今川氏真とは?高貴な生まれ、蹴鞠や和歌が大好きな教養人!

今川氏真とは?高貴な生まれ、蹴鞠や和歌が大好きな教養人!

徳川家康 ラインスタンプ

高貴な生まれ、今川氏真!蹴鞠や和歌が大好きな教養人

今川氏真

生涯 1538年~1615年
出身 おそらく駿河
全盛期 今川義元の跡を継いだ
主君 足利義輝、北条氏康、北条氏政、徳川家康
有名な親族 今川義元(父)、寿桂尼(祖母)、嶺松院(妹:武田信玄の嫡男・義信の正室)、早川殿(正室:北条氏康の娘)
思い出の戦 桶狭間の戦い、駿河侵攻
今川氏真といえば 今川義元の息子、蹴鞠や和歌が得意、今川家滅亡

 

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今川氏真の逸話や歴史をゆるりと解説

今川氏真は日本屈指の大大名・今川義元を父親に持ち、その家柄も良く、蹴鞠や和歌など文化的な教養をしっかりと身に着けていたスーパー高貴なお坊ちゃま!


 

なんだけども時は戦国時代…

大名として肝心の政治的手腕や戦術に関してはイマイチだったようで、今川義元がいなくなってから10年程で今川家を没落させてしまったのよね。

 

そんな感じなので、なんか残念な武将ってイメージつけられちゃってるかもしれない…?!

 

いえ、そんなことはないのよ。

氏真も頑張ってきたのよ~っていうことを、今回ご紹介させていただきやす!

 

氏真坊ちゃま、父親の突然の死で人生が急激にハードモードに

 

今川義元は駿河・遠江・三河を支配下に置き、『海道一の弓取り』なんて言われた日本屈指の大大名、

 

甲斐の武田信玄や相模の北条氏康と同盟を結び、下剋上の戦国時代に大名の威厳を保ち続けた偉大な人物でありました。

 

そんな父親のもとに生まれた今川氏真は

 

 

これといったトラブルに見舞われる事なくスクスク成長!

政や軍事は父が現役で頑張ってくれてるし、私は蹴鞠や和歌を楽しむ日々でハッピー!


 

といった感じで多分そんな感じの勝ち組戦国ライフを送っておりました。

 

 

いやまぁ、実際はどうかわからないけど…

私ってば若い頃に苦労しただとか、誰かしらと争っただとかのエピソードがないからさ。


 

ところが1560年…

今川氏真が23歳の時、そんな平穏な日々をブチ壊す大事件が起きました。

 

氏真の父・今川義元が『桶狭間の戦い』と呼ばれる戦で織田信長に奇襲され、討ち死にしてしまったのであります。

 

これにより、今川氏真は義元に代わって今川家の指揮を執らねばならなくなりました。

 

しかし、残念なことに氏真は義元ほどの政治的手腕、カリスマ性を持ち合わせておりませんでした。

 

それ故、

 

 

なんか…

義元様のいない今川家って頼りないというか…ショボい…


 

これまで義元に従っていた家臣や近隣の武将達は、今川氏に対する態度を変えることになるのであります。

 

 

私の人生が急にハードモードに…。

これといって信頼できる優秀な家臣もいないし、私にはもうおばあちゃんぐらいしか頼れる人がいないよぅ。


 

松平元康の裏切りが痛すぎた。近隣武将達の今川離れが始まる

 

今川義元の死が発覚した後、速攻で今川氏から離脱したのが松平元康でした。

 

 

もう本当に速攻なの。

一体、どんな事情があったのか…?!


 

この松平氏は一時は三河を支配する大きな勢力だったのですが、元康の父・広忠の時代になるとお家騒動や尾張の織田氏の侵攻によりその勢いは衰え、

 

元康を今川義元の元へ人質に出し、今川氏に従うことで三河に勢力を維持していたという立場の弱い存在でありました。

 

しかも1549年に松平広忠が亡くなり三河が領主不在になると、三河は直接今川氏の支配下に置かれております。

 

そんな感じなので、当然ながら元康は今川家の人質のまま。

 

しかし、元康は礼遇されていたわけではありませんでした。

 

むしろ今川家できちんとした教育を受け、今川家に仕えるいち武将として在籍し、将来を期待されていました。

 

桶狭間の戦いの時も松平元康は今川軍の一員として働き、織田軍の砦を落とすなどの活躍をしております。

 

 

…なのですが、心の中で密かに三河に返り咲く事を夢見ていたであろう松平元康は、戦場で今川義元の訃報を聞くと

 

松平元康

 

今川家の皆様、今パニック状態じゃない?

