立花道雪とは?雷神を倒した伝説を持つ大友家最強家臣!

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立花道雪とは?雷神を倒した伝説を持つ大友家最強家臣!

立花道雪

生涯 1513年~1585年
出身 豊後(大分県)
全盛期 筑前の守護代
主君 大友義鑑、大友宗麟
有名な親族 戸次親家(父)立花誾千代(娘)、立花宗茂(娘婿)
思い出の戦 二階崩れの変、門司城の戦い、休松の戦いなど
立花道雪といえば 雷神を倒した伝説アリ、肖像画の顔が怖い

 

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立花道雪の逸話や歴史をゆるりと解説

立花道雪という名でよく知られるこの人物…

もともとは戸次鑑連(べっきあきつら)って名前を名乗っていて、立花姓となるのは割と人生の終盤の方だったりするのよ~。


 

まぁ名前のことはさておき、立花道雪は忠義に厚く武勇にも優れた武士の中の武士!

 

人の上に立つにふさわしいカリスマ性がある人物!!って感じの武将なのね~!

 

…といった前置きはこんな感じで、今回は只物じゃないオーラ放ってそうな立花道雪さんをゆるりとご紹介~!

 

色んな意味で最強!立花道雪は雷神を倒した伝説をもつ

 

戦国時代の九州といえば、豊後の大友宗麟、薩摩の島津義久、肥前の龍造寺隆信が三つ巴の争いをしていたことが有名であります。

 

その中でも大友宗麟は将軍から九州探題の職を与えられ、

 

1560年頃には豊前・豊後・筑後・筑前・日向・肥後の九州6ヶ国の支配を認められていた九州最強、権威ある大大名でありました。

 

そんな大友宗麟の重臣だったのが立花道雪…

 

道雪はもともと宗麟の父・義鑑(よしあき)に仕えていたのですが、

 

1550年に起こった『二階崩れの変』なる大友家の跡継ぎを巡るお家騒動(宗麟派VS宗麟の弟・塩一丸を当主にしたい義鑑派の争い)で宗麟を支持。

 

一連の争いに力添えし、無事に宗麟を当主の座につかせることができて以降、生涯宗麟に仕えております。

 

 

義鑑様は宗麟様を当主の器でないとお考えであったそうな。

しかし宗麟様の代で大友氏は最盛期を築いているし、私の判断は間違いなかったと信じたい…。


 

さておき、立花道雪は大友家家臣団の中でもズバ抜けて優秀、勇猛な人物でありました。

 

大友宗麟が大友氏の最盛期を築くことができたのも、立花道雪のような家臣がいたからこそでありましょう。

 

立花道雪の何が凄いというと、とにかく強い。

 

色んな意味で、強いのであります。

 

どのくらい強かったのかというと、戦においては生涯で100を超える戦を経験して一度も負けたことがないという伝説があるぐらい、強かったのであります。

 

 

しかも生涯現役!

晩年も、死ぬまでずっと戦場に足運んでたからな。


 

それに加えて雷神を倒したという伝説もございます。

 

 

あれは30代半ばくらいのことだったか…?

 

炎天下の日、大木の下で昼寝をしていたら雷に撃たれてね…。

その折、ワシは枕元にあった千鳥という太刀で雷の中にいた雷神を斬り捨ててやったのだ。


 

千鳥の刀身には雷撃があったかのような傷ができていたそうで、道雪は千鳥改め雷切と刀の名を改めたそうな。

 

しかし、雷に撃たれて無事では済まなかった模様…

 

道雪はこの落雷事故により、半身不随になったと言われております。

 

それ故、戦場では輿に乗って指揮を執っていたんだとか。

 

 

輿の上で太刀と鉄砲を構え、いざ戦が始まると先陣に行き兵達を鼓舞していたのだよ。

カッコイイであろう。


 

ちなみに立花道雪は退くことを決して許さない鬼軍曹だったといいます。

 

そう、立花道雪の戦闘スタイルは前進あるのみ。

怯む者がいれば激しく叱咤、後退しようとするものがいれば

 

 

ワシを敵中に置き捨ててから逃げよ!


