前田利家と柴田勝家・豊臣秀吉との関係や仲について
1582年、本能寺の変にて織田信長死去・・・。
その後、前田利家はどのようにして徳川家康と並ぶ大大名へとなっていったのか??
また、時の天下人である豊臣秀吉や徳川家康とはどのような関係だったのでしょう??
ここでは前田利家をとりまく武将達との関係やその歴史をゆるりと解説しているわよ~!
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前田利家と豊臣(羽柴)秀吉の気になる関係とは??
前田利家と豊臣秀吉、二人はほぼ同じ年齢。
秀吉がまだ足軽だった頃から交流があったといわれており、二人は親友といえるほどに仲良しだったそうです。
二人で並んでお灸を据えて談笑していた・・・なんて微笑ましいエピソードもあるし、
利家の娘・豪姫は秀吉の養女、もう一人の娘・摩阿姫は秀吉の側室になっているなど、信頼関係だけでなく親縁関係の繋がりも濃いものがあったのです。
(自分の親友に娘が嫁ぐってどんな心境なんだろう。笑)
さておき二人は本能寺の変直前の時期、利家は北陸方面の抑えとして、秀吉は中国方面の抑えとしてそれぞれ働いておりました。
信長の存命中には二人の関係は何事もなかったのですが、信長の死後、跡継ぎ問題を巡って織田家内で派閥ができてしまったことで複雑な状況へとなっていきます。
織田家の跡継ぎを決める清須会議では、羽柴秀吉は三法師を支持、柴田勝家は織田信孝を支持します。
柴田勝家は越前を領する大名、織田家でも発言力のある重臣です。
前田利家はこの時、柴田勝家の与力にあったので柴田勝家の肩をもつ事になります。
秀吉とは親友だけど立場上仕方ない・・・。
この清須会議は結局、秀吉の思惑通り三法師を織田家当主に立てる事で決定しました。
しかしその後も、羽柴秀吉と柴田勝家の関係は改善されることなく・・・。
両者それぞれ他国の大名や武将を味方につけるべく行動し、必死で勢力を拡大させていきます。
そんなピリピリした状態が続き、ついに戦へと発展。
羽柴秀吉VS柴田勝家の『賤ヶ岳の戦い』が勃発するのであります。
前田利家のちょっと気まずい賤ヶ岳の戦い
賤ヶ岳の戦い勃発!
前田利家は柴田勝家の与力なので、ここでもおのずと柴田軍に与することとなります。
戦の規模は羽柴軍およそ5万、柴田軍およそ3万・・・!
柴田軍には佐久間盛政という腕自慢の武将がいました。
この佐久間盛政、賤ヶ岳で秀吉とぶつかる前には順調に敵の拠点を落とし柴田軍に貢献しておりました。
そんな調子のよい状態で自信満々だったか、彼は柴田勝家の
ひとまず兵を引いて休息をとりなさい。
という命令を無視。
賤ヶ岳の北にある大岩山にスタンバイし続け、羽柴軍の陣営を見据え隙を伺っておりました。
そしてこの時、羽柴秀吉は柴田勝家側の武将・織田信孝が美濃方面で挙兵したとの事で、1万5000を越える兵を引き連れ美濃の大垣城におりました。
が、
佐久間がワシらの拠点を落としてピンチ?!
よっしゃ、そっち行くわ!
との事で急遽、賤ヶ岳方面へ向かってきたのであります。
秀吉は美濃・大垣城から賤ヶ岳までの約52kmを、5時間という驚異的な速さで駆け抜けてきたといわれております。
佐久間盛政
早っ!
いつか来るとは思ってたけどこんな早いとは思わないよね!
この動きを察知するのが遅かったせいで柴田軍は秀吉の大軍と戦う事になってしまいます。
佐久間盛政
まぁでもこっちには槍の又左がいるからねっ!