大変すぎてワシのこと構ってる余裕なんてないだろうし、今なら三河に帰れちゃうかも?!


 

急いで駿河へ退却する武将たちをよそに、隙を見て勝手に三河に帰ってしまいました。

 

 

元康くんが三河に…?

あ、尾張の織田信長を牽制する為に急遽三河入りしてくれたのかな?

そうだよね…?ね?

そうであれ…。


 

翌年…

 

松平元康は今川氏の拠点となっていた三河の牛久保城を攻撃し、今川氏への裏切りを明確なものとしました。

 

そしてこの後、松平元康は今川氏の仇である織田信長と同盟を結びました。

 

 

氏真憤怒!

勝手に今川を離れて独立したうえ、織田とつるんでパワーアップするとか卑怯だぞ!

 

三河の国人どもも今川から松平に寝返りだしたりで、こっちは大ピンチだよ!!


今川氏真は三河の支配を維持できるよう努めますが、相次ぐ寝返りと松平元康の抵抗により、1564年頃には三河における勢力を失ってしまいます。

 

そしてこういった情勢の変化で遠江でも国人達の離反の動きがあり、今川氏はどんどんかつての勢いを失っていくのでありました。

 

 

国人達の心を繋ぎ止めるべく書状を発行したりと、色々対処したんだけど状況は良くならず…。

松平のせいで辛い。酷い。


 

 

ちなみにこの後、松平元康は名前を徳川家康と改めたのである~。


 

地獄の駿河、遠江侵攻始まる。おのれ武田信玄、徳川家康…

 

松平元康改め徳川家康の台頭でどんどん立場が悪くなっていく今川氏真…

 

この時点で結構しんどい状況だったわけですが、この後、さらなる不幸に見舞われることになります。

 

なんと…

 

 

今川とは同盟関係にあるけど、義元さん死んで落ち目だしもうどうでもいいや~。

また新しい友達作ろ。


 

武田信玄が今川氏真を見限り、こともあろうか今川氏と敵対している徳川家康や織田信長と新たに同盟を結んだのであります。

 

 

信玄さんが私に協力して三河や遠江の反抗勢力に脅しの一つでもかけてくれりゃ、状況も変わったろうにさぁ…。

裏切るなんて酷い…。

 

ていうか…

私のおかれてる状況、かなりヤバいのでは…?


 

今川氏真は東は武田信玄、西は徳川家康と敵に囲まれる形となってしまいました。

 

 

今川家を離反する奴らが多い中でこの展開…

詰んでますやん。


 

ヤケクソになっていたか、はたまた現実逃避していたか謎ですが、氏真はこの頃になると政を家臣に任せっきりにして遊びにふける事が多くなっていたといいます。

 

 

やれるだけの事は頑張ったけどダメだったんだもん。

私のおばあちゃんが実権握ってる感じにもなってたし、そうなっちゃっても仕方ないじゃん。


 

さておき、こんな感じですっかり弱くなってしまった今川氏に対し、徳川家康と武田信玄は…

 

 

ワシが駿河へ攻め入るので…


 

 

ワシが遠江へ攻め入ります!

分担して今川領を奪っちゃおう!


 

同盟関係を活用し、協力して今川領へ侵攻することを決めたのでありました。

 

 

そうですかそうですか、そうきますか。

そうくるなら私も腹くくってやったるわぃ!


 

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今川家滅亡の日。今川と武田と徳川と北条でゴタゴタ

 

1568年…

 

武田信玄は1万2000を率いて駿河へと侵攻、

 

今川氏真は武田軍が駿河に侵入してきたのを知ると、これを薩埵峠で迎撃すべく、家臣に1万5000の軍勢を預けて出撃させました。

 

駿河侵攻

 

 

今川の本拠地を守るにはここで武田軍を食い止めるほかない!

相模から北条の援軍がきてくれれば、挟み撃ちの形にできるし!


 

ここでは満を持して氏真も出陣、薩埵峠から5kmほど離れた清見寺に布陣しました。

 

 

戦う気満々!


