脇坂安治とは?やる気満々の朝鮮出兵とドッキドキの関ヶ原の戦い
生涯 | 1554~1626年 |
---|---|
出身 | 近江 |
全盛期 | 伊予大洲5万3500石 |
主君 | 浅井長政、明智光秀、豊臣秀吉、豊臣秀頼、徳川家康、徳川秀忠 |
思い出の戦 | 賤ヶ岳の戦い、朝鮮出兵、関ヶ原の戦いなど |
脇坂安治といえば | 賤ヶ岳の七本槍、貂の皮、韓国では最強武将扱い |
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脇坂安治の逸話や歴史をゆるりと解説
脇坂安治といえば『賤ヶ岳の七本槍』の一人!
豊臣秀吉の家臣ってことで有名な人物!
…なんだけど、秀吉には石田三成や加藤清正、黒田官兵衛、大谷吉継…と魅力的な家臣が沢山いるもんで、彼らと比べてしまうとちょいと存在感は薄いかも~??
でもこの方、結構面白いエピソード持ってるのよ~!
転職上手。脇坂安治が仕えていた意外(?)な人物とは?
脇坂安治は近江出身との噂であり、始めに仕えていたのはその土地の大名である浅井長政でありました。
その浅井氏は1573年に織田信長との戦で敗北して滅亡…
その後、脇坂安治は織田氏に属して信長の家臣・明智光秀の与力となりました。
さらにその後、どういった心境の変化かは謎ですが、
ワシ、秀吉さんに仕えたい!
との事で、自ら頼み込んで秀吉の家臣になりました。
それからは秀吉一筋。
1577年から始まった中国征伐では、播磨の三木城の戦いや神吉城の戦いなどに参加し、武功をあげたとのことであります。
城攻めで活躍して『貂の皮』ゲット!脇坂安治のカッコイイ逸話
脇坂安治のかつての上司であった明智光秀は、1575年頃から信長に丹波の攻略を命じられるも
味方の裏切りもあって丹波の黒井城を落とせなかったー!
てか信長様、ワシに仕事ふりすぎて丹波攻略も思うように進まんわーい!
てな感じでなかなかに苦戦を強いられておりました。
そしてそんな感じで大変だった明智光秀は1579年に再び黒井城攻めを行うことになるのですが、脇坂安治はこの際、
黒井城に援軍を送ってくれって信長様から命令があったんだけど…
安治に300の兵を預けるから、加勢してやってくれる?
との事でこの戦に参加しました。
黒井城を守っているのは『丹波の赤鬼』の異名を持つ赤井直正…
彼はこの時、腫物の病に苦しんでいる状態であったといいます。
その事を耳にした安治は単身で城中へ乗り込み、赤井直正に降伏するよう勧告するのですが…
赤井直正
よくぞ単身でここまでやってきたな。
その勇気を讃え、赤井家の家宝である貂(テン)の皮の槍鞘を与えよう!
あ、ちなみに雄の貂のお宝もあるよ。
欲しかったら明日、槍持って自力で奪いにきなさいね。
赤井直正はこんな事を言い、遠回しに降伏を拒否しました。
粋な男だぜ…。
と思ったであろう安治は翌朝、300の軍勢を率いて黒井城を攻めました。
そして城内から敵が打って出てくると、安治は貂の皮の旗指物を背負った赤井直正を発見。
すぐさま突撃して戦闘を開始するのですが、思いのほか簡単に赤井直正を組み敷くことができました。
彼が病に体を蝕まれている事を知っている安治は、その首を取ることに躊躇してしまうのですが…
赤井直正
約束を守ってくれたな。
貂の皮はお前のもの、家宝とするがよい。
男・赤井直正の覚悟を見た安治は、彼を討ち取り貂の旗指物を手に入れたのでした。
その後、安治はそれを旗指物にして戦場で手柄をあげていったとのことであります。
…といったカッコイイ逸話が脇坂安治にはあるけど、赤井直正は戦の最中に病死したと言われているし、この逸話は創作のお可能性が非常に高い模様。
でも、脇坂家が貂の皮を馬印に使っていたのは本当の話。
こんな逸話が生まちゃうくらにワシは勇敢な男だった…って事じゃないかな?うん。
なにはともあれ、黒井城を落とすことができたおかげで丹波は無事に平定されました。
脇坂安治といえば『賤ヶ岳の七本槍』の一人!
