山本勘助の逸話や活躍をゆるりと!実在しない噂がある不思議な武将?

山本勘助の逸話や活躍をゆるりと!実在しない噂がある不思議な武将?

徳川家康 ラインスタンプ

山本勘助は信玄の軍師?どんな武将?逸話や活躍をゆるりと!

山本勘助

生涯 1493年?1500年?~1561年
出身 三河(愛知)もしくは駿河(静岡)
全盛期 足軽大将800貫
主君 武田信玄
思い出の戦 信濃攻略戦、川中島の戦い
山本勘助といえば キツツキ戦法、『ヤマカン』の語源との噂

 

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山本勘助の歴史、逸話などゆるりとご紹介

山本勘助は武田信玄の軍師!


 

…というイメージが強いけど、実は築城の名人で建設業を本職としていたとか、

 

そもそも実在していなかったとか言われてるぐらい謎が多くてミステリアスな武将なのよ~!

 

今回はそんな山本勘助の謎や逸話や活躍の歴史をゆるりとご紹介~!

 

山本勘助とは?『甲陽軍艦』が伝える人物像は個性的

 

あの有名な武田信玄の家臣であり、軍師として活躍してきた山本勘助…

 

割と有名な歴史上の人物なのに実在してなかったかもしれないなんて言われているのは、勘助の存在を詳しく示す史料が『甲陽軍艦』ぐらいしかなかったのが理由であります。
※『甲陽軍艦』は武田家に関する出来事や諸将の逸話などを書き記した書物。

 

 

これが江戸時代に編集されたものだから、史料としては信用しづらくてね…。


 

しかし近年、山本勘助と思わしき人物の存在を確認できる書状やお墓が見つかったという事なので、山本勘助は実在する人物とみて間違いないでしょう。

 

 

ワシの活躍を認める確固たる史料はないけど、後世に伝えられているワシの人物像や逸話はなかなか強烈だぞぅ。


 

山本勘助と武田信玄と今川義元のお話

 

山本勘助という人物はかなり個性的。

 

見た目に関しては隻眼で肌は浅黒く頬はこけ、刀傷だらけ、片足は不自由で何本か指は欠けている…という、マジでこれまでの人生で何があったんだと聞きたくなる風貌をしており、

 

若い頃から諸国を流浪して武者修行を行い、武芸や兵法、築城に関する知識を学んだということで、もの凄い知識人でありました。

 

 

強キャラ感ハンパねぇ。

ワシといえば武田家時代のエピソードばっかりになるんだけど、むしろここまでの歴史が気になるよね。


 

そんな山本勘助は三河出身とも駿河出身とも噂アリ。

 

諸国を放浪した後、

 

 

やっぱ就職するなら地元の近くがいいわぁ。


 

とでも思ったか、武田家に仕える前は駿河の今川家に仕えようと試みました。

 

しかし、

 

 

人を見た目で判断するのは良くないけどさぁ…

ちょっと…しんどいわぁ…。


 

今川義元に異様な見た目を嫌われ、士官叶わず。

 

その後は今川家家臣・庵原忠胤(いはらただたね)の元でご厄介となり、数年間パッとしない日々を過ごすこととなります。

 

そして

 

 

気づけばワシ、アラフィフ…。

このまま何もない人生終わってしまうのだろうか…。


 

と思っていたであろうある時…

 

板垣信方

 

駿河にもの凄い博識で、築城の名人がいるんですって。

その男を武田家に迎え入れてはどうでしょう?


 

 

へぇ~。

会ってみたいね。


 

武田家臣・板垣信方が信玄に勘助を推す、というまさかの幸運に恵まれて勘助は甲斐へと招かれました。

 

今川家で士官こそ叶わなかったものの、知識量ハンパない勘助は凄い兵法家、建築士として有名になっていたようです。

 

信玄と対面を果たした勘助は…

 

 

勘助の知識の深さにびっくり…。

気に入った!100貫…いや200貫で採用!


