今川義元VS織田信長!桶狭間の戦いをわかりやすく!
今川義元といえばなんたって桶狭間の戦い!
今川義元は大軍を率いていたのに、少数の織田信長に負けてしまった…!
それゆえなんか無能っぽい、ダメな武将みたいなイメージがついちゃってるけど、実はそんな事はないのよー!
今回はそんな今川義元のネガティヴなイメージを払拭できるかもしれない、桶狭間の戦いをゆるりとご紹介っ!
※ちなみに、徳川家康はこの頃まだ松平元康と名乗っていたけど、家康の方がわかりやすいのでこちらの名前で書いているわよっ。
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今川義元、負けるはずのがないので尾張へ侵攻。
1554年、今川義元は武田信玄・北条氏康と三国同盟を結びました。
これから6年後の1560年、背後の憂いが亡くなった今川義元は、長年の望みであった上洛に踏み切ります。
私のような高貴な身分の人間が上洛しなくてどうするの?
将軍ともっとズブズブの関係になって、今よりビッグな大名になるわよ~っ!!
ってな感じですね。
そしてその際、障害となるのが上洛ルートにある尾張の織田信長です。
とはいっても、駿河・遠江・三河の三ヶ国を支配する大大名の今川義元からすれば、織田信長はたかが尾張一国の田舎の小大名なので
恐れるに足らず。
ちょっと通らせてもらいますね~で軽く踏み潰してやるわ。
ってな感じで余裕だった事でしょう。
今川義元はこんな感じで尾張へと侵攻を開始するのであります。
まさかあんな事になるとは思いもせず…!
桶狭間の戦いが始まる前の状況、それぞれの様子とは??
この頃、今川義元はすでに尾張の一部を制圧し、鳴海城と大高城を今川家家臣に守らせていました。
そして織田信長はこれに対抗する為、この二つの城に対して計5つの砦を築き、今川勢に睨みをきかせておりました。
※あとでこんな感じで戦う事になる
この時、織田信長が動員できた兵は4000程度。
このうち1500を5つの砦に分散して配置し、2500を信長の本拠地・清洲城に配置していました。
正直、大勢力の今川と張り合うのはかなり厳しい…。
そんな状況の中、今川義元はおよそ2万5000もの兵を動員して進軍を開始。
ひとまず尾張の沓掛(くつかけ)という地に布陣しました。
今川の作戦はこう!
葛山信貞に5000の兵で清洲城を包囲させ…
徳川家康、朝比奈泰能、三浦備後守の三名にはそれぞれ3000の兵をもって、織田軍の守る5つの砦を攻めさす!
私は後から皆と合流するね。まぁ私の本隊がいなくても余裕だろうけど。
先陣は配下にまかせ、今川義元はまったりと道を進むことに…。
織田信長が出陣するに至るまで…
1560年5月18日の夕方頃…
清洲城にいる織田信長のもとに、今川軍来襲の知らせが入ってきます。
敵はかなりの数…砦の者共は討ち死に覚悟で今川勢に挑む模様。
清洲城に来るのも時間の問題なので、我々も急いで籠城戦の準備をしましょう!
籠城はしない。
出陣の時がきたら言うから、皆はゆっくり休んでおいて。
驚く事に、信長は作戦会議など一切せず。
困惑する家臣をおいてさっさと寝室に入って寝てしまいました。
家臣からすれば不安でしかない状況ですが、実は信長は心の中でしっかりと作戦を立てていたし、密かにしっかりと情報収集も行っておりました。
(この兵力差…。万に一つの望みがあるとすれば奇襲しかない!)
作戦は奇襲に決定。
しかし、家臣には伝えない。
信長という男はいつもこんな感じだったらしいです。
いい意味でも悪い意味でも一般常識が通じない、ちょっと変わった感覚の持ち主だったように思います。
さておき、信長は蜂須賀正勝に今川軍の動向を探らせ、こと細かく報告させていました。
今川義元のいる本隊だけに的をしぼり、隙を見つけてそこをピンポイントで狙う作戦を考えていたのです。
しかも敵の動向だけでなく、天候の事も考えておりました。
信長は天気が見れるという者に何度も出陣予定日の天候を占わせていたそうです。
そして信長は、『その日は嵐に見舞われる』という占いの結果に勝利を確信。
嵐なら敵の動きも鈍るし、我々の行軍も雨音に消されて敵に気づかれにくい。
今川の先鋒隊が砦に集中している隙に、バレずに義元の本陣付近にスタンバイできれば…いける!!