 

しかし、この状況下で今川家の家臣達に寝返りの動きがあるとの報告が入ったので…

 

 

薩埵峠の軍勢が機能してないかもってこと?!

え、このままではすぐに私の元へ武田軍がやってくるのでは?!


 

焦った氏真はすぐに本拠地駿府にある今川館へと撤退しました。

 

これにより薩埵峠の防衛線は崩壊。

簡単に武田軍に侵入され、早くも翌日に今川館を襲撃されてしまいます。

 

 

実は前々から密かに今川家の重臣達とコンタクトを取り、武田に寝返るよう調略していたんだよね。

ここまで来るのチョロかった~。


 

氏真はかろうじて今川館を脱出、その後は家臣の朝比奈泰朝を頼って遠江の掛川城へと落ち延びました。

 

氏真の正室・早川殿なんかは輿を用意する暇もなく徒歩で逃げたということで、この時は相当ピンチだった模様…。

 

 

情けなや…。

抵抗する術無く今川館は焼け落ち、周辺の城も落とされ信玄に本拠地を奪われてしまったよ…。


 

そして遠江へと逃げたのはいいのですが、遠江もまったくもって安全な場所ではありませんでした。

 

なぜなら今川館が急襲されたと同日、徳川家康が遠江へと侵攻を開始していたからであります。

 

そして武田信玄の時と同じように遠江でも徳川家康に寝返る武将が続出したので、氏真は掛川城に入って2週間後には徳川軍に城を包囲されてしまいました。

 

 

で、でも今川館と違ってこっちはちゃんとした城だしそう簡単にやられないもん。

きっと北条の援軍も来るし、それまで踏んばってみせる!


 

ここで今川氏真の希望となっていたのが、同盟相手の北条氏なのですが…

 

 

氏真くんは私の娘の旦那、大切な家族!

助けるに決まってるじゃないか!

氏政、頼んだぞ!


 

 

ハイヨー!

 

 

 

…ごめん!

武田軍に苦戦してて薩埵峠あたりで足止めくらっちゃってる!


 

援軍を出してくれるも武田軍を撃破するに至らず、助けを得ることができませんでした。

 

 

絶望。


 

ですが、なんやかんや家臣らの必死の抵抗で掛川城は耐え続けることになります。

 

そして耐えに耐えて半年…

 

 

氏真くん、争いはもうやめて和睦しよう。

氏真くんや城兵の命は保障するから、掛川城を明け渡してくれないかい?


 

徳川家康から和睦の申し入れがあったので、今川氏真は抵抗をやめて素直に降伏したのでありました。

 

 

北条がこの和睦を仲介したんだぞ。

援軍は間に合わなかったけど、徳川と今川の戦を平和的に終わらせることができて良かった~!


 

 

お義父さま~

頼りになりすぎるぅ。


 

実はこの半年の間に武田信玄が約束を破り、徳川家康の獲物である遠江に手を出すという出来事がありました。

 

これにより…

 

 

信玄に対して不信感MAX!!

武田軍を警戒しなきゃいけなくなったし、今川と争ってる場合じゃないかも…和睦しよかな…。


 

 

おやおやお困りのようですね?

北条は今川とマブだし、和睦するなら仲介するよ?!

 

私も信玄には困ってたとこだし、うちらはうちらで仲良くしていこうよ!


 

 

そうする!


 

徳川家康と北条氏康が敵の敵は友達…みたいな感じで結束し、平和的に戦を終わらすことができたのでした。

※ちなみに、徳川家康に見限られた武田信玄は北条との戦で苦戦したり、兵糧不足になって困ったりしたので一度駿府を捨てて自国へ戻った。

 

 

駿河で再起を図りたい所だけど、家臣の多くを失い戦に負けた私は無力そのもの…。

掛川城を出た後は妻の実家で面倒見てもらうことになったよ。


 

 

駿河のことは北条に任せて!