1582年、『本能寺の変』で織田信長が死去。
その後、織田家の後継者を巡って羽柴秀吉と柴田勝家が対立し、1583年に『賤ヶ岳の戦い』と呼ばれる戦が起こると秀吉がこれに勝利しました。
脇坂安治は秀吉に従いこの戦に参加し、戦後賤ヶ岳の七本槍の一人に選ばれ3000石を与えられました。
この『賤ヶ岳の七本槍』は
賤ヶ岳の戦いで比類なき働きをした、武勇に優れた秀吉の家臣上位7名!
に選ばれたという感じなわけですが、実際、武功は二の次で真っ先に敵に槍をつけにいったやる気のある武将達が選ばれているみたいです。
実際のワシの活躍は謎だけど、まぁ箔はついたよね。
『七本槍の一人』って聞くとなんだか凄い武将な気がするでしょ?
ちなみに、有名どころだと加藤清正や福島正則も七本槍に選ばれております。
脇坂安治、上野城を落とした時の逸話がカッコイイ!
賤ヶ岳の戦いの翌年…
秀吉と織田信雄の仲が不穏になり始めた頃、脇坂安治は信雄の家臣・滝川雄利の息子を人質として秀吉から預かっておりました。
※織田信雄は信長の次男。賤ヶ岳では秀吉の味方だったが、秀吉の力が大きくなっていくとそれを良く思わず対立していった。
そしてある時、滝川雄利の使者がやってきて
その子の母親が重病なので、死ぬ前に母子の対面を叶えてやってくれないでしょうか?
と頼まれたので、安治は戻ってきてくれることを信じて滝川雄利の息子を使者に引き渡しました。
しかし、滝川雄利は我が子を取り戻すと伊賀の上野城に籠り、秀吉に敵対する意思を見せました。
う、裏切られた…人の善意を踏みにじりやがって!
あの犬侍めが!
当然、人質を奪われたとなれば大問題。
安治は秀吉の怒りを買い、
人質を奪われたとか言って…
ホントは滝川と内通してワシに謀反するつもりなんじゃないんですかねぇ?
なんて言われてしまいました。
ショック…失望されてしまった…。
それもこれも滝川のせい!
許さん、何が何でも上野城を落としてやる!
安治はこの失態を挽回すべく、秀吉に城攻めの許可を得るとわずか20騎を従えるのみで上野城を目指しました。
その道中、安治は
これより秀吉公の命で上野の城を攻める!
ワシについてこーい!
これに味方し、活躍した者は恩賞は思いのままぞー!
てな感じで地侍達を糾合していき、上野城に到達する頃には大軍を引き連れておりました。
押し寄せて来る安治の軍勢を見た上野城の兵達は…
なんて勢いだ!
まるで何万もの大軍が押し寄せてくるよう!
と圧倒され戦意喪失し、勝ち目ナシとみた滝川雄利ら父子は城を放棄して伊勢へと逃亡しました。
秀吉は上野城の勝利を聞いて大喜び!
安治はこれらの活躍が認められ、1585年に摂津能勢1万石を与えられました。
そしてその後しばらくして淡路洲本に移封、3万石の大名となりました。
淡路といえば島国!水軍!
脇坂安治はこれ以降、加藤嘉明や九鬼嘉隆らと共に水軍の将として活躍していくことになります。
1587年の九州征伐、1590年の小田原攻めなんかは水軍を率いて兵糧の補給をしたり、城攻めに参加したりしてたぞ。
制海権を奪われた!ちょいと苦戦した脇坂安治の朝鮮出兵
1592年…
小田原攻めで北条氏に勝利して天下統一達成!
日本は平和になったし、次は明を征服するぞー!
お隣の国、朝鮮が日本に協力してくれないから武力行使で突っ切りまっせー!
といった感じで、朝鮮出兵が行われることになりました。
↑一度目の朝鮮出兵では主にこんな感じのメンツが活躍。
脇坂安治はイラスト右側『水軍もたくさん』チームに属し、九鬼嘉隆、藤堂高虎、加藤嘉明らと共に補給路の確保ならびに防衛を担当することになりました。
陸で戦う武将達のサポート役って感じだね。
水軍チームは出動後、早々に朝鮮の軍艦70隻を捕獲し、釜山と対馬の間らへんに制海権を得たぞ。
陸を進む日本軍は破竹の勢いで突き進み、次々と要所を落として戦線を拡大していきます。
朝鮮の首都を落としたし王子も捕えた、現地の日本軍の様子を聞いた秀吉はたいそうご満悦だった模様…。
しかし、敵もやられっぱなしでは終わりません。
コリャ本気でやばい!