 

と無茶な一言。

 

 

大将を見捨てて逃げるなんてできないだろ?

生き延びたければ戦って勝て!


 

という事なので、兵達は必死で戦い突き進むしかないのであります。

 

 

勢い任せみたいに感じるけど、これがワシの戦闘スタイル。

ワシの喝で兵達も気合い入るし、案外上手くいくのよ。


 

 

戦に関しては厳しい道雪様だけど、普段は思いやりをもって接してくれる良い上司なんだ。

だから我々家臣も頑張ろうって思えるの。


 

ちなみに、『道雪自ら敵を斬り捨てたり騎馬に乗って戦場を駆けたり…』といった記録もあったりします。

 

雷事件より後の記録に記載があるらしいので、実際にこんなに動き回っていたのか真相は不明ですが、

※年をとってから足が不自由になったとも言われている。

 

どっちにしても立花道雪は鬼強いメンタルの持ち主であり、勇猛果敢な武将であったことは間違いなさそうです。

 

 

強いのは戦だけじゃないのよ…

メンタル的なところもマジで屈強。

鬼よ、鬼メンタル。

普通にワシに説教してくるしな。


 

 

殿は酒や女に溺れて全然仕事しなかったりと、一時期酷かったからねぇ。

大友家の当主がそんなのでいいわけがないのだ。


 

まだある立花道雪の最強伝説。地元どころか全国に名が知れ渡る

 

上にご紹介したように戦では負け知らず、雷神すらも倒してしまう立花道雪はここらじゃ最強!と地元で話題の人物だったみたいです。

 

 

キリスト教の宣教師達なんかはワシの事を『まるで豊後のヘラクレスや~』と褒め讃えてたらしい。


※ヘラクレスは最強、英雄といったイメージを持たれているギリシャ神話の人物。

 

というか、『鬼のような武将』として道雪の名前は全国各地に知れ渡っていたといいます。

 

あの武田信玄も

 

 

立花道雪に会ってみたい。

是非とも一戦交えてみたいもんだ。


 

なんて言っていたというし、結構な有名人だったようです。

 

大友宗麟と毛利元就の攻防戦では立花道雪が大活躍

 

大友氏、島津氏、龍造寺氏で九州三国志状態となる少し前の時期、大友宗麟は安芸の大名・毛利元就に手を焼いておりました。

※1560年頃は島津の勢いもまだそれほどでなかったし、龍造寺も大友の相手ではないって感じ。

 

なぜかというと、毛利元就は1557年に周防の大名・大内義長を滅ぼした後、勢力拡大を目論んで九州に進出してくるのですが、

 

そこで大友氏に不満を持つ豊前、筑前、肥前の国人らと密かに通じて打倒大友の動きを煽り、大友氏を追い詰めようとしていたのであります。

 

 

毛利氏は中国地方でメキメキ頭角を現し、その勢いは増すばかり!

豊後、筑後の守護である大友氏の威厳を保つ為、負けるわけにはいかない!


 

しばらくの間、豊前や筑前を巡り大友氏と毛利氏の争いが続くことになるのですが、ここいらで大活躍したのが立花道雪でありました。

 

大友宗麟の傘下にあった筑前の秋月文種が毛利元就に寝返った時には、立花道雪含む2万の兵で秋月氏の古処山城を攻め、秋月文種を自害に追いこみ…

 

本州と九州を結ぶ位置にある門司城を奪われた時には、それを奪還すべく3年にわたって奮戦しております。

 

 

最終的に門司城は毛利軍に制圧されてしまったがね。


 

そして1564年、足利義輝将軍の仲介で大友氏と毛利氏の休戦が成立することになるのですが、この際、立花道雪のもとに将軍から書状がきたといいます。

 

 

大友家において、ワシの立場が大きかったことがうかがえるな。

これを大活躍と言わずしてなんと言う。


 

 

戦も外交も、何をするにも立花道雪がいれば安心!