 

才能を買われ、無事に武田家に士官することとなりました。

 

これが1543年の出来事、流浪の生活を送っていたような者に与えるには破格といえる待遇でのスカウトでした。

※地域や時期によって上下するけど、銭1貫=米1石ぐらいに換算されるみたい。

 

そして後に勘助は、足軽75人を束ねる大将となり800貫の知行を与えらるほどに出世するのですが、この際、

 

 

今の私があるのは、長年面倒見てくれた庵原さんのおかげ。

お世話になったお礼を言いに行きたい。


 

との事で数日間休暇を取って駿河へ行きました。

 

そこで勘助はお礼を述べたほか、

 

 

信玄様って超良い人なんだよ~。

人を見た目で判断なんかしない、ちゃんと才能で評価してくれるんだぁ。

マジ器量でかし。


 

こんな感じで信玄をばちぼこ褒めちぎったんだとか。

 

わざわざ今川義元の家臣に

 

 

義元とは大違いだぜ!!


 

みたいな事を言いに行くとは、なかなか嫌味な所がありますね。

 

 

面接落とした事、めっちゃ根に持たれとる…。


 

山本勘助、新人家臣だけど物怖じせず意見して信玄の信頼を得る 

 

武田信玄が武田家当主となったのが1541年、甲斐一国を領していた信玄はここから信濃の攻略に燃えます。

 

1542年、信玄は信濃中部の国人・諏訪頼重を攻め滅ぼしました。

 

その後、

 

 

ウホホ!

頼重の娘むっちゃ可愛い!!


 

信玄は諏訪頼重の娘を側室にしようとするのですが…

 

家臣達

 

頼重を死に追いやったのは信玄様ですよ。

姫や諏訪家の家臣らは信玄様の事が憎くてたまらないはず。

姫を通じて報復を企てるやもしれないし、そんな危険人物を側室にするなどダメです。


 

こう言った理由から、家臣達に反対されてしまいました。

 

しかし、勘助だけは

 

 

私は賛成です。

今や殿は世に隠れなき名将…

力の及ばない諏訪家の者らが、この期に及んで殿に報復を試みるなどあるはずがない。

むしろ姫が殿の側室となり子を授かれば諏訪家は超安泰、喜んで武田家に忠勤を励む事でしょう。


 

このように説き、信玄を支持しました。

 

 

だよね!

だよねだよね!

DAYONE~!

勘助ってばめっちゃ信用できる!

今後もワシの頼りになってくれよな!


 

信玄は勘助の言葉を聞いて大喜び、これを機に凄まじい信頼を寄せることとなったそうな。

 

ちなみにこの諏訪頼重の娘は後に信玄の子を産み、その子は信玄の跡継ぎとなっております。

 

 

俺の事だぜ。


 

山本勘助の武田家での働きはどんなものだったのか?

 

山本勘助は始め、その見た目と経歴の怪しさから一部の武田家家臣達に疎まれることもあり、それ故、

 

 

流浪の生活を送ってきたような者がいきなり軍議に参加するとなると、譜代の家臣達は不満に思うだろうな…。


 

という理由で、兵法の知識が人よりす優れているにも関わらず、軍議に顔を出すことを許されなかったそうです。

 

でも才能は認められていたので、勘助は軍議に必要な資料作成や、敵の情報収取に分析、戦場となる地図作成や兵糧の計算など、軍議の下ごしらえなるお仕事をしていた…とのことであり、

 

この勘助の準備した資料や作戦を参考に、軍議が進められていた…とのことであります。

 

そして勘助の講じた策が武田軍のピンチを救ったり、勝利をもたらすなどしたので、勘助は徐々に武田家家臣達に認められるようになったといいます。

 

ちなみに軍師というイメージが強い勘助ですが、戦場での活躍もちゃんとあります。

 

武田信玄の長年にわたる信濃攻略戦では城攻めなどで功をあげたり、武将達の相談役となったり、戦場視察して作戦考えたり…と確かな活躍を見せていた模様。

 

 

ここでワシの貴重な戦場エピソードを一つ!