完全に武田勢を追い払ったら、再び氏真くんを駿河の国主にしてあげるからね。


 

 

頼りになる~♡


 

他力本願、北条氏の協力を得て駿河に返り咲く事を夢見る氏真ですが…

 

残念ながら駿河に残ってた今川家家臣が降伏したり、北条軍が戦に敗れたりとで駿河から武田勢を追い出すことができず、

 

1570年頃には駿河が武田信玄の支配下に収まってしまいました。

 

 

残念…。

ワシの息子の氏直を氏真くんの猶子とし、ゆくゆくは氏直に駿河を継がすつもりだったのにな~。


 

その後、今川氏真が駿河に復帰することはありませんでした。

 

 

掛川城を明け渡したあの日、大名としての今川氏は滅亡したんだね…。


 

争い事から解放され自由の身になった氏真、辞世の句が清々しい

 

1571年、北条氏康が病により死去。

 

すると、その後継者の北条氏政は武田信玄と同盟を復活させました。

 

武田信玄による駿河侵攻からそう経ってない時期にこの展開…

 

 

こんな時代だから情勢や人間関係がコロコロ変わるのはわかるけども。

信玄に裏切られて酷い目に合った私からすると、なんだかなぁ…。


 

と思ったかは謎ですが、今川氏真は北条氏のお世話になるのが気まずくなったか1573年頃には小田原を去り、徳川家康のいる遠江の浜松に移りました。

 

そして1575年頃には京都に移り、公家の方々と交流や和歌などを楽しんだりと、穏やかな日々を送っていたんだとか。

 

 

…といいつつ、徳川家康から遠江の牧野城を与えられていた時期もあったというし、

 

三河に武田軍が侵攻してきた時には徳川家康に協力して戦のお手伝いをしていたこともあったとのことで、戦国武将っぽい事もしていたようです。

 

 

マジでチョロっとだけね。

申し訳程度しか働いた記録なくて笑けちゃう。


 

ちなみにこの時期、織田信長と京都の相国寺で会見し、信長にせがまれ蹴鞠を披露するという出来事がありました。

 

 

氏真くん、蹴鞠がプロ並みに上手いと聞いたもんで。


 

織田信長は父親の仇、この時の氏真の心境やいかに…。

 

 

父の仇とはいえ、お世話になってる家康さんの同盟相手だからね。

上手く付き合えるならそうしなきゃでしょ。


 

その後、織田信長と交流があったのかは謎…。

 

ここらへんの時期から、氏真がどこで何をしていたのか不明になっていきます。

 

 

なんせニートみたいなもんなので…。

歴史に記されるほどのエピソードがない。


 

1590年代には京都にいたとのことで、徳川家康や豊臣秀吉など時の権力者らに所領をあたえられていたという噂であります。

 

ちなみに、徳川家康とは良い関係を築いており、晩年には氏真が家康に会いに行くなど交流も多くあったようです。

 

 

頻繁に来られすぎてそこそこかなり迷惑してたのは内緒の話…。


 

何はともあれ、戦に負けた大名の末路といえば死、貧困、敵に服従…とろくなもんじゃかったりもしますが、

 

今川氏真の場合は衣食住の面倒を見てくれる人が絶えず日々の暮らしは安泰、

 

働くことを強要されることもなく、蹴鞠や和歌にと好きな事を楽しんで生きてきたということで総合的に見てとても良い人生を送ってきたのではないでしょうか。

 

 

おまけに夫婦円満、夫婦で長生き!

私は妻が亡くなってから2年後に77歳で天寿を全うしたよ。


 

そんな今川氏真の辞世の句は…

 

 

なかなかに

世にも人をも恨むまじ

時にあわぬを身の咎にして

 

※こういう境遇だから私が世の中や人を恨んだりしてると思うでしょ?

別にそんな事はないのよ。

何が悪いってもう、時代が私に合ってなかったんだわな。


 

と、

 

 

悔しとも

うら山しとも思わねど

我世にかわる世の姿かな

 

※ホントなんか、色々あって私の生きる世界がガラリと変わっちゃったなぁ…ってしみじみ思うわ。

でもね、意外と自分が大名の地位を失ったことに対して悔しいとか、活躍してる大名達のこと羨ましいとか全然思ってないんだよね。これマジ。


 

…であります。

訳は適当だけど、多分こんな感じのニュアンスで合ってるでしょう。適当

 

心穏やかに満足した生活を送ってる感、争いと無縁になれたことにホッとしてそうな感じ、

 

そして武将としてギラついている感じが一切なく、この人、戦国時代向いてなさそうって思わせられる感じがいいですね。

 

 

戦国大名的には負け組だけど、これで良かったのだ。

自分が楽しい満足!!って思えることができる人生大勝利✌


 

 

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