…というぐらい頼れる武将。


 

この後、毛利元就は和睦の約束を破って再び豊前・筑前・筑後ら辺の国人達に反大友の動きを呼びかけました。

 

大友氏傘下にあった国人たちが離脱するなどして大友氏は苦境に陥るのですが、

 

立花道雪は反大友勢の討伐に奔走してこれらを一掃、降伏させるなどして武功をあげております。

 

 

毛利との争いが落ち着くのは1569年頃。

中国地方で毛利の敵が暴れだしたらしく、そっちと戦う為に九州から撤退したんだとさ。


 

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立花道雪が人生で一番苦戦したのが『休松の戦い』

 

生涯で100を超える戦を経験して一度も負けたことがない。

 

…という伝説を持つ立花道雪ですが、実は一度だけ敗北した戦がありました。

 

それは1567年、秋月文種の子・種実が反乱を起こした時のこと…

 

立花道雪ら家臣らは2万の兵でその対応にあたるのですが、古処山城に籠る秋月勢に苦戦…

 

そんな中で毛利軍が和睦の約束を破ってまた九州にやって来るとの情報が流れ、

 

それにより大友宗麟の傘下にあった国人たちが離脱の動きを見せるなどし、状況が悪化したので大友軍はひとまず撤退するのですが、

 

撤退開始後、秋月軍の夜襲に遭い兵は逃げ出すわ味方も大勢討ち死にするわの大ダメージを受けてしまったのであります。

 

この『休松の戦い』と呼ばれる戦は不敗伝説を持つ立花道雪にとって、思い出深い一戦であったことでしょう…。

 

 

だがそんな中でも決してワシは退かなかった!

ワシの闘志に味方も士気を上げ、敵を押し返し無事に撤退する事ができたのだからこれはもうワシの勝利と言ってもよいでしょう。


 

道雪に受け継がれた立花家、良い感じに生まれ変わる

 

1568年…

大友家家臣で筑前の立花山城城主の立花鑑載(たちばなあきとし)が毛利氏の調略を受けて離反しました。

 

その後、道雪ほか家臣らが討伐にあたり立花山城は無事落城…

 

立花鑑載も死に追いやられ、裏切り者は消えたということで一件落着となったのですが、

 

 

立花家は大友家の分家だし、このまま消滅しちゃうのは嫌だなぁ…。


 

大友宗麟は名家が潰れてしまうことを非常に残念に思っておりました。

 

なのでその後…

 

 

これまでの功績を讃え、道雪を筑前の守護代に任命する!

そして立花家の名跡を継いでいただきます!


 

宗麟は道雪に家名を継承させ、立花山城を与えました。

 

 

これまで立花道雪立花道雪~言うとりましたけど、ここで初めて立花姓をゲットしたという…。

実は戸次姓時代の方が長いのである。


※ちなみに、1553年に道雪は戸次家の家督を 鎮連(しげつら)という養子に譲っていた。
道雪はバリバリ働いてこうして出世もしてるけど、実は一応隠居していたという…。

 

こうして立花の家名を受け継いだはいいものの、道雪はこの時すでに60歳を超えておりました。

 

 

城も家名も、もう跡継ぎに任せたいお年頃。

…といっても今現在、娘の誾千代しか適任者がいないわぃ。


 

1575年…

道雪は大友宗麟の許可を取り、娘の誾千代に家督を相続させ、立花山城の城督に任命しました。

 

 

この時誾千代ちゃんまだ7歳だし、女の子に当主のポジションつかすの反対したんだけどね~。

道雪くん、頑固だから折れない。


 

その後、道雪は同じ大友家家臣である高橋紹運(たかはしじょううん)に…

 

 

高橋さんとこの長男、すごく賢い子なんだってね?

ワシんとこに来てほしいなぁ。

誾千代と結婚して立花家の当主にならないかい?


