どうしてこうなった?!大友宗麟のキリシタン人生
大友家を九州六ヶ国の大名家に成長させ、大友氏の全盛期を築いた大友宗麟!
領地を巡る戦が絶えない戦乱の世において、大友宗麟は国の統治能力が抜群に素晴らしかったと言われているの。
そしていち早く海外の文化に目をつけ、貿易でたくさん儲けを出したり、鉄砲や大砲を輸入し軍事を強化したり…と時代を先取りしていたのも大友宗麟の凄いところね。
若い頃は冴えまくり!当主としての貫禄も十分!
…だったのに、キリスト教にハマってからはなんだか残念なことに…!
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大友宗麟meetsキリスト教!
1551年、大友宗麟は21歳で大友家の当主になりました。
そしてこの翌年、宗麟は豊後に布教活動にやって来たフランシスコ・ザビエルと出会ったと言われております。
海外貿易をする為にザビエルの布教活動を認めたわけだけど…。キリスト教、気になる…!
宗麟はこの時点でかなりキリスト教に心を惹かれていたそうですが、すぐ入信するには至りませんでした。
なぜなら宗麟の妻・奈多夫人は大宮司の娘。
奈多夫人は熱心な仏教信者だったので、宗麟がキリシタンになることを絶対に許さなかったのです。
それにもともと豊後は仏教の盛んな土地、多くの家臣達も宗麟がキリスト教にハマる事を良しとしませんでした。
賛否両論あるけど私はキリスト教がいい…(´・ω・)†
入信してないものの、宗麟は完全にキリシタン寄り。
豊後の府中には多くの教会が建てられ、異国情緒豊かな城下町となりました。
そしてその後も宗麟のキリスト教への情熱は増すばかり。
日を追うごとに妻やキリスト教反対派の家臣達との関係が悪くなっていきました。
どうしよう。これ以上キリスト教にハマったら家臣達に嫌われちゃう…。
これ以上この宗教問題をこじらせたら家臣団の統率がとれなくなるばかりか、軍事的な争いに発展する恐れもあります。
宗教がらみの戦争はいつの時代も怖いのである。
けどキリスト教に心酔しきっていた大友宗麟は、どうしても信仰心を捨てる事ができませんでした。
そうなると夫婦喧嘩は絶えず、家臣達の間にも宗教を巡る対立ができていきます。
解決することのない宗教問題にウンザリしていた宗麟は、やがてそのストレスのはけ口に女や酒に溺れるようになりました。
その溺れっぷりは凄まじく、美女とあれば家臣の妻や娘にも手を出しちゃうほど。
宗麟の私生活は乱れに乱れ、当主としての威厳は徐々に失われていきました。
そして夫婦仲もますます険悪になり、ダメ当主へと変貌した宗麟に家臣達の心も段々と離れていったのであります…。
さらば妻よ。ドン・フランシスコ爆誕!
妻のアンチキリスト教っぷりがウザすぎる!もう無理︎!
1578年、大友宗麟は妻・奈多夫人から逃れる為に府中から臼杵(うすき)へ移り、同じキリシタンである側室・ジュリアと新しい生活をスタートさせました。
宗麟は、
奈多夫人
聞いてない!どういうつもり?!
と、臼杵城に問い詰めにきた奈多夫人を追い返して強制離婚。
仏教狂いの妻とやっと離れられた!キリスト教に入信するぞぉ~!
フランシスコ・ザビエルと出会ってから27年…
大友宗麟はついにキリスト教の洗礼を受け、48歳にして念願のキリシタンになったのであります!
洗礼名はドン・フランシスコ!
奈多夫人との間に生まれた三人の息子も皆キリシタンになったぞ!やったね!
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宗麟はキリシタン王国という壮大な夢のために…
大友宗麟がキリスト教に入信してから二ヶ月後…
日向へ侵攻してきた島津氏と戦をする為、宗麟は4万を越える大軍を動員して日向へと兵を進めました。
急速に勢力を拡大させている島津氏を潰す為&伊東氏の領土回復の為という名目での出陣ですが、宗麟の真の目的は別のところにありました。
※伊東氏(伊東義裕)…日向の国人。島津との戦に敗れて土地を追われ、宗麟のもとへ亡命していた。
日向を手に入れ、私の理想とするキリシタン王国を築く!西洋の情緒あふれる素敵な王国をっ!
