真田昌幸の忠義!武田信玄・勝頼に仕えた時代をゆるりと解説!

真田昌幸の忠義!武田信玄・勝頼に仕えた時代をゆるりと解説!

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真田昌幸の忠義!武田信玄・勝頼に仕えた時代

戦乱の世を生き抜くため、臣従と離反を繰り返し名だたる大名達を翻弄してきた真田昌幸…。


 

その油断ならないやり方や節操の無さで『表裏比興の物』なんて言われちゃってるけど、武田家に仕えていた時はとっても忠義者だった…?!

 

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真田昌幸のスタートは武田信玄の人質!

 

真田昌幸は後々、コロコロと主を変えて戦国の世を乗り切っていくのですが、まず初めに仕えていたのが武田信玄でした。

※昌幸が生まれる前後の真田は、弱小勢力ゆえに信濃の土地を追われ上野へ亡命。その後、武田信玄に臣従を誓い再び信濃の地へ戻ってきた。

 

 

もともと真田は信濃小県郡真田郷という小さな土地の領主だったのよ。


 

7歳で昌幸は武田信玄の人質に出されるのですが、信玄に才能を見出され15歳の頃には奥近習衆に取り立てられるなど、他国からの人質としては異例の出世を遂げる事となります。
※奥近習衆…武田信玄の側近中の側近。六名で構成されていた。

 

近習としてどのような仕事をしていたのか詳しい記録はないようですが、若くして昌幸は人を見る目が優れており、武田信玄を感心させていたとのことです。

 

武田信玄が手柄を立てた牢人を2人召し抱えようとした時には

 

 

あの牢人衆は殿の覚えの良い人物にだけ良い顔をする。そしてそれら格上の人物が殿の怒りを買って遠ざけられたと聞けば、態度を一変させ見向きもしなくなる。

 

自分の出世の事しか考えていないような者を信用してよいものか?もっとよく調べてから取り立てるべきではないだろうか。


 

このような事を同僚たちと語っていたそうです。

 

これを聞いて信玄は、牢人たちには褒美のみ与えて召し抱えるのをやめたんだとか。

 

何が凄いってこの出来事があった時、真田昌幸は15歳。中~高校生の年齢の子が大人に混ざってこんな会話してるなんて貫禄凄い。笑

 

また、武田信玄は家臣の中から六人選出し、他の家臣達をひそかに監視させてその行動や人のナリを報告するよう命じておりました。

 

 

その六人の中にワシが入っておるのだ!


 

長所や短所
同僚との付き合い方
日々の鍛錬を怠っていないか
傲慢な所はないか
嘘はつかないか
お酒で失敗するタイプかどうか

 

…など、細かく観察させて人材雇用の参考にしていたそうです。

 

 

人は城、人は石垣…

※この甲斐の国、武田のお家を守るのは我が家臣達、武田の人間なんだよ…


 

というだけあって人を見極めるのにかなり慎重…さすが武田信玄。

 

そして後々、他国から武田家に仕官したいという者がやってきたらまず、真田昌幸(と曽根昌世・三枝昌貞)が対応してよ~くその者を観察してから信玄に仕官の申請をしていたそうです。

 

 

武田家の面接官も担当していたという事ね!


 

真田昌幸の初陣は川中島の戦い!からの目覚ましい出世!

 

真田昌幸の初陣は1561年の第四回・川中島の戦いでした。

 

川中島の戦いは武田信玄と上杉謙信の間で五回も行われた戦…、真田昌幸は奥近習衆として武田信玄の本陣を守るお役目を果たしたとの事です。

 

 

第四回目の川中島合戦はかなり激しい戦だった…。奥近習の仲間が一人、殿を守り討ち死にしたぞ。


 

そしてこの後、昌幸は信玄の母の実家の一族・武藤家の養子となりました。

 

武田信玄の家臣の多くは甲斐出身、真田昌幸は信濃出身でしかも人質という身分…。

 

そこから側近になるだけでも凄い事なのに、真田昌幸は武田信玄の一族の仲間入りをしたのであります…!

※昌幸の弟・信伊(のぶただ)も武田にゆかりのある一族・加津野家に養子に入っている。

 

 

どれだけ信玄公に気に入られていたかが伺えるねぇ。


 

身分に箔が付いた昌幸は、さらにそこから武田家の奉行衆に出世!…からの、足軽大将にまで出世!