夜中2時、信長は起き上がると突然出陣の号令をかけました。
具足をもてーい!出陣じゃー!
あと湯漬けも食べたい用意して!
これには家臣達もびっくり仰天。
今から?!急すぎー!
夜中なら進軍してもバレないでしょ?
今回は奇襲だから敵に察知されない事が一番大事なの!
城内がザワつく中、信長は湯漬けをかきこみ、お気に入りの幸若舞『敦盛』を舞うと甲冑を身につけました。
こうして気合い十分で清洲城を出立。
織田の軍勢は間道を走り、今川義元の本陣目指してひたすらに進んで行ったのであります。
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『桶狭間の戦い』だけど実際は田楽狭間での事件
その朝方、織田信長は清洲城と桶狭間の中間地点ぐらいにある熱田神宮に到着。
そこで必勝祈願をしたと言われております。
さておき、鳴海城、大高城周辺では朝から今川軍が攻撃を開始し、次々に織田軍の砦を落としていきました。
そして鳴海城でも戦になりましたが、ここでも今川軍が勝利しております。
織田信長はこの戦況を耳にしつつ今川義元の本陣へと進軍を続けるのですが、その道中、情報収集にあたらせていた蜂須賀正勝から報告が入ります。
義元は兵を進めて、今は田楽狭間で休息をとっております。
しかも馬の鞍まで降ろさせてガッツリ休息中!
キタ!この時を待っていたのだっ!
田楽狭間は文字通り、そんなに幅に余裕のないゾーンであったようです。(実際、どこで奇襲があったか詳しい場所は不明らしい)
そのような場所で休息をとったとなれば今川の軍勢は縦に伸びるので、義元がいる場所をピンポイントで狙えばその前後の兵は機能しなくなります。
今が絶好のチャンス!
織田信長は敵に察知されないよう山道を遠回りし、田楽狭間を見下ろせる丘にスタンバイしました。
ちなみに、占いで『嵐』と出た通り、信長が丘に到着する一時間ほどの間に大雨が降ったとのこと。
この神がかったタイミングの大雨で信長は思惑通り敵に気づかれることなく進軍できたし、今川の軍勢をその場に足止めすることができました。
やっと雨やんだ…。
片付け終わったら出発するかな。
今川軍は完全に油断してる…
皆の者、いざ!
今川義元目掛けて突撃開始ーっ!!
織田信長は今川義元の本陣目掛けて一気に丘を駆け下りました。
何事ー?!
今川軍の兵達は雨宿りを終えたばかりで戦う準備など全く整っておらず、突然の奇襲に驚いて皆一斉に逃げ出してしまいました。
そんな中でも本陣の旗本達は円陣を組み義元を守るのですが、すぐに織田軍と戦闘になり次々に討たれてしまいます。
そしてついに…
服部小平太&毛利新助
あれが今川義元だ!絶対そう!
義元は狙いを定められてしまいます。
この時、義元は黄金の龍をあしらった兜に真っ赤な陣羽織を羽織り、お高そうな太刀、脇差をこさえていたそうです。
私が煌びやかすぎたせいで速攻で特定されてしまった!
絶対絶命の今川義元…!
正直、武勇に優れているとか勇猛果敢とか、そういったイメージは全くない!
このまま無様にやられてしまうのか…?!
と思いきや、今川義元はやってくれました。
凄まじい気迫で敵に立ち向かっていったのであります。
やすやすとこの首とれると思うなよッ!!
義元は服部小平太が繰り出す槍の穂先を名刀・左文字で切り落とし、小平太の膝を切りつけてやりました。
倒れる服部小平太、
しかし、そこに毛利新助が義元を背後から組み伏せる…!
そして義元の首を切り落としにかかる…!
が、最後の最後でこれまた義元は意地を見せた!
毛利新助の人差し指を食いちぎってやったのです!
冥土の土産に指一本もらっていくぜ!!
