榊原康政のカッコイイ&素敵な逸話をゆるりと楽しく!
生涯 | 1548年~1606年 |
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出身 | 三河(愛知県) |
全盛期 | 上野館林10万石 |
主君 | 徳川家康 |
有名な親族 | 榊原長政(父)、松平忠政(長男)、榊原忠長(次男)、康勝(三男) |
思い出の戦 | 三河一向一揆、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、小牧長久手の戦い、第二次上田合戦 |
榊原康政といえば | 徳川四天王、懸賞金10万石、腸が腐るというネタ |
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榊原康政は武闘派好きにはたまらない武将!
榊原康政は家康の6歳年下で幼い頃から家康の小姓となり、徳川家一筋で働いてきました。
徳川四天王の一人であり、戦では前線で活躍することの多かった武闘派の武将です。
エピソードのことごとくが強気でやんちゃで男前!
とてもカッコイイ魅力的な武将ですよ~!!
榊原康政の甲冑秘話!素敵なエピソードにほっこり
後に徳川四天王の一人に数えられるほどの存在となり、家康の天下取りに欠かせない人物となる榊原康政ですが、
もともとは身分の高い武士でなく、家康の家臣・酒井忠尚の小姓を務めておりました。
家康の家臣の家臣…というわけで、特段目立つ存在ではなさそうに思えますが、
なにやら康政はとてもマジメで勤勉な子だったようで、それが家康の目に留まり、13歳の頃に取り立てられ家康の直臣となりました。
このおめでたい出世に康政の先輩武士は…
お前は裕福ではなかったから、甲冑をまだ持ってないだろう?
これは餞別だよ、立派な武士になるんだぞ!
と、甲冑をプレゼントしました。
プレゼントと言っても、それは少しばかり擦り切れている甲冑でした。
甲冑はとても高価なもの…。
中古でも簡単に買えるような値段じゃないし、嬉しい…!
康政はその後の戦で毎回、この時もらった甲冑を着用していたといいます。
時が経ち、甲冑が傷んで千切れてもその都度修理して使っていたので、康政は部下よりも粗末でボロボロの甲冑を着ていたそうな…。
家康様に取り立ててもらった御恩、皆への感謝の気持ちを忘れたくないからな。
思いの詰まった大切な甲冑なのだ。
榊原康政はかなり強気な性格!井伊直政とは似た者同士??
榊原康政は結構クセの強い人物であり、知的でインテリ…というよりかはゴリゴリの武闘派武将でありました。
個人的な戦闘能力、戦での指揮官能力、どちらも抜群に素晴らしいとの評価をされているのだ。
ちなみに、同じ徳川四天王メンバーの井伊直政、本多忠勝もゴッリゴリの武闘派武将だぞ。
逸話を見てると、康政は血気盛んでかなり強気な性格をしております。
敵に対してオラつくのは頼もしい事なんだけど、康政の場合は味方にも容赦なくオラついてるのが…。笑
徳川家康の家臣に本多正信という優れた文官がいたのですが、榊原康政は自分の真逆のタイプであるこの本多正信を相当嫌っていたようで、
こやつは腸が腐ってる!
と悪口を言っていたそうな。
そして康政より13歳年下の井伊直政が『井伊の赤備え』の隊長に任命された時には
なぜ俺じゃないんだ!
ムカつく!あのクソガキと刺し違えてやるわっ!!
とジェラシーを燃やしたり、もの凄く攻撃的。
しかしその後、康政は頑張り屋さんの井伊直政を認めたか
死ぬときは一緒だよ///
俺たちは運命共同体だもん///
うん///
今度の戦も一緒に出陣だね///
康政がいてくれると安心する///
というくらい仲良しになっています。
ちなみに康政が嫌ってる本多正信とワシは同じ本多一族。
ワシもこいつ嫌い。
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榊原康政の圧倒的オーラに家康の息子・信康もたじたじ
徳川家康の嫡男・信康と榊原康政のお話…
信康は勇猛な武将であったと言われているのですが、それだけでなくチョイと粗暴で乱暴者な一面があったそうです。
信康様は徳川家の未来を背負っていくお方…!
殿の息子だからって甘やかしたりしないんだからねッ!!
ということで、康政は信康があまりにヒドイ行動をとった時などはきちんと注意していたそうです。
が、信康はあまり聞き入れてくれず…。
なんて生意気な子なんだムカつくぜ。
だが、改めない限り何度だって注意するからな?
