戦国最強武将!本多忠勝をゆるり解説!
生涯 | 1548年~1610年 |
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出身 | 三河(愛知県) |
全盛期 | 伊勢桑名15万石 |
主君 | 徳川家康 |
有名な親族 | 本多忠高(父)、忠政(長男)、稲姫(娘)、真田信幸(娘婿) |
思い出の戦 | 姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、小牧長久手の戦い、関ヶ原の戦い |
本多忠勝といえば | 戦国最強、天下無双、蜻蛉切り、伊賀越え、別名は平八郎 |
本多忠勝は徳川四天王の一人であり、家康一筋に忠義を尽くしてきました。
生涯で57度戦にでて、一度も怪我をした事がないという戦国最強のレジェンド武将です。
とにかく勇猛果敢で強い武将とのイメージがありますが、ただ突っ込んでいく荒武者のようなものではなく、冷静沈着で判断力もあるとっても頼れる武将なのであります!
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信長も嫉妬した?幼い頃から男前な本多忠勝!
徳川家康には父、祖父の代と代々仕えてくれる譜代の家臣がいます。
本多忠勝の父や祖父も、三河で家康の父や祖父に仕えてきました。
そう、本多家は代々ゴリゴリの三河武士なのであります。
そして本多忠勝は家康より6歳年下で、幼い頃より武士として活躍していました。
初陣も13歳と早かったようです。
そして忠勝が14歳の時、徳川家の武士としての貫禄を十分に見せつけるこんな出来事がありました。
徳川家康が織田信長と同盟を結ぶ為に尾張の清洲城へ向かった時の事・・・、清洲の城下町では
かつて織田家の人質であった三河の坊ちゃんがやってきたぞ!
立派な武士に成長したそうだ!
とのことで、家康を一目見ようと沢山のギャラリーが集まってきたそうです。
本多忠勝は、槍を手にとり家康の前に出て
我が殿は信長様との会見の為にここへきただけ!
何をそんなに騒ぎ立てる!無礼であるぞ!
とギャラリー達に一喝。
この時の事を聞いた信長は、忠勝の男っぷりや家康への忠義心に関心して羨んだと言われております。
家康はホント家臣に恵まれてるね。やつらの信頼関係に嫉妬するわ。
家康の人質時代について詳しく知りたい方は後でコチラを読んでね!
姉川の戦いで忠勝は最強武士と一騎討ち!
1570年、織田・徳川連合軍VS浅井・朝倉連合軍の姉川の戦いで本多忠勝も参戦。
この戦で徳川軍は、朝倉軍に奇襲をかけて敗走させるなどの活躍をしています。
そしてその朝倉軍には、北国一の猛将と言われる真柄十郎左衛門(まがらじゅうろうざえもん)という武将がいたのですが、
忠勝はこの真柄十郎左衛門と一騎討ちをしたという伝説があります。
この十郎左衛門、太郎太刀という名の2m30cmもある刀を自在に操り軽く十数人を斬り伏せてしまう化け物武士でした。
勇猛果敢と言われる三河武士達も、さすがにこの真柄十郎左衛門の鬼神っぷりに恐れおののいて近づくことができなかったそうです。
そんな中、果敢に十郎左衛門に挑んだ忠勝の姿は徳川軍の士気を大いに上げたといいます。
しかし、残念ながら忠勝は真柄十郎左衛門を討ち取ることができませんでした。
その後、徳川軍の向坂式部という武将が十郎左衛門に挑み、さらに数人が加勢してやっと討ち取ることができたそうです。
勝てなかったんかい!なんて思わないでね?これにいたっては忠勝の男気を評価してくれよな!
ちなみに姉川の戦いは織田・徳川連合軍が勝利しているぞ!
ピンチに強い本多忠勝!in三方ヶ原の戦い
1572年、武田信玄が徳川家康の領内へ侵攻してきたことで始まったのが三方ヶ原の戦いです。
この三方ヶ原の戦いで家康は、倍の兵力を引き連れている武田信玄に果敢に挑むも惨敗。
討ち死に上等!最後まで戦う!!