ってやつですかね。雲のジュウザを彷彿とさせます。壮絶!
武士の意地を見せたね。
公家ラーで煌びやかなイメージの私とはギャップがあるんじゃない?
討ち取られた義元の首は凄まじい形相であったと言われています。
そして後の首実験で、義元の口の中から毛利新助の指が発見されたとの事。
この時、お歯黒してたらしい。
想像すると怖い。
改めて戦国時代って凄い時代!
桶狭間の戦いが終わった後の織田信長
桶狭間の戦いで出た今川軍の死者は2000名ほど、それに対して織田軍の死者は300名ほどだったと言われております。
兵力差を考えると織田軍の圧勝。
信長は残る今川軍に警戒しつつ、義元の首を掲げてルンルンで清洲城へ帰っていったとのことです。
夢みたいな1日!
あの大大名の今川義元を討ち取ったなんてホント革命的!
この桶狭間の戦いで織田信長の名は全国に広まることとなりました。
信長はここからグイグイ勢力を拡大させていく事になります。
桶狭間の戦いが終わった後の徳川家康
砦で戦っていた今川の武将達は義元の死を聞くとすぐに駿河へと退却していくのですが、徳川家康は他の武将達よりワンテンポ遅れて退却を開始しました。
家康と言えば故郷の三河を離れて今川家に人質に入り、長い間義元に従ってきたわけですが…
今川家これからめちゃ大変やん?
一大事だし、三河の岡崎城にいる今川家の人達もひとまず駿府へ戻るよね?
義元さんいないならワシ、このまま三河に帰れそうじゃない?
今川家の人もワシの事なんかかまってる暇ないっしょ。
家康はこの混乱に乗じ、岡崎城にいる今川家家臣が駿府に帰っていくのを確認した後にちゃっかり岡崎城に入りました。
本当のホームにやっと帰ってこれた!
12年ぶりの当主の帰還に岡崎城は湧いたとのことです。
これを機に家康は大名として独立。
そしてこの2年後に織田信長と同盟を結ぶことになります。
今川義元はなぜ負けてしまったのか。
桶狭間の戦いで織田信長が勝利したのには
情報収集を徹底し、自信を持って奇襲作戦にでることができた
嵐が起こるという幸運に恵まれた
大軍に立ち向かう勇気があった
このような理由があります。
今川義元は弱小勢力相手に負けてしまったので、なんだか無能っぽいようなネガティヴなイメージがついちゃってますが、
普通に考えると今川が負けるはずのない戦なわけで、今川義元が無能だったのではなく、織田信長がやり手で運も良かったというわけです。
とは言っても、砦の方の戦いで大切な家臣達が討たれちゃったしこっちもダメージでかかった。
そしてこの時、今川義元のそばに優秀なブレーンがいなかったという事も今川義元が負けてしまった理由の一つかと思われます。
これまで戦や外交など、大事な局面において戦略を立てていたのは太原雪斎(たいげんせっさい)という軍師でした。
太原雪斎は今川義元の22歳年上の僧侶。
学問に長け、優れた兵法家でもあったそうです。
今川義元を幼い頃から教育してきたのもこの方であり、三国同盟を成して上洛の足掛かりを作ったのもこの方です。
その太原雪斎は桶狭間の戦いが起こる5年前に死去。
大軍を率いて余裕があったとはいえ、太原雪斎がいたなら今川義元はもっと慎重な行動ができていたかもしれないのであります。
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おまけ・本当は素晴らしい大名だった今川義元
桶狭間の戦いでの敗北に加え、公家かぶれだとか、胴長短足で馬にも乗れなかったとか散々なイメージがある今川義元ですが、国の統治力は抜群に優れていたとのことです。
検知をしっかり行って年貢や軍役を定めた
楽市で商業の自由化を行った
金山開発を行い資金源を確保した
このような政策で国の財政と軍事をしっかり整備していたようです。
そして今川義元が制定した『今川仮名目録(国を治める法律みたいなもの)』は最高に完成度が高いと評価されているとのこと。
あの武田信玄もこの『今川仮名目録』を参考にして自分の国の法を作ったそうです。
大名としての実績は十分。
詳しく知れば、なかなかに魅力的な武将じゃない?
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