キリスト教への情熱が止まらない宗麟はこんな野望を胸に秘め、家臣達の反対を押し切って日向攻めを決行したのであります。
しかし、宗麟はいざ戦が始まると全て家臣達に任せっきり、自身で戦の指揮をとることはありませんでした。
あとは頼んだぞ。私はキリシタン王国実現の為に信仰に専念します(^人^)†
家臣達が戦をしている間、宗麟は無鹿という地に腰を据え、教会と司祭館を建てて礼拝三昧の日々を過ごしていたという…。
殿はキリスト教に狂ってしまった。我々は何の為に戦わされているのだ…。
もはや宗麟は武将にあらず、超絶熱心な宗教家となっていたのであります。
家臣達の宗麟に向ける目も、以前に増して冷ややかなものとなっていました。
そんなやってらんねぇよムードで戦に挑んでいたせいか、大友軍は耳川の戦いで島津軍に完膚なきまでに殲滅され大敗北。
総力をあげて挑んだのにまさか負けるなんて…。私のキリシタン王国の夢が…。
宗麟はこの戦で2万8000人もの兵を失うという、大きな痛手を受けてしまいました。
九州No1の勢力を誇る大友氏はこの敗北を機に衰退の一途を辿る事となってしまったのであります…。
滅亡寸前!最後は他力本願で窮地を切り抜けた大友宗麟
勢いづいてきた島津氏は休むことなく領土拡大の為に行動を開始していきました。
大友宗麟は領地を敵に奪われ徐々に追い詰められていくのですが、そんな状況にあっても熱心に布教活動を続けておりました。
地元の人達全員にキリスト教に入ってもらうんだ~♪
(お家の一大事だというのにキリスト教の事ばかり…。殿は武将としての覇気を完全に失っておられる…。)
宗麟がキリスト教に狂ってからというもの家臣団の結束力は弱く、この頃になると大友家に見切りをつけ離れていった者も多かったといいます。
大友家が崩壊しつつある…。
どんどん敵に領地も奪われてるしマジでヤバいかも…!
大友の力だけではどうにもならないところまで追い詰められた宗麟は、自ら大阪へ行き豊臣秀吉に助けを求めました。
あわや滅亡寸前。
最終的にこんな事になってしまっていた大友宗麟ですが、豊臣秀吉が島津征伐を開始してくれたおかげでギリギリのところで命拾いしたのであります。
ちなみに、キリスト教には『運命は神に委ねよ』といった教えがあるそうです。
大友宗麟がこんなになるまで本気を出して戦わなかったのは、こういったキリスト教の教えの影響もあったのかもしれない…とのことです。
大友宗麟の死後には…
熱心なキリシタンだった大友宗麟…
その死後には盛大にキリスト教のミサが挙げられ、墓所には礼拝堂と大きな十字架が建てられたといいます。
しかし、大友宗麟の三周忌の頃には豊臣秀吉によるキリシタン弾圧が始まっていた為、儀式は仏教に基づき行い、墓所も仏教式のものへと変えられていったとのこと…。
オーマイガ~
おまけ・大友宗麟と息子たちのエピソード
大友宗麟は長男と次男のダメダメっぷりにかなり悩まされていたといいます。
長男・義統(よしむね)は優柔不断で母の言いなりになりがちなところがあり、
次男・親家(ちかいえ)は気性が荒くてやんちゃ、それでいて頑固な性格だったそうです。
三男の親盛(ちかもり)は言う事聞いてくれる良い子。
宗麟は長男・義統は当主にふさわしいような人物ではないと思いながらも、過去に自分が跡継ぎ争いで大変な思いをしてきた事から
あくまでも跡継ぎは長男!
とこだわっていたそうです。
※宗麟の跡継ぎ争い…宗麟は長男で跡継ぎと決まっていたのに、父は宗麟の弟を跡継ぎにしようとした。この動きを許せなかった宗麟支持派の家臣達が父や弟を殺害した。
長男の立場を尊重する宗麟…。
子供思いな一面が垣間見えるエピソードですが、宗麟は亡くなる3年ほど前に長男・義統と次男・親家にこんな事を言っていました。
義統、お前は事あるごとに私に意見や助言を求めるくせに、一度もそれを実行したことがないよね。
私が死んだ後、お前たちは私の葬儀を行わなくていいからね。その件についてはもう三男の親盛に任せてあるから。
これを聞いて長男は言葉を失い下を向き、次男は思わず泣いちゃったとのこと…。
父親に
葬式はお前らがするんじゃねぇぞ。お前らより下の息子ほうが頼りになる。
なんて事を言われたわけですからコレはかなり傷つきますねぇ…。
ちなみに次男・親家は仲間と寺を破壊しまくるヒャッハーなキリシタンだったそうな。
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