結城秀康とはどんな武将?あの徳川家康の息子!逸話などゆるりとご紹介

結城秀康とはどんな武将?あの徳川家康の息子!逸話などゆるりとご紹介

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結城秀康とはどんな武将?逸話や家康との関係性などをゆるりと

結城秀康

生涯 1574年~1607年
出身 遠江
全盛期 越前68万石
主君 豊臣秀吉、豊臣秀頼、徳川家康、徳川秀忠
有名な親族 徳川家康(父)、豊臣秀吉(養父)、結城晴朝(養父)、徳川秀忠(弟)、松平忠直(長男)
思い出の戦 岩石城の戦い、関ヶ原の戦いに参戦できなかった
結城秀康といえば 徳川家康の息子、将軍になれなかった男なんて言われがち

 

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結城秀康の逸話や歴史をゆるりと解説

結城秀康はあの徳川家康の次男で、義理の父親が豊臣秀吉!

どちらのパパも後に天下を取る超絶権力者ね~。


 

この方、家康の次男ということで徳川幕府の第2代将軍になっていてもおかしくなかった人物なのよね~。

 

でも様々な戦国事情によってどうにも目立ちきれない人生だったかも…?

 

結城秀康は波乱の子?徳川家康との幼少期の逸話が切ない

 

結城秀康は徳川家康の次男、と言うポジションながら幼少期は家康から疎まれていた節があります。

 

徳川家康の正室は築山殿(瀬名姫)と呼ばれる女性であり、彼女は今川義元の血縁者でありました。

 

そんな高貴な血筋の正室がいたわけですが、家康はその築山殿の侍女・お万に手をだしてしまいます。

 

その事を知った築山殿は

 

 

あの女…

侍女の分際でこの私の夫と寝るなんて許さない!!

ボッコボコにしてやるわ!


 

激怒してお万を折檻するのですが、

 

そんなお万を救って匿ったのが家康の家臣であり、その後、密かに生まれてきたのが結城秀康でありました。

 

戦国大名的に男の子の誕生はとても喜ばしい事のはずなのですが…

 

 

妻からすればワシの浮気相手の子、疎ましくて仕方ないだろうなぁ。

しかも双子とは縁起も悪い…。


 

こういった事情があったせいか、家康は生まれてきた秀康に会おうとしませんでした。

※結城秀康は双子だったそうな。昔、一度で複数の子が生まれるのは動物と同じだから…と、双子は忌み嫌われていたらしい。

 

しかし、秀康が3歳になる頃…

 

松平信康

 

父親に一度も会ったことがないだなんて、弟が不憫でならないよ。

今度父が私の城に来た時、2人が会えるように場をセッティングしてあげよう!


 

15歳年上の兄・信康の計らいでやっと対面が叶うこととなります。

 

その当日…

 

秀康は座敷で待機し、家康が部屋の襖を開けた時に

 

 

ちちうえ。


 

と呼ぶのですが、

 

 

(…もしかしてお万の子?!)


 

家康はすぐにその場を立ち去ろうとしました。

 

 

(´o`)…


 

松平信康

 

父上!

弟に見参を許されたく!


 

 

わ、わかった。

信康、そんな怖い顔するな。


 

信康の懇願により秀康はやっと家康と対面を果たし、その膝の上に抱かれたといいます。

 

 

父に様々な事情や思いがあったにせよ、一目会うのすら拒否されるなんて寂しすぎる…。


 

ちなみに、秀康は若い頃から梅毒という病を患っており、11歳の頃には腫物で顔がただれるといった症状がでていたといいます。

 

それにより醜くなった容貌も、家康が秀康を嫌った一因だった…なんて言われております。

 

 

その他にも父は『妻の恨みがこの子の顔に出てる~!』とか言ってお祓いまでさせたんだよ。

まぁとにかく、私は小さい頃父に好かれてなかったみたい。


 

結城秀康、秀吉の養子に!弟との格差を感じざるを得ない逸話

 

1579年…

結城秀康の兄・信康と築山殿が亡くなるという、徳川家にとって大きな出来事がありました。

 

家康と信康が不仲であり、関係がこじれた末に死に追いやられた…とか、

 

築山殿が信長の敵と内通して謀反を企んでおり、信長の命令で仕方なく死罪とした…とか、その死因は所説あるようです。

 

が、なんにせよ今後の徳川家の存続を考えた結果、起こった事であったと思われます。

 

家康の嫡男である信康がいなくなったとなれば、次に徳川家の跡継ぎとして名前があがるのは…

 

 

当然、次男である私!