という事で、朝鮮の大正義・李舜臣が水軍を率いて出動、日本軍が拠点としている港を攻撃していきました。
まず最初に玉浦という場所が襲撃され、そこに停泊していた藤堂高虎の軍船が壊滅的な被害を受けてしまい…
その後も泗川、唐浦、唐項浦、栗浦…と襲撃を受け、日本の水軍部隊はことごとく負けてしまいました。
朝鮮水軍は亀甲船という、戦闘力の高い特殊な軍船を投入してきてね…。
港を奪われたら連絡や補給が困難になるし、非常にマズい展開なんだな。
この報告を受けて秀吉は脇坂安治、九鬼嘉隆、加藤嘉明ら皆で協力して朝鮮水軍を殲滅するよう命令を出すのですが…
皆より先に戦果をあげて武功を独り占めしたぁい。
とでも思ったか、脇坂安治は他の武将達の合流を待たずに単独で行動し、この動きを察知した李舜臣の水軍に迎撃されておよそ60隻中39隻をも失い敗北してしまいました。
くぅ~ッ。
みんなに合わせる顔がねぇ…。
一方、九鬼嘉隆、加藤嘉明らは安治の敗戦を知る事なく集合場所であった釜山を出発、
安骨浦に停泊していたところ、進み出てきた李舜臣の水軍と戦闘になり激戦の末に撃退し、ギリ日本軍の面目を保ったという事で秀吉から感状を与えられたのでした。
くぅ~ッ。
その後、日本軍は巨済島やその周辺に城砦を築き、秀吉の命令で守りに徹しました。
これにより李舜臣の快進撃はストップしたぞ。
そこそこ制海権を奪われてしまったが、まぁ良しとしよう。
こんな感じで水軍が苦戦していた一方、陸戦の方でも明・朝鮮連合軍の抵抗が強まりお互い戦はもう止めにしようぜ。的な雰囲気になったので、戦は和睦交渉に入り一時停戦となりました。
が、交渉決裂で1597年に二度目の朝鮮出兵が行われる事になるぞ。
もちろん、ワシは二度目も水軍を率いて参戦!
そこそこかなり活躍の場があった脇坂安治の慶長の役!
一度目の朝鮮出兵では敵の備えもなく楽々と港を占領できた日本水軍でしたが、
二度目は
釜山ら辺にまた日本軍が続々やってきてるぞ!
ヤツらの上陸を許すな~!
と敵も戦闘態勢で出てきた為、早々に激戦が繰り広げられました。
しかし敵の動きを察知していた脇坂安治ら日本水軍は、漆川梁に停泊していた朝鮮水軍を海上から攻撃し、
さらに島津義弘、小西行長らの軍勢が陸からの攻撃を行い朝鮮水軍に壊滅的ダメージを与え、ここでの戦で大勝利してばっちり制海権を得ました。
漆川梁(しっせんりょう)海戦と呼ばれる戦だね。
その後、再び日本水軍を潰すべく李舜臣率いる朝鮮水軍がやってくるのですが、日本水軍の先鋒隊をある程度崩したのみで退却したので制海権は保持されております。
鳴梁(めいりょう)海戦と呼ばれる戦だね。
ここでのワシの活躍は謎…。
しかしワシら水軍の活躍ありきで、陸軍チームは再び朝鮮の地を侵攻する事ができたわけよ。
そして海上戦で活躍した後は
蔚山城めっちゃ大軍で包囲された!
お城未完成で戦闘準備満足にできてないし、寒いし兵糧ないしで死にそう!!
