徳川四天王筆頭、酒井忠次!家康との逸話や活躍をゆるりと

徳川四天王筆頭、酒井忠次!家康との逸話や活躍をゆるりと

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徳川四天王筆頭、酒井忠次!家康との逸話や活躍をゆるりと

酒井忠次

生涯 1527年~1596年
出身 三河
全盛期 東三河のまとめ役となる
主君 松平広忠、徳川家康
思い出の戦 桶狭間の戦い、吉田城攻め、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、小牧長久手の戦いなど
酒井忠次といえば 徳川四天王の一人、家康の恨みを買った?

 

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酒井忠次の逸話や歴史をゆるりと解説

徳川家康には『徳川四天王』なんて呼ばれる優秀な家臣たちがいることは有名ね~!


今回はその『徳川四天王』の中の一人、酒井忠次をピックアップ!

 

もしかすると、一般的にはそんなに有名な人物じゃないかも…?

 

でもでも、実は四天王の筆頭!

徳川家には欠かせない重要人物なのよ~。

 

いい仕事したこともあったしやらかしたこともあった…

長年家康に寄り添い、家康の天下取りを支えに支えた酒井忠次をゆるりとご紹介~!

 

特別な存在である徳川四天王の中でも特別?!酒井忠次とは?

 

戦国時代…

今川義元や織田信長が台頭してくる以前、三河で力を持っていたのが松平氏でありました。

 

松平氏といえばあの徳川家康を輩出した一族であるわけですが、

※家康は1566年に松平から徳川に改姓している。

 

酒井氏はその松平氏から派生した東三河の豪族であり、松平氏に仕える最古参の一族でありました。

 

酒井忠次は家康の父・広忠の代から松平家に仕えているのですが、

 

こういった縁の深さ、存在感の大きさから他の家臣とは別格の存在だったといいます。

 

 

ワシ、広忠様の妹を嫁にもらっておりますしね。

強い結びつきがあるのですよ。


 

1549年…

8歳の家康は今川義元の人質となる為に駿府へ送られるのですが、この際、酒井忠次も家康と共に駿府へと移っております。

 

 

ちなみにワシは殿の15歳年上。

良き家臣であり、頼れるお兄ちゃんって感じの存在だったかもね?


 

家康は1560年に起こった桶狭間の戦い(今川義元VS織田信長)に今川軍の一員として参加し、

 

その戦で今川義元が討ち死にし、今川家家中が混乱したのを好機とみて、三河に勝手に帰国して大名としての独立を果たします。

 

その後、忠次は家康の家老となり、晴れて三河の大名徳川家康(この時まだ松平だけど)を支える家臣団のトップに立ち、ますますの存在感を放つようになったのであります。

 

 

ワシは殿が幼い頃からずーっと、殿の人生に寄り添い尽くしてきたのだよ。

殿のピンチはワシが守る!


 

酒井忠次は地味?んなことない、戦では大活躍!海老救いの逸話

 

徳川家康といえば、俗に徳川四天王と呼ばれる有能な4人の家臣がいることが有名であります。

 

この徳川四天王は酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政の4人で構成されているのですが、

 

 

な、なんか…家臣団のトップにいるはずのワシが1番地味…?!


 

忠次以外の四天王メンバーがゴリゴリの武闘派で戦でばちばちに活躍して注目を集めているので、残念ながら酒井忠次はあまり目立った印象がないかもしれません。

 

しかし、酒井忠次は他の四天王メンバーより20歳以上歳が離れているのもあり、経験豊富。

 

実は数多くの戦に参加し、しっかりと武功を残しております。

 

 

パパッとワシの戦歴、見てこか!


 

1563年に三河で起こった一向一揆ではもっとも功績があったとの噂アリ。

 

宗教勢力との戦ということで、酒井一族の多くが信仰心をとって一向衆側についたのですが、忠次は家康の味方を貫き信用を得ております。

 

1572年に起こった三方ヶ原の戦い(徳川家康VS武田信玄)は武田軍の猛攻により徳川軍が敗北するのですが、

 

浜松城を守っていた酒井忠次は城門を開いて大篝火を焚かせ、大太鼓を打ち鳴らして撤退してくる味方を鼓舞し続けたといいます。

 

この時よほどの勢いがあったのか、武田軍は

 

 

敗者側の空気感じゃなさすぎるぞ!

城門全開で簡単に侵入できる状態だし…これは何かの計略か?!


 

と警戒し、追撃を止めて引き返したのでした。

 

 

我が軍がボロボロのまま城を攻められてたらどうなってたことか…。

ワシの活躍で殿は九死に一生を得たというわけさ。


 

 

罠かと疑心暗鬼にさせる『空城の計』にビビって敵は撤退したわけだけど、これワシの指示でやったことだからね。


 

1575年に起こった長篠の戦い(織田信長・徳川家康連合軍VS武田勝頼)でも武功アリ。

 

家康配下の武将が守る長篠城が武田軍に包囲されていたのを救ったのが酒井忠次でした。

 

 

ワシが作戦を提案し、自ら別動隊を率いて密かに山道を進み長篠城を囲む武田軍の砦に奇襲をかけたのだ。


 

酒井忠次はこの奇襲で武田勝頼の叔父・河窪信実を討ち取り、その後に長篠城付近に控えていた武田の別動隊を討伐するという武功を挙げ織田信長から

 

 

海道一の武辺者!