 

……とはならず。

 

 

なんと。


 

1584年…

小牧長久手の戦い(羽柴秀吉VS徳川家康・織田信雄)と呼ばれる戦が起こるのですが、この戦はひと悶着あった後に和睦を結んで終結、

 

和睦を結ぶにあたり家康は秀吉のもとへ養子(人質の意味も込めての)を出す事になるのですが、ここで選ばれたのが当時11歳だった秀康でありました。

 

秀康には5歳年下の弟がいたのですが、家康はあえて嫡男のすぐ下の子である秀康を差し出したのであります。

 

 

弟も父の側室の子なんだけど、私の母とは別の女性で身分も上だったんだ。

お家柄が大事ってのもわかるし?

そりゃ、気に入ってる方を側に置いときたいよねぇ。


 

ちなみにこの弟の幼名は『竹千代』なのですが、これは何気に家康の幼名と同じ。

 

かたや秀康の幼名は於義丸(おぎまる)もしくは於義伊(おぎい)

 

 

この子、魚のギギに顔が似てんな。


 

という理由で名付けられた…なんて逸話があります。

 

 

弟との扱いの差よ…。

酷すぎるから信憑性ゼロの逸話であってほしいよね。


 

なにはともあれ、こういった経緯で秀康は秀吉の養子となりました。

 

この後、元服して名を『羽柴秀康』と名乗る事になるのですが、『秀康』という名前は秀吉と家康から一字ずつとったものでありました。

 

 

どちらも後の天下人、今思うと豪華な名前だねぇ~。


 

家康からは目をかけてもらえなかった秀康ですが、新しい父親となった秀吉には可愛がられ重用されたみたいです。

 

結城秀康は武勇に自信アリ。強気な性格が垣間見える逸話

 

豊臣家に養子入りしてから約3年後の1587年、秀康は九州征伐(秀吉に反抗的だった薩摩の島津氏を成敗する為の戦)にて初陣を飾りました。

 

秀康はその中の戦の一つである豊前の岩石城攻めにて先鋒を務め、立派に武功を立てたとの事であります。

 

そして1590年には小田原攻め(秀吉に反抗的だった相模の北条氏を成敗する為の戦)が行われるのですが、秀康はこちらにも参戦しております。

 

 

詳しい戦場エピソードがないん…。


 

ちなみに、秀康は豪胆な性格で、武勇に優れている系の武将であったそうな。

 

しかし、ちょっといきすぎて質の悪い気性の荒さを見せる事があり…

 

伏見の馬場で馬を走らせてる時、秀吉の家臣がせり出てきたのを

 

 

?!

誰の許しもなくこの秀康と争うなど無礼千万!


 

と斬り捨て、周囲をザワつかせた…なんて逸話が残っております。

 

いくら無礼とは言ってもいきなり酷くないか?って気がしますが、秀吉はこの話を聞いて

 

 

秀康の心意気は天晴ぞ!

我が子に対しての無礼はワシに無礼を働くのと同じ、死罪に値する!


 

と、怒るどころか秀康を褒めたんだとか。

 

 

下の者にナメられるようじゃ終わりよ。

天下人の息子に相応しく、堂々と威厳たっぷりでなきゃね。


 

秀康複雑…秀吉の死でお世話になった豊臣家がバラバラに

 

1590年の北条攻めが終わった後、秀康は秀吉の命で下総の結城晴朝の婿養子となり、結城家を相続しておよそ11万石の大名となりました。

 

 

これまで結城秀康~結城秀康~いうとりましたけど、実はここで初めて結城姓になったんですよぅ。

晴れて一人前の大名になりました。


 

そしてこの後、秀吉はもっともっと支配域を広げる為、海外へと兵を進めます。

 

 

そう、俗にいう朝鮮出兵。

私はこの時、日本軍の拠点となっていた肥前名護屋に在陣していたよ。


 

この朝鮮出兵は1592年から始まるのですが、なんやかんやあった後、1598年に秀吉の死をもって中断されました。

 

この戦は

 

 

明を征服してワシが王となる!