(ゴメン・・・帰ります・・・)
この一大事に前田利家は戦線離脱。戦場を抜け出し自領の越中・府中城へと帰ってしまったのでした。
嘘だろ利家・・・
まさかの出来事に柴田軍全体の士気は大いに低下、奮戦するも総崩れとなり敗走してしまったのであります。
前田利家がこのタイミング戦場を離脱した理由はハッキリとわかっていないそうですが、
職場の先輩・柴田勝家と親友・羽柴秀吉の板挟みでしんどかったから逃げだしちゃった
戦況を不利と見て撤退した
関ヶ原の戦いでの小早川秀秋みたいに有利な方へ裏切った
・・・といった理由が考えられます。なんにせよ、
柴田勝家の為に最後まで戦うぜ!!
といった義理はなかったようですね。
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前田利家と柴田勝家!勝家は非常に出来た人間であった
戦線離脱し、越中・府中城へ帰還した前田利家・・・。
一方で、敗走した柴田勝家は自領である越前・北ノ庄城を目指し再起を計ります。
そしてその逃亡中、柴田勝家は前田利家のいる府中城を訪問したのでした。
びっくり&気まずい。
味方が窮地に陥ってるのに逃亡した前田利家は、柴田勝家からすると裏切り者・・・憎むべき相手となるはずなのですが、勝家はそれを責めるどころか
今まで私の下でよく働いてくれたね。ありがとう。
お前は秀吉と仲が良いから、謝ったら許してもらえるだろう。
これからは秀吉のもとで頑張るのだぞ。
私に悪いからといって間違った行動をとらないようにね。
あと湯漬けが食べたい。
と、このような感謝、ねぎらいの言葉をかけたのでした。
その後、前田利家は秀吉に投降して羽柴軍の一員となりました。
そして柴田勝家は予定通り北ノ庄城へ到着。
羽柴秀吉は、柴田勝家を討つべく北ノ庄城に兵を進めます。
前田利家は早速、羽柴軍の一員としてこの北ノ庄城攻めの先鋒隊に任命され、柴田勝家を攻める事となりました。
先の戦でボロボロになってしまった柴田軍にはまともに応戦できる力はありませんでした。
羽柴軍の攻撃により城も炎上、柴田勝家は妻・お市とともに自害し果てたのであります・・・。
これも戦国の世の習い。
許しておくれ(´;n;`)
この後、賤ヶ岳の戦いの功績により前田利家は加賀国・二郡を加増されております。
前田利家、秀吉の傘下に入ってからはなんだか落ち着いていった
賤ヶ岳の戦いの後、織田家有力家臣である柴田勝家に勝利した秀吉は今まで以上に権力を握ることとなります。
これ以降、多くの大名、武将達が秀吉の味方につきました。
1584年の小牧長久手の戦いでは調略によって完全に織田家の力を削ぎ落し、秀吉自らが頂点に立ちます。
※秀吉は織田信長の築きあげたこの大勢力をそのまま引き継ぐ形で天下人へと上り詰めて行った。
やるな秀吉!
ビッグになりやがって。
前田利家はというと、秀吉の元で順調に出世を重ねておりました。
織田家家臣時代に一緒に北陸を担当していた佐々成政が秀吉に反抗して失脚。
そのおかげで佐々成政の領地の一部(越中)が前田のものとなり、北陸方面で名を馳せるビッグな存在となっていたのであります。
能登・越中・加賀を手に入れここでやっと『加賀百万石』の礎ができたのだ!
ぶっちゃけ、利家本人が凄いというよりかは秀吉の勢いあってこそだけどね。
織田信長時代の前田利家は、槍働き一筋でガンガン攻めていく荒武者!!といった印象を受けますが、時代の変化と共にだんだんと、したたかで賢い人物になっていった印象ですね。
ムカツクからという理由で信長のお気に入りのメンズをブッた斬ってしまったあの日のやんちゃな利家はもういない・・・。
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楽しんでいただけたらイイネ!