま…。
さしたる武将経験も才能もない、若干19歳の少年にはなんとも荷が重い状況であります。
頼りにしてるよぉ。
頑張るよぉ。
(とりあえず生き残れればいいのだ。様子見するっちゃ。)
(うーん、めっちゃ心配。)
関ヶ原の戦いのキーマンとなった小早川秀秋
当日、関ヶ原の地には石田三成率いる西軍8万2000、徳川家康率いる東軍7万4000、合わせて15万を超える大軍が集結しました。
このうち、小早川秀秋は1万5000という関ヶ原参戦メンバーの中でもトップクラスの大軍を率いておりました。
東軍西軍どちらにとっても、戦略の要となる重要人物だったわけです。
そして戦いの火ぶたを切って落としたのは東軍の井伊直政。
西軍の宇喜多秀家の軍勢目掛けて鉄砲を撃ち込んだ事で、関ヶ原の戦いがスタートしたのであります。
前線では東軍西軍、激しい戦いが繰り広げられるのですが、小早川秀秋はというと、すぐには動きませんでした。
どっちが優勢と言い難いい勝負…!どっちの味方につけばいいのか判断に困る~!
こんな小早川秀秋にシビレを切らしたのが徳川家康。
ヒヨんな小早川!
ワシの為に働けーっ!!
徳川家康は小早川の陣地目掛けて鉄砲を撃ち込みました。
家康が鉄砲撃ってきた!
もしかして秀秋が動かないから怒ってる?!
ヤダ怖い…!
はよ動け!!
怖ッ!・・・決めた!
秀秋は家康の味方につくぞ!
そうと決まれば突撃開始~!
隣の大谷吉継隊を潰すのだ!
満を持して小早川隊は西軍に攻撃を開始。
そしてその小早川の裏切りに便乗した脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱の四隊合わせて4500も西軍に攻撃を開始しました。
小早川が動いた!
この勝負もらったね!
やっぱりか!!
裏切りやがった!!
嘘だろ小早川!
ふざけんなよ小早川!
小早川隊と裏切り便乗組みの兵力は合わせて1万9500、この大軍の裏切りにより石田三成ら西軍は一気に形勢逆転され、敗走を余儀なくされました。
西軍の武将達は急ぎ戦場から脱出するのですが、裏切り組のすぐ横にわずか2000ほどで布陣していた大谷吉継は大軍に攻められ壊滅。
人面獣心なり。
三年の間に祟りをなさん。
(この畜生が!!小早川、お前を呪ってやるからな!!)
大谷吉継は首だけは敵にわたすまいと切腹。
小早川秀秋に凄まじい恨み節を残し、関ヶ原の地で非業の死を遂げたのであります。
やっちまったぜ。
でもこれで小早川家は安泰だね。
秀秋のおかげで家康は勝てたんだもの。
関ヶ原の戦いの後、東軍の勝利に大いに貢献した小早川秀秋は備前岡山51万石を与えられました。
ビッグになっちゃった!
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小早川秀秋の謎の死。なんだか悲しい最後を遂げた秀秋ちゃん…
土壇場の裏切りで東軍を勝利に導いた小早川秀秋…。
勝者側の人間となった秀秋はひとまず安泰なわけですが、敗北した西軍の武将達は戦場で討ち死にしたり、追放されたり、領地を召し上げられたり…と散々な末路を辿る事になります。
西軍の中心人物であった石田三成はというと、逃亡の末に捕えられ処刑される事となります。
三成は処刑確定か。
今どうなってんだろう。気になる…。
普通なら合わす顔がないと躊躇するのでしょうが、好奇心が勝ってしまった小早川秀秋は囚われの身となった石田三成を見に行きました。
そして、
よくもまぁワシの前に顔を出せたものよ!!
秀吉様の御恩に背き、我らを欺いた裏切者が!!恥を知れッ!!!!
(´;艸;)ヒッ
案の定、秀秋は三成にブチ切れられ、気まずーい思いをして無言でその場を去ったという…。
やっぱりめちゃくちゃ恨まれてる…。
秀秋が三成達を裏切ったからこうなったんだもんね…。
大谷吉継も秀秋のせいで死んだし…。
小西も安国寺のおっさんも秀秋のせいで処刑されるんだよね…。
毛利家の人達も怒ってるだろうなぁ…。
領地4分の1に減らされてたもんなぁ…。
きっと秀秋は沢山の人に恨まれてる…。
どうしよう…鬱…。
自分が西軍が負ける決定打を作り、沢山の人を死に追いやってしまった…
この責任は、若干二十歳のお坊ちゃまには大分荷が重かったようで、小早川秀秋はかなり精神を病んでいたと言われております。
そして
三年の間に祟りをなさん。
と大谷吉継が呪った通り、小早川秀秋は関ヶ原の戦いからわずか2年後に、21歳という若さでこの世を去ってしまいました。
大谷吉継と石田三成の亡霊に悩まされ発狂して亡くなったとか、
もともとかなりの酒飲みで肝臓の病気で亡くなったとか、
※小早川秀秋は12歳という若さで酒飲みとなり、グダグダな私生活を送ってねねを困らせていたそう。
毒殺されたとか、死因も諸説あるようです。
秀秋は小早川家の家臣達からすると、
前当主・隆景と血の繋がりがない
関ヶ原の戦いで毛利家を裏切って家康の味方をした
酒に溺れるダメ主君
優柔不断で小心者、上に立つ人間に相応しくない
こんな感じで抹殺される理由が十分にあるので、あながち毒殺された説もありえるような気がいたします。
ストレス・不安・鬱などでメンタルを病み、余計に酒に溺れて体がボロボロ、そんなダメ当主の秀秋を家臣達は抹殺する方向で動いた…
結果、謎の死を遂げる事に…って感じでしょうかね??
秀秋の人生の終盤最悪すぎでしょ…。
おまけ・なぜだか憎めない小早川秀秋&その後の小早川家
裏切者だの無能だの、ネガティブなイメージが強い小早川秀秋。
でもなぜか憎めない武将であります。
幼い頃からあっちこっちに養子に出され、まだまだ保護者に面倒見てもらわないといけない時期にいきなり小早川家の当主になり、
大名として未熟なまま天下分け目の大戦に巻き込まれ、保身に走って悩んで病んで…といっぱいいっぱいだったように思います。
恵まれた環境に育ってきたのに、可哀そうな子という印象。
小早川秀秋に必要だったのは、親身になって側で支えてくれる人だったのではないでしょうかね?
そういった家臣に恵まれなかった印象…。
ちなみに、小早川秀秋の正室は毛利輝元の養女が選ばれておりますが、二人の間に子はなく、小早川家は秀秋の代で断絶してしまったとの事です。
明治時代になって小早川家が復活したのはまた別のお話…。
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