 

高橋紹運

 

長男を譲れだなんて無茶言う~。


 

 

悪い話じゃないでしょ。

お願い。


 

高橋紹運

 

うちだって跡継ぎ問題あるしさぁ。


 

 

お願い。

お願いお願い。

お願〰〰い。


 

長男に立花家入りするよう熱烈オファー。

 

そして1581年、どんだけ駄々こねたか謎ですが、願い叶ってその男の子が立花家に婿入りしました。

 

 

それが後に立花宗茂と名乗る男の子なんだけど、彼、すっごく優秀な武将に成長するのよ。

ワシ、見る目ありすぎ!


 

戦国時代の荒波に飲まれ沈んでいく大友氏…その時、立花道雪は

 

道雪が立花家を引き継いだ後、九州は…

 

九州三国志

 

大友氏、島津氏、龍造寺氏で三国志状態となっていたのですが、ここから大友氏は衰退していくことになります。

 

そのきっかけとなったのが1578年に起こった『耳川の戦い』…

 

大友宗麟は打倒島津を掲げて日向へ侵攻するのですが、島津氏に敗北してしまいます。

 

これにより大友家の有力家臣が多く戦死し、そして周囲の国人達に離反されれるばかりか家臣にも次々と離反され、かつての勢いを失ってしまったのであります。

 

 

戦に負けたのが決定打となったか…。

宗麟様はいつ頃からかキリスト教に心酔して政がおざなりになっていてね、すっかり人望を失くしてしまっていたのだ。


 

その後も島津氏とは敵対関係にあるのですが、大友氏は再び攻め込む余裕なく不利な状況に立たされます。

 

立花道雪は日向侵攻に反対していたそうなので、こういう状況になってしまったとなると他の家臣みたいに大友宗麟を見限ってもおかしくはないのですが、

 

 

道に落ちた雪は消えるまで場所を変えない!

そう、一度主君をこの人と決めたのなら死ぬまで忠義を尽くすのが真の武士!


 

を信条にしている道雪は、変わらず大友家に残っております。

 

しかしその後も状況は良くならず…

 

1584年になると島津氏が『沖田畷の戦い』と呼ばれる戦で龍造寺隆信を討ち取り、

 

龍造寺氏に与していた国人衆を味方に引き入れて肥後・筑前・筑後まで勢力を拡大させました。

 

 

これまで3つに割れて争っていたのだが、龍造寺が島津に降伏した事で大友VS島津&龍造寺というヤバめの構図になってしまった…。


 

同年、大友軍9800VS龍造寺軍3万の戦が起こるのですが、道雪ら大友軍は善戦するも龍造寺軍に決定的なダメージを与えることはできず…

 

その後、龍造寺氏の武将が守る筑後柳川城攻めを行うのですが、立花道雪はその最中、病に倒れて73歳で帰らぬ人となってしまいました。

 

 

老体に鞭打って各地を転戦、落ち目の大友家を決して見捨てず最後の最後まで尽くし戦い抜いた…!


 

道雪が亡くなった後、大友氏と立花氏は…

 

大友宗麟は島津氏の侵攻で

 

 

島津が九州統一する勢いで勝ち進んでる!

このままだと大友家滅亡しちゃう!!


 

…というぐらい追い詰められていましたが、当時日本最強だった豊臣秀吉に助けを求め、20万を超える豊臣軍が援軍に来てくれたおかげで窮地を脱することができました。

 

しかし、その後の領土分配で大友氏は豊後一国を安堵されるのみとなり、かつての栄光は無きものとなってしまいました。

 

 

滅亡しなかっただけマシか…。


 

一方、この一連の戦で立花宗茂は筑前にはびこる島津軍を撃退し、奪われた城を数々奪還するなど大いに活躍しました。

 

その結果、豊臣秀吉に

 

 

その忠義、武勇、鎮西一!!


 

と褒めたたえられ、筑後柳川に13万2000石を与られました。

 

 

大友家から独立した宗茂は、これ以降も素晴らしい活躍をしているぞ。


 

 

興味があったら下のリンクから私の記事も見ていってね~!


 

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