 

と称賛されたといいます。

 

ちなみに、徳川軍は以前三方ヶ原の戦いで武田軍に惨敗していた為、この長篠での戦に士気が上がらなかったそうです。

 

そこで酒井忠次は軍の士気を挙げる為、海老すくいの踊りをおどって仲間を鼓舞したんだとか。

 

 

あ、なんか大河ドラマとかで酒井忠次が踊ってるの見たことある!

…って方、いるんじゃないかしら~?元ネタこれよ~!


 

酒井忠次、外交官としても活躍!織田信長との連絡役を務めていた

 

1562年…

徳川家康は織田信長と同盟を結びました。

 

それ故、徳川家康と織田信長は連絡を取る機会が多かったわけですが、そこで織田信長との外交を担当していたのが酒井忠次でした。

 

同盟とは言っても力関係は織田信長が上、結構なプレッシャーを感じるであろう重役であります。

 

 

殿と同盟を結んで以降、信長はメキメキと頭角を現して1580年に入る頃には天下人最有力候補!!って感じだったからね。

同盟相手と言えど、脅威を感じちゃうよねぇ…。


 

1579年には徳川家康の妻・築山殿と嫡男・信康が武田氏と内通しているという疑惑が浮上してしまうのですが、

 

この時、信長の元へ弁明に向かったのも酒井忠次でありました。

※この事を信長に報告したのは信長の娘であり信康の妻である徳姫だった。夫婦仲、嫁姑仲ともに良いものではなかったそうな。

 

その時の忠次と信長のやり取りがどのようなものであったかは謎ですが、忠次は上手く弁明することができず…

 

信長から

 

 

信康を切腹させるように。


 

と言い渡されてしまいました。

 

 

信康様の無実をもっと必死で訴える事もできたかもしれんが…

これ以上信長の怒りを買えば、徳川家そのものの立場が危うくなるから…。

ハイと言うしかなかったのだ…。


 

忠次から報告を受けた家康は…

 

 

こうなってしまってはもう弁明の余地もない。

信康を処することでしか、信頼を取り戻せないだろう。


 

徳川家を守る為に信康を切腹させ、築山殿も家臣に手討ちにさせたのでした。

 

信康の切腹は酒井忠次のせいというわけではありませんが、家康は忠次を恨んだというし、徳川家の家臣達も

 

 

こんなことになってしまったのは忠次殿が十分な釈明を行わなかったからだ。


 

と忠次を非難したといいます。

 

なんにせよ、忠次は難しい役を任されてちょっと気の毒…。

 

 

何を言っても信長は許すつもりなかったと思うんよ。

自分の敵となりうる人間なんかいないに越した事ないわけだし。

私の力不足とかじゃないもん…。多分。


※信康の死に関しては色々説があるので、本当は酒井忠次のせいじゃなかったかもしれない。

 

…と、このような事がありましたが、忠次はこれ以降も変わらず家康に仕えております。

 

1582年には殿や四天王メンバーらと一緒に堺見物に出かけておりますし、

 

その最中、本能寺の変が起こった時には…

 

 

信長様と懇意だったワシも命狙われるかも!?

明智光秀の軍勢に見つからないように堺を脱出しなきゃ!


 

 

必ずや殿を守る!


 

 

敵を避けつつ最短ルートで帰るには伊賀を通ることになるね!


 

 

伊賀は治安悪いし、落武者狩りにも要注意しなきゃだわ!


 

 

大変だけどみんな心折れるんじゃないぞ!

がんばろー‼︎


 

仲間と共に家康を守り、伊賀を越えて無事に三河に帰還させております。

 

 

その後も天正壬午の乱、小牧長久手の戦いなどでしっかりと働いておるぞ!

殿は変わらずワシを重用してくれたし、ワシもその期待に応えるべく頑張っていたのだ。


 

ヒヤヒヤする逸話。酒井忠次、徳川家康の恨みの深さを知る

 

1588年…

酒井忠次は嫡男・家次に家督を譲って隠居しました。

 

家康の恨みの深さを知って身を引いたという噂でありますが、

 

信康の事件以降、10年近くずっと家康の側近として働き続けてきたので、ホントにそれが引退理由だったのかは疑問が残るところであります。

 

病が理由とも言われているようですし。

 

 

信康様の事件以降、人望が薄れてなんだか職場に居づらくなった…みたいな事情もあったかもね?


 

しかし、徳川家康が酒井忠次を重用しつつも、密かに恨んでいたのは事実。かもしれない。

 

こんな逸話があります。

 

1590年、豊臣秀吉の命令で徳川家康が関東に移封となった後…

 

 

関東に国替えとなって家次にも領地が与えられたのはいいが…

10万石とか与えられてる家臣もいるのに、徳川家のトップ家臣だったワシの息子が4万石以下って酷い…!


 

酒井忠次は家次があまり厚遇されていなかったことに不満を抱いたか、

 

 

殿、どうかもう少しだけでも家次の領地を増やしていただけないでしょうか?

何卒、ウチの息子をよろしくお願い致します。


 

と直談判、すると家康は

 

 

お前でも息子を可愛いと思う気持ちがあるんだな。


 

と忠次に返したそうな…。

 

 

ァ…ァ…ゥグゥ


 

 

自分の息子の事だとそんなに必死になれるんだねー。

ワシの息子のピンチの時もそんくらい必死に言ってくれればよかったのにねー。


 

晩年、自分の失言により家康の恨みの深さを知った忠次…

 

それから1596年に亡くなるまで、家康とどのような関係であったかは謎であります…。

 

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