と大ピンチだった加藤清正を救うべく援軍に向かい、敵軍を撃退して窮地を救っております。
毛利秀元、蜂須賀家政、黒田長政、加藤嘉明長、宗我部元親…などなど、1万3000もの大軍で助けに行ったのだよ。
そんなこんな、脇坂安治ほか日本軍の活躍で勝ち進んでいた慶長の役でありますが、残念ながら豊臣秀吉の死をもって中断され
なんだったんだこの戦は…
隣国荒らして去っただけかい。
という嫌な感じで終わってしまいました。
あ。
でもワシ、朝鮮出兵での活躍が認められて3000石加増してもらえたんだよね。
まさかの展開、危険な関ヶ原!脇坂安治は絶対に家康を支持したい
秀吉の死後…
現日本最強大名・徳川家康と石田三成ら奉行衆が揉めてらぃ!
豊臣政権は不安定、これはいずれ戦になる予感!
ワシは家康殿を全面支持したい!
いいね!
徳川チームへようこそ!
脇坂安治は藤堂高虎を通じて家康の味方である事を表明しました。
そして会津征伐(家康に反抗的な上杉氏を成敗する為の戦)が行われる際には次男・安元がこれに参陣することが決定します。
しかし、安元が関東方面へ向かう途中…
安元くん!
どこに行こうとしてるのかな?!
そっちで何かあるのかな?!
ん?!
打倒家康を掲げて動き出していた石田三成らに阻止され、引き返すことになってしまいました。
脇坂安元
これはマズイ!
裏切ったと思われてしまう!
焦った安元は家康の味方であることを伝えるべく、密書を送りました。
すると
OKOK!わざわざありがとう、事情があるなら仕方ないよね。
三成も動き出したみたいだし、ワシもとりあえず大坂方面戻るから~。
といった返事がきたので、ひとまず安心…
…だったはずなのですが、安治親子は石田三成チームの拠点となる大坂に滞在していた為、
時は今!いざ関ヶ原!
安治くん、一緒に頑張って家康倒そうね。
ね?
えっ!
う、うん…。
やむを得ず西軍として関ヶ原の戦いに参加することになってしまいました。
そして慶長5年(1600)年9月…
石田三成率いる西軍と徳川家康率いる東軍が美濃の関ヶ原にて対陣しました。
脇坂安治はというと、およそ1000の兵を率いて↑布陣図左下あたりにスタンバイ。
そして東軍の武将が宇喜多秀家の軍勢目掛けて発砲したのをきっかけに戦闘が開始されるのですが…
(家康殿には味方につくと伝えてるけど…この状況!
どないしろと?!)
複雑な立場にある安治はしばらく動く事ができませんでした。
しかし不幸中の幸い、安治の横に布陣していた小早川秀秋が大谷吉継の軍勢目掛けて突っ込んでいったので
西軍主力の小早川が西軍に攻撃を開始しただと?!
これはとんでもない裏切りだ!
しかしグッジョブ!
安治は(と隣に布陣してる朽木、小川、赤座の軍勢らも)これに便乗して大谷軍の側面を襲い、東軍の勝利に貢献することができました。
小早川は1万5000もの大軍を率いていたんだよね。
ワシ一人じゃ動けなかったからホント助かったよ~。
安治ら便乗組と小早川の軍勢を合わせるとおよそ1万9500、この大軍の裏切りが西軍の敗北を決定的なものにしました。
裏切り者めっ!!
最初から徳川寄りだし?
裏切りじゃないのだ。
お家も守るし家臣の安全も守る、領主としての義務を果たしたまで。
色々とハラハラさせられる展開が続きましたが…
やむを得ず西軍に参入する形になっちゃいましたが、私は一貫して家康様のお味方でありました!
うんうん!
ずっとワシの味方って言ってくれてたし、行動でも示してくれたよね。
安治くんの所領は安堵するよ。
脇坂安治は無事に地位を守り抜くことができたのであります。
脇坂安治は戦国時代を上手く生き抜いた
関ヶ原の戦いが終わると、いよいよ徳川の世がやってきました。
脇坂安治はこれといった事件に見舞われることなく時を過ごし、1609年には伊予の大洲藩主となり5万3500石の大名に出世しました。
1614年から起こった豊臣家と徳川家の戦(大坂の陣)では息子の安元が参戦、徳川の勝利に貢献しております。
そしてこの時期に家督を安元に譲って隠居すると、1626年に73歳でこの世を去りました。
色々あったけど、脇坂家を安泰に導いたワシって優秀じゃなかろうか?
加藤清正や福島正則らの家は後に改易くらってチュン…だけど脇坂家は明治維新まで大名やってたんだから~。
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