とヤケクソになっている家康を家臣たちは強引に居城へ連れて帰ることとなります。
忠勝はこの負け戦待ったなしの三方ヶ原で、武田軍最強と言われる山県昌景の軍勢とぶつかり、一時は忠勝側が優位に立つほどに奮戦したといいます。
この三方ヶ原の戦いは、家康を守る為に沢山の家臣が討ち死にしました。
家康も武田軍の凄まじい勢いに恐怖して撤退中に脱糞してしまったほどです。
かなり苛烈であったこの戦で忠勝は、武田家家臣最強の山県昌景の軍勢と戦い、無傷で生還しているんだからホントに凄い武将であります。武田家の武将達からも、
家康に過ぎたるものは二つあり、唐のかしらに本多平八
(本多忠勝ハンパねぇぜ!家康なんかにはもったいねぇ!)
と評価されております。
※唐の頭(からのかしら)とは、ヤクという動物の毛で作った兜についてる飾りの事で、輸入品の超高級品。
ディスられておる・・・?
ちなみに武田家滅亡後、山県昌景の軍勢が徳川家の家臣になったぞ。
関連の逸話漫画
家康を救った伊賀越え!大活躍の本多忠勝!
1582年、本能寺の変で織田信長が明智光秀に裏切られて死去。
この時、徳川家康は織田信長に招かれて大阪の堺に滞在していました。
大阪の町は織田信長の支配下にあり安全地帯であったし、観光気分の家康はもちろん戦支度なんかしているはずもなく・・・。
織田信長と同盟関係にあった徳川家康は、明智光秀に狙われる可能性が大いにある状況なのです。
急いで三河へ帰るぞ!!光秀に見つかったらやられる!!
明智光秀の伏兵に見つからないようにするには、本能寺の変が起こった京からなるべく離れたルートかつ最短距離で帰るのが一番。
家康達は伊賀を通って三河へ帰還することにします。
世に有名な『伊賀越え』であります。
光秀に見つからないルートといえどこの伊賀の地は、野盗や野武士などの荒くれ者が生息する危険な地でした。
さらにそれをなるべく避ける為にも獣道などを行くことになるし、本能寺の変を知った者達から落ち武者狩りに合う危険もありました。
十分な戦支度もなく、共の数も30名程・・・家康はあまりのハードな状況に心が折れてしまいます。
無様に逃げ回って敵に討たれてしまうくらいなら信長様に殉じてここで自刃しよう・・・。
無念でございます・・・。
家臣達はこの家康の言葉を聞いて従おうとしました。
しかし、忠勝だけは違います。
諦めてはなりません!どんな手を使ってでもこの窮地を切り抜け三河へ帰るのです!
そうすれば信長様の仇討ちだってできる!
信長様に殉ずるのはその後でもよいでしょうっっ!
た、忠勝ぅ!
忠勝は皆がお通夜モードの中、一人家康を励ましたのです。
忠勝は襲い来る敵を槍で突き倒し、時には
もう走れないよぅ
なんていうポッチャリ主君をおんぶしてあげたりしながら無事に伊賀を越え、三河に帰還したのであります。
伊賀越えは『家康の人生で死ぬかと思った出来事ベスト3』に入る大事件なのだ。
あの時忠勝が励ましてくれなかったら家康の人生はとっくに終わってたね。忠勝には本当に感謝してるんだ。
槍働きだけでなくメンタルも強くて男前な本多忠勝・・・カッコイイですね!
秀吉も認めた!小牧長久手の戦いでの本多忠勝
1584年、羽柴秀吉VS徳川家康・織田信雄の小牧長久手の戦いで忠勝は秀吉に
天下無双の武士じゃ!!
と言わす活躍をしております。
初めは両者、小牧の地で睨みあいをしていましたが、羽柴軍は兵を分けて家康の本拠地を急襲しに岡崎城へ向かいます。
その策に気づいた家康は兵を分けて羽柴軍を長久手の地で奇襲し、勝利を収めます。
忠勝はこの時、小牧の陣でお留守番!
これに怒った秀吉は、大軍で兵を向けることとします。これを知った忠勝は、
先の戦で味方の兵は疲労しきっている!
家康様が兵を立て直す時間を稼ぐぞ!
我々が先頭に立って秀吉の軍と戦って少しでも敵の進軍を遅らせるのだ!
と、たった500の兵を連れて秀吉の8万もの軍勢の前に立ちはだかりました。
この凄まじい兵力差の中で忠勝は、鉄砲を撃ち込むなどして秀吉軍を煽りに煽ったのです。
オラオラッ!こいよっ!戦しようぜっ!!