 

勘助が活躍した戦で有名なのが1550年に行われた戸石城攻め、北信濃の国人・村上義清との戦であります。

 

武田軍は戸石城を攻めるも思いのほか苦戦、そこに敵の援軍がやってきたのでさらに打撃を受けて追い込まれてしまいます。

 

そして

 

 

先鋒隊大崩壊で大事な家臣も討ち死に!

武田軍大混乱で大ピンチ!

ええいっ、無傷である本隊を投入するぞ!


 

という緊迫した場面で咄嗟に策を練り上げ実行したのが山本勘助…!

 

 

お待ちを!

私が村上軍を引きつけますので、その間に乱れた兵を立て直して下さい!

反撃に出るのはそれからです!


 

勘助は兵50騎を率い、武田軍の陣営から500mほど離れた場所に布陣しました。

 

すると勘助の目論見通り、それを見た村上軍は攻撃目標を勘助へと変え、勘助がいる方へと移動を開始しました。

 

 

勘助のおかげで兵を立て直す時間ができた!

いざ反撃!


 

こうして武田軍は村上軍を蹴散すことができ、窮地を脱したのであります。

 

 

ワシの策と勇気が武田軍を救ったのだ。

とは言っても、武田軍のボロ負けといえる悲惨な戦であったが…。


 

 

でも翌年、再度出兵して無事に村上義清に勝利したぞ。

戸石城も武田のものとなったのだ。


 

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川中島の戦い始まる!その重要拠点となる城を築いたのは勘助

 

苦戦することもあったけど、無事に村上義清を降し、

 

 

信濃国内でワシに敵うもんなんておらんし。

信濃はもうすぐワシのもの♪


 

といった感じで武田信玄の信濃攻略は順調に進んでおりました。

 

しかし、信玄に土地を奪われた村上義清ら信濃国人が

 

 

信玄に土地奪われました!

助けて下さい!


 

と、越後の上杉謙信(この時まだ長尾姓)に助けを求めたのをきっかけに、信玄の信濃攻略戦は新たなるステージへと突入することになります。

 

 

困ってる人を放っておくことはできないよね~。

それに信濃に隣接する越後の平和も脅かされているわけで、他人事じゃないのですよ。


 

上杉謙信は信玄が奪った信濃の地を取り返すべく、信濃へと兵を進めることに…。

 

こうして始まったのが『川中島の戦い』であります。

 

 

なんと、信玄様と謙信はおよそ12年の間に5度も川中島で相まみえる事になるのだ。


 

1553年…

一度目の川中島の戦いは謙信がいくらか武田軍の守る城を落とすも、その後は派手に戦う事なく、お互い様子見程度で軍を引き上げて終了。

 

1555年…

二度目は上杉謙信が京へ行っているという噂を聞き、

 

 

今がチャンス!


 

と信玄が再び川中島の方へと侵攻を開始。

 

その後、謙信がまた信濃へやってきますが、睨み合いをしつつ小競り合いが起こるのが長期間続き…

 

 

ダレてきたし戦終わらせたい。

義元さんに謙信との仲を取り持ってもらおう。


 

 

…と言ってますが?


 

 

信玄が奪った土地を元の領主達に返してくれるならいいよ。


 

 

わかった、返します。


 

今川義元の仲介をもって終了となりました。

 

1557年…

三度目は信玄が約束を破って再び信濃へと侵攻、

 

これまた上杉謙信がまた川中島へとやってきますが…

 

 

動かざること山の如し。


 

信玄動かず、戦にならないので謙信が越後へと引き返して終了。

 

 

なんやかんや上手く上杉謙信をかわし、信玄様は信濃を攻略していったのである。


 

そして1560年…

 

 

川中島に揺るぎない拠点、作りたいなぁ。


 

ということで、武田信玄は川中島に新たな城を築かせました。

 

お城の名前は海津城、築城したのは山本勘助であります。

 

これを知った上杉謙信は…

 

 

元の領主に返すって言ったし、仲直りもしたのに。

全然約束守らないよねぇ。

 

城まで築いて、なんとも強引で不義理な事!