朝鮮も日本の支配下に置いてやるぅ!


 

…といった目的を果たせず、ただただ疲弊して終わっているし、

 

現地で活動する武将達の間で揉め事が起こり、一部の豊臣家家臣らの仲が悪くなったり…と何やら最悪な感じの結末を迎えてしまいました。

 

ここからまた仕切り直して国の政治を行っていかなくてはならないわけですが、

 

秀吉という統率者を失った豊臣家はまとまりがなく、トラブルが頻発するようになりました。

 

そんな中、人一倍頑張って豊臣家を守ろうとしていたのが、秀吉の右腕たる存在であった石田三成でありました。

 

石田三成は豊臣家一筋の仕事熱心な男であったのですが、

 

その真面目さ故か嫌われることもあり、1599年に一部の武将達に襲撃されて伏見の屋敷に逃げ隠れるという大変な目にあっておりました。

 

そしてそんな石田三成の窮地を救ったのが徳川家康…

 

家康は

 

 

三成コラァ!


 

 

逃げてんじゃねぇぞコラァ!


 

 

でてこいやコラァ!

 

 

ぶっころしたるぞコラァ!


 

と荒ぶる武将達を

 

 

三成を佐和山に隠居させるから、君たちも矛を収めてくれんかね?


 

といった感じで説得し、事態を収拾させました。

 

そしてこの後、石田三成は佐和山城へと帰ることになるのですが、この時三成を佐和山城まで護送したのが結城秀康でありました。

 

 

豊臣家を守る為に頑張ってきたのに…。

それがこの結果とは…。


 

 

わかるよ、辛いよね。

でもこのままだともっと争いが大きくなってしまうから…

 

今はこれがベストな選択なんだと思う。

とにかく、お家に着くまで三成殿は私が守るから安心してね。


 

 

キュン。

ありがとう秀康殿…。

後でお礼に刀贈るね。


 

石田三成はしばらくの間、そこで大人しく日々を過ごしておりました。

 

が、しかし、約1年後…

 

 

日本の平和の為に政治頑張ってます!

会津の上杉氏が謀反企んでるっぽいし、反抗的なので成敗してきます!


 

 

いちゃもんつけて自分の邪魔者となる有力大名を潰す気だな?!

家康は豊臣家の敵、勝手は許さんぞ!


 

家康を倒すべく三成が挙兵し、全国の大名達を巻き込んだ大戦『関ヶ原の戦い』が起こるのであります。

 

 

当然、私は徳川一族の人間だから家康に従って働く事になるよ。

豊臣家には恩があるし、ちょいと複雑かな。


 

関ヶ原の戦い勃発時、結城秀康は上杉景勝の抑えとして…

 

徳川家康は上杉景勝を成敗すべく、大軍を引き連れ会津方面へと進軍…

 

その隙をついて石田三成が大坂方面で挙兵するのですが、家康はこれを知ると、

 

 

これは一大事!

上杉の相手してる場合じゃないわ。


 

とのことで、大坂方面へと引き返すことを決めます。

 

この際、結城秀康は上杉氏の抑えとして2万の兵をもって下野の宇都宮城に残る事を命じられました。

 

 

日本各地の名だたる武将達が集結し、天下の行方を決める戦が起ころうとしてるんですよね?

 

この歴史的な大戦…私も参加したい!

お願いします!


 

 

ダメ、戦上手の上杉氏を押さえられるのはお前しかいないから。

頼んだぞ。


 

秀康は家康に戦に連れて行ってほしいと訴えたようですが、願い叶わず…。

 

この後に美濃で起こる関ヶ原の戦いに参加する事ができませんでした。

 

 

大事な任務である事はわかっているけども。

防衛担当とはいかんせん地味で退屈…。


 

秀康は不本意ながら宇都宮に滞在するのですが、しばらくして7万とも言われる上杉軍が襲来する…なんて噂がまことしやかにささやかれ始めました。
これを聞いて結城秀康は…

 

 

ワクワク!