と誘っていたわけですね。秀吉はそんな忠勝を見て
あの者は家康の勝利の為に死を覚悟して我々に立ちはだかっているのだ!
凄まじい度胸!見事天晴れ、奴は天下無双の武士であるっ!
と褒め称え、
本多忠勝を討ち取るチャンスですぞー!
という家臣の意見を
あんな勇者をこんなところで死なすのはもったいないっ!!
との事で却下したんだとか。
秀吉にスカウトされるも忠勝は泣いて断った?!
小牧長久手の戦いで忠勝に心底惚れ込んだか、秀吉はその6年後にこのような行動にでています。
北条攻めの後に天下人となった秀吉は、諸大名の前に忠勝を呼び、
四郎は誠の勇者であったと語り継がれている!この四郎に勝る勇者にこの甲冑を与えたいと思っていたのだが、本多忠勝の他にいないと思うのだ!
と、諸大名の前で忠勝を褒め称え、源義経の家臣・佐藤四郎という者の甲冑を忠勝に与えました。
※源義経は平安時代の英雄。
大名達の前で天下人から賞賛され、かつての英雄の家臣の甲冑を与えられる、これはもう凄まじく名誉なことで忠勝の面目は立ちまくりなのであります。
どやっ
しかしこれだけでは終わりませんでした。
この秀吉の忠勝アゲは下心あっての事だったのです。そして後日・・・、
ねぇ、忠勝の事を真の勇者だと全国の大名達に示してあげたこの秀吉と、主君の徳川家康、どっちをとる?
えっ・・・。
ねぇ?ねぇ?どっち?
秀吉は忠勝にしつこく問いました。秀吉は忠勝が欲しかったのです。
天下人という超絶権力者からの凄まじいパワハラであります。
忠勝はこの問いに涙を浮かべながら
秀吉様のご恩は何よりも深いものです・・・。しかし忠勝は家康の譜代の家臣、簡単に答えられる事ではないのです・・・。
と気まづい答えをするのが精一杯だったそうです。
うーん、残念。
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関ヶ原の戦いではちょっと不満だった本多忠勝
徳川家期待のエースである本多忠勝ですが、関ヶ原の戦いではなかなか自分の満足する戦働きができなかったようです。
家康の命令なので仕方ないですが、忠勝の軍の主力は息子の忠政に預け、忠勝はわずか500の兵を率いるのみ。
家康の味方についた豊臣恩顧の家臣・福島正則、加藤嘉明などを監視するような役割を担っていたのです。
この関ヶ原の戦いが忠勝の人生で最後の戦となりました。
武辺者の忠勝には悔いの残る一戦となってしまったかもしれませんね。
しかし、忠勝の戦働きを近くで見ていた福島正則は
凄まじい強さ!!さすがは天下無双の武士ですねッ!!
と忠勝をベタ褒めしていたそうです。それに対して忠勝は
敵が弱かっただけさ。
と答えたんだとか。他人から見ると十分すぎる働きも、忠勝には朝飯前すぎて物足りなかったのでしょうね。
ちなみに忠勝は最終的には伊勢桑名に15万を領する大名になっています。
家康の家臣では2番目の石高です。
(※ちなみに1番の石高は井伊直政で近江彦根に18万石)
本多忠勝の鎧兜に愛槍『蜻蛉切り』が魅力的!
本多忠勝は最強の名に相応しいカッコイイ甲冑を纏い、『蜻蛉切り(とんぼきり』という最強に切れ味抜群の槍を持っています!
『黒糸威胴丸具足(くろいとおどしどうまる)』というこの甲冑は黒を基調としたもので、兜の前立てには大きな鹿の角がデザインされております。
そして何より斜めに掛けられている数珠がオシャレ!アニメや漫画のキャラ栄えするカッコよさであります!
この数珠は見た目がカッコイイから掛けてるのではなく、倒した敵を弔う為に掛けているのだ!
そして蜻蛉切りというこの槍は、『御手杵(おてぎね)』『日本号(にほんごう)』とともに日本三名槍と呼ばれる一品であります。
通常の槍が4.5mほどのところ、この蜻蛉切りは6mもあったんだとか!