※出世した時期は定かではないようですが、1570年(23歳頃)の時点では足軽大将に抜擢されていた模様。

 

1569年の三増峠の戦い(武田VS北条)では一番槍の武功を挙げるなど、個人の武勇でも功績を残しました。

 

もう絶好調、出世街道まっしぐら!真田昌幸は武田家時代、ノリにノっていたのであります!

 

どれほどノっていたのかというと、武田信玄に

 

 

我が両眼の如き者


※曽根昌世(そねまさよ)という家臣と並んでこう称された。

 

とまで言わしめたほど。とにもかくにも真田昌幸が有能だったのは間違いナシ。

 

 

よそから武田家に仕官した人間でこんなに出世したのは真田の兄弟以外にいないんだぞっ!


 

ちなみに、徳川家康の脱糞でおなじみ三方ヶ原の戦いにも参加していたようですが、真田昌幸は本陣の警護だったので目立った活躍はなかったそうです。

 

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信玄の死…武田家滅亡…真田昌幸の運命が変わっていく

 

1573年、武田信玄が死去。

 

1575年の長篠の戦いでは、跡継ぎの武田勝頼が織田信長・徳川家康連合軍に歴史的大敗北を喫しました。

 

この戦では山県昌景、馬場晴信、土屋昌次など、武田信玄の代から仕える重臣たち、そして真田昌幸の兄・信綱と昌輝が討ち死にしてしまいました。

 

 

武田家を支える有能な家臣がことごとくいなくなるという緊急事態…


 

昌幸は武田勝頼の命で武藤家の養子を抜け、真田家に戻り兄の変わりに家督を継いで真田家当主となりました。

 

その後、武田勝頼は落ち目にある武田家の名誉挽回の為に奔走するも空回り。

 

最後の頼みであった同盟相手、北条とも縁を切られ孤立無援状態に…。

 

そして完全に武田が勢いを失くした頃に織田信長の大軍が武田領に侵攻、武田家は滅亡へと追い込まれていきます。

 

武田の家臣達が守る城は次々と落城、織田・徳川に寝返る者もいたし、勝頼を見捨てて逃亡する者もいました。

 

最後の逃亡劇の際、勝頼の側に残ったのはたった500名程だったといいます。

 

 

もはや再起不能…城を捨て安全な場所へ逃げるしか…(´;ω;`)


 

 

甲斐を捨てて上野へ逃げるのです。我々が城で戦準備を整えます。兵を整え再起を計りましょう!


 

真田昌幸は勝頼を見捨てたりしませんでした。そして真田の支城である上野国の岩櫃城へ落ち延びるよう勝頼に進言しました。

 

しかし、一部の家臣が勝頼に

 

 

真田は武田の譜代ではない…あまり信用しないほうがいいのでは…?


 

と言ったため、勝頼は昌幸の案を蹴って武田の譜代筆頭家臣である小山田信茂を頼り、甲斐の岩殿城を目指し逃亡を開始したのでした。

 

これが運命の分かれ道…。

小山田信茂は岩殿城を目前にして勝頼を裏切ったのです。

 

完全に行き場を失った勝頼一行は織田の大軍に遭遇、残った者はことごとく討ち死にや自刃し、無念の最後を遂げたのであります…。

 

真田昌幸はこの間に上野の軍勢を結集させ、戸石城という城へ入り織田軍と戦う準備を整えていたといいます。

 

 

小山田でなく真田を頼っていたら武田は滅亡しなかったのかも…?(´;ω;`)


 

新たに上野の軍勢を率いてて戦ったところで、織田・徳川・北条と敵対している武田が勝つのはかなり厳しい気もしますが、

 

多くの家臣達が勝頼を見捨てている状況で、最後まで武田の為に戦う意思を見せた真田昌幸はかなりの忠義者…!

 

この後、忠義もクソもない不義理なやり方で戦国の世を渡り歩くこととなる真田昌幸ですが、武田信玄だけは相当に尊敬し、絶対的な忠義心をもっていたそうです。

 

 

同僚と信玄公の話をしてる時、信玄公から受けた恩義を思い出して号泣した…なんて逸話もあるぐらい。


 

武田家滅亡は真田昌幸のひとつの人生の終わりと言っても過言ではないかもしれませんね。

 

真田昌幸の武田信玄との絆、大切な物を全て失ってしまった感が切ない…。

 

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