ソワソワソワ!


 

すぐに上杉景勝に使者を送り、こんな事を伝えさせました。

 

 

家康が情勢の変化により西上したので、ワタクシ結城秀康が宇都宮で留守番することになりました。

 

が、なんとも退屈でありまして。

 

そこで一つ、退屈しのぎに私と一戦交えませんか?

 

待ってます。


 

これに対して景勝が出した返事が、

 

 

わざわざのお使いで申し訳ないのだが…

我ら上杉は謙信公以来、他家の主人の留守中に攻め入るような事はしておりません。

 

家康公がお帰りの節は、よろしく先陣にお立ち下さい。

その時はお望み通り、存分にお手合わせいたします。


 

といったものでありました。

 

 

見事にスルーされた…。

この後、上杉氏は我々に見向きもせずに東北方面の最上氏、伊達氏と戦をしていたんだとさ。


 

上杉景勝と言えば当時、120万石の大大名でありました。

 

日本トップクラスの大名に喧嘩吹っ掛けるとは、秀康はなかなかに大胆不敵で勇気のある武将ですね。

 

活躍の場に恵まれていたなら、素晴らしい武功を残す事ができていたかもしれません。

 

 

喧嘩売っといてもし負けてたら超ダサいし大問題だったろうけどね。


 

なにはともあれ、関ヶ原の戦いは徳川家康率いる東軍の勝利で終わりました。

 

上杉景勝は敗者側となり徳川家康に降伏することになるのですが、その仲介役となったのが結城秀康でありました。

 

ついでにもう一つ、結城秀康と上杉景勝の逸話

 

1603年…

徳川家康は征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開きました。

 

そしてそのわずか2年後、秀康の弟・秀忠が将軍職を譲り受ける事になります。

 

その秀忠の将軍就任祝いの席でのお話…

 

 

おや、秀康殿。

どうぞ、上座へお座りください。


 

 

いやいや、我々、同じ権中納言の官位を授けられてはおりますが、景勝殿の方が早かったですし。

先輩、どうぞ上座へ。


 

 

いやいや、秀康殿が上座へ。

今日の主役のご親族ですし。


 

 

いやいや。

景勝殿が、どうぞどうぞ


 

 

いやいや、いやいやいや。


 

 

いやいや、いやいやいやいや。


 

徳川秀忠

 

いやいやいや。

もう埒が明かないので、兄上が上座という事で。


 

こんな感じで結城秀康と上杉景勝によるハートフルな席の譲り合いがあったそうな。

 

戦となれば気性の荒さ全開で挑戦的な一面を見せたけど、秀康は礼節をわきまえて相手を立てる事ができる武将だったということで…

 

家康が

 

 

ワシの後継者、誰がいいと思う?


 

と家臣に聞いた時に秀康の名を挙げる者もいたというし、何気に周囲から一流の武将として認められていたんですって。

 

結城秀康、徳川一門の立派な大名になるも早すぎる死…

 

関ヶ原の戦い自体には参加しなかった結城秀康ですが、戦後の論功行賞で秀康は越前68万を与えられ、北ノ庄城へと移りました。

 

そして家康が徳川を名乗る前の名字である『松平』に改姓しております。

 

幼い頃は家康に嫌われていたなんてエピソードが目立っておりましたが、

 

家康による新しい時代が始まり秀康は本家を支える徳川一門の大名として堂々たる地位を確立したのであります。

(ちなみにそのまま結城姓だったとも、徳川姓を名乗ったかもしれない…とも言われている。)

 

しかし1607年…

 

結城秀康は幼い頃より患っていた病のせいか、体が弱り34歳という若さで亡くなってしまいました。

 

ちなみにこの後、越前松平家は秀康の嫡男・忠直が継ぐことになるのですが忠直は素行が悪すぎて流罪となり、豊後に追いやられてしまったという…。

 

 

何やってんだか…

お父ちゃん情けないよっ…!


 

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