そして槍に当たってきた蜻蛉が真っ二つに切れたことからこの名前がついたそうです。
別の説では、忠勝が飛んでいる蜻蛉を槍で切る事が出来たからとも言われているようです。
そんなの割と誰でもできるんじゃないの?と思ってしまいますが、空中にふわりと舞う蜻蛉を槍で仕留めるには相当なスピードと正確さが求められるそうです。
これが可能である忠勝は、戦場の敵にも同じように的確に急所を狙い素早く攻撃できるという事・・・、めちゃくちゃ強いのも納得であります。
力技や勢いで突っ込んで戦うのでなく、確かな技術を持っていたから戦場で一度も怪我をしなかったのだ。
ちなみに本多忠勝、甲冑のサイズから身長は160cm前後ほどであると推測されているようです。
当時でいうと平均的な身長ですが、最強武将と聞くと背が高くてゴツい姿をイメージしてしまうのでなんだか意外・・・!
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本多忠勝の娘・稲姫に真田家との関係
本多忠勝には稲姫(いなひめ、小松姫とも)という娘がおります。
この稲姫、大河ドラマ真田丸(演:吉田羊さん)や戦国無双などのゲームなんかで結構有名になったかと思われます。
そしてこの稲姫が嫁いだのが真田幸村のお兄さん、真田信幸であります。
かつて、徳川家と真田家は敵対していました。そして忠勝には真田軍と戦って敗北した経験があります。
第一次上田合戦と言われるこの時の戦で忠勝は、
真田家は知略に長けている!かなりの戦上手だ!ぜひとも味方につけたい!
と思い、家康に自分の娘・稲姫を真田家に嫁がせることを提案します。
家康も真田の実力を認めていたのでこの話は実現。そして一度稲姫を家康の養子にして価値をつけてから真田家の嫡男・信幸に嫁がせました。
こういった事情があり、信幸は徳川家康に仕え、信幸の父・昌幸と弟・幸村は豊臣家に仕えるという状況にありました。
信幸は徳川家によく尽くし、忠勝とも良い関係であったそうです。
秀吉亡き後の関ヶ原の戦いでは信幸は徳川家康に、昌幸と幸村は石田三成に味方することとなり、真田家は2つに割れてしまいました。
家康は敗者となった昌幸・幸村親子を処刑すると決定しますが、そこで待ったを掛けたのが忠勝でした。
二人は我が息子の家族、どうか寛大な処置を!
無理!いくら忠勝のお願いでも聞けない!
そうですか。では殿と一戦交わしてでも止めます。戦の準備をしておいてくださいねっ!!
忠勝と戦?!無理無理!!わかった、そこまで言うならワシが折れるよ・・・。
家康は真田親子の処刑を取りやめ、九度山に追放という寛大な処置をとりました。
家康譜代の家臣は忠義心厚すぎて『面倒くさい三河武士』なんて言われる事があるけどまさに・・・だよね。笑
家族の為なら主君にもこんなに強気になれちゃう!忠勝は熱い男なのであります!
大往生?本多忠勝の最後、死因は??
57度戦場にでて一度も怪我を負わなかった忠勝ですが、関ヶ原の戦い後、ついに怪我を負ってしまうという事件が起きました。
関ヶ原の戦いから9年後の1609年、忠勝は息子の忠政に家督を譲り、平和な隠居生活を送っていました。
そしてある日、趣味の木彫りをしている時に手を滑らせてしまい、手に怪我を負ってしまいました。
生涯無傷だったこのワシが怪我を・・・。戦国最強と謳われた本多忠勝ももう終わりだな・・・。
こんな言葉を呟いた数日後、忠勝は63歳でこの世を去りました。なんとも切ない死亡フラグです。
(ちなみに忠勝の死因は糖尿病だったのでは?と言われているようです。)
ちなみに、逸話を見るととにかく強くて性格も男前でカッコイイ忠勝でありますが、辞世の句は意外とこの世に未練タラタラで子供のように単純なものでした。
死にともな 嗚呼死にともな 死にともな 深き御恩の君を思えば
(死にたくない、あぁ死にたくない死にたくないよぅ。家康様から受けた御恩を思うと死ねないよぅ。)
戦国武将の辞世の句にはこれってどういう意味?なんて聞きたくなるような風流な表現を取り入れた句が多いですが、忠勝の辞世の句は超単純なものであります。笑
しかし、この単純さが忠勝の無骨者っぽい一面を想像させるし、人間としての魅力を感じる素敵な一句なような気もしてきます。
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