後日…
再び信康に問題があり、康政がまた注意をするのですが…
信康
毎度毎度うるさいんだよ!
ころすぞ?!
信康、まさかの逆ギレ。
相当ストレスが溜まっていたのか、康政に向けて矢をつがえました。
このピンチに康政は…
信康様の為を思って言ってるんですが?
どっちが悪いかな?やりたきゃどうぞ。
全く動じる事なく、こう言いました。
信康
(つ、つよい…!!)
信康は康政の凄まじい気迫にビビってしまい、何もできず。
信康
カッケぇよ、康政さん…。
俺、アンタについていくよ。
なんて言ったかはわかりませんが、その後は康政の言葉に耳を傾け、自分の行動を改めていったそうです。
三河一向一揆!榊原康政のデビュー戦がイケメンすぎ!
1560年、駿河の大名・今川義元が『桶狭間の戦い』で尾張の大名・織田信長に敗北して討ち死に。
徳川家康は今川家の人質だったので、今川軍の一員として桶狭間の戦いに参加していたのですが、
義元さんが亡くなり、今川家はパニック状態…。
今なら勝手に今川家を離れても、問題なさそうじゃない?
今川家の人達、ワシのこと構ってる暇ないでしょ。
いい機会なので本拠地である三河へ帰国し、人質生活から解放されて独立を果たしました。
しかし、帰国して早々問題が発生…
まだまだ今川家は力を持ってるから油断禁物!
いつ攻めてくるかわかんないし、戦準備しとかなきゃ!
戻ってきたばかりで三河での体制は整っておらず、家康は戦準備をするのに領民から年貢を強引に取り立て、
その結果、三河の一向宗の信者達から猛反発されて一揆を起こされてしまいました。
※俗にいう三河一向一揆。家康の家臣が一向宗の寺に不法侵入して一向宗側が怒って戦に発展したという説もある。
この宗教勢力との戦、徳川家家臣の中にも一向宗を信仰する者がおり、家康のもとを離れて一揆衆の味方につく者が大勢いたので家康にとって非常に厄介なものでありました。
味方が敵になったうえ、家臣達は宗教勢力と戦うのは神に歯向かう行為で罰当たりだ~なんていもけておる…!
大ピンチだよ!
信仰の元に集った一揆衆達の結束は固く、逆に家康軍の士気は低い。
この厳しい現状を打開したのが…
俺に任せろっっ!
今回の主役、榊原康政であります。
康政は
俺が先陣を行くっ!!
神罰は全て俺が引き受けてやるから皆は敵を恐れず、存分に戦ってくれ!
と大奮起。
康政の言葉を受けて徳川の兵士達は士気を取り戻し、三河の一向一揆は無事鎮圧されたのでした。
何が凄いってこの戦が康政の初陣だったということ。
初陣にして発揮されるリーダーシップ、堂々たる風格にこの男気はイケメンすぎでしょう!
懸賞金10万石!秀吉を激怒させた榊原康政の作戦とは?
1584年…
父の死後、秀吉がめっちゃ調子のってるんですけど!
織田家を乗っ取る気だよ!家康さん助けて~!
もちろん!
織田と徳川は同盟関係にあるもん!頼って頼って~!
家康は織田信長の次男・信雄から要請を受け、羽柴秀吉と戦をすることになりました。
徳川・織田連合軍、羽柴軍が尾張にて着陣。
その後しばらく、お互い慎重だったのもあり睨み合いが続くことになります。
隙を見つけて奇襲の一つでもかけたいところだけど、敵は動く気配がないねぇ…。
良い作戦がありますよ!
俺にお任せを!
戦が膠着状態にある中、榊原康政は…
信長様はどこの馬の骨かもわからん秀吉を拾い、世に出してくれたというのに秀吉はその恩を忘れて織田家を陥れるようなことばかりしてる!
信孝様(信長の三男)を亡き者としただけではあきたらず、織田家そのものを亡きものとするつもりなのだ!
秀吉は欲のままに世を乱す極悪人!今に天罰が下るぞっ!!
こんな書状を秀吉に送りつけ、さらにはこのような事を書いた立て札をそこらじゅうに立てて秀吉の悪口を拡散しまくりました。
秀吉を挑発し、秀吉の軍を動かす作戦にでたのであります。
ピーッッ!!
どこの馬の骨ともわからんとは百姓出身のワシを…身分が低い事を