 

またまた川中島へと兵を進め、4度目の戦が起こるのであります。

 

山本勘助、渾身のキツツキ戦法が不発。川中島で最期を遂げる

 

1561年…

上杉謙信は兵1万3000を引き連れ、善光寺に到着。

 

そのうち5000を補給確保の為に残し、主力8000で海津城を見渡せる妻女山に布陣しました。

 

一方、謙信襲来を聞いた信玄は甲府を出立、兵2万で茶臼山に布陣しました。

 

上杉軍は海津城と茶臼山の武田軍に挟まれてる形になりますが、これといって焦る事もなく迂闊に行動に出る事はありませんでした。

 

 

上杉軍に動きなし。

一旦海津城に入るぞ。


 

武田軍がこうした動きを見せるも上杉軍は動じず、しばらく海津城と妻女山で睨み合いが続くことになります。

 

こうした膠着状態が続く中…

 

武田家家臣達

 

兵数はこっちが上、上杉軍相手にいつまでもヒヨってられるか!

そろそろ攻撃に出るべき!


 

先に動いたのは武田軍でした。

 

川中島の戦い4

千曲川と犀川の間にある三角地帯を川中島と呼ぶ。

 

これまで決着のつかなかった上杉謙信との戦…

 

 

謙信は一筋縄じゃいかないだろう。

何かいい策はないかな?


 

 

キツツキは木をつつき、驚いてでてきた虫を捕えて食う。

 

…これでいきましょう。


 

 


 

 

軍を分けて一隊が妻女山に奇襲をかけ、驚いて逃げる上杉軍をもう一隊が退路となるであろう八幡原で待ち伏せし、殲滅する…

 

そういう事ですね?!


 

 

そう、名付けてキツツキ戦法!


 

 

イイネ!


 

必勝の策を献上したのが山本勘助でありました。

 

 

ウフフ。

上杉軍の皆、ビックリするだろうなぁ( ^^)


 

夜、馬場信春ら1万2000がひっそりと妻女山へ向かい…

 

武田信玄率いる8000が八幡原へと向かい、上杉軍を叩くべくスタンバイしました。

 

しかし、

 

 

なんか海津城の様子がおかしいね。

いつもより煙が多く上がってる…

きっと今夜、武田軍が動くよ。


 

上杉謙信がこの武田軍の動きを察知。

夜の闇と霧に紛れてサッサと妻女山を引き払い、信玄の本隊がスタンバイしている八幡原へと兵を進めました。

 

妻女山攻撃隊はこの上杉軍の動きに気づけず、

 

信玄本隊も濃霧により上杉軍の接近に気づかず…

 

 

なんか…

凄まじい数の人馬の響きが…。


 

 

まさかそんな…。


 

朝方、信玄達の目の前に上杉軍が現れ、逆に奇襲を受ける形となってしまいました。

 

 

大ピンチ!

妻女山の別隊が今に駆けつけてくれるはず、それまでふんばるのだ!


 

勘助のキツツキ戦法は不発に終わり、そればかりか味方を大いに苦しめることになってしまい…

 

 

ワ、ワシのせいじゃ…。

殿にはなんとしてでも生き延びてもらわねば…!!


 

責任を感じた勘助は信玄を守るべく敵中に突っ込み、戦いの果てに討ち死にしたのでした。

 

その後、武田軍の別隊が到着した事で形勢が逆転。

 

上杉軍が撤退し、4度目の川中島の戦いは終了となりました。

 

両軍ボロボロ、多くの死者がでてこれまたハッキリとした勝敗はつきませんでした。

 

しかし、勘助の築いた海津城は無事であったし、川中島の地を奪い返されずに済みました。

 

 

一応、信玄様の面目は保たれた…かな?

ワシのキツツキ戦法が決まっていれば、どんな未来になったか気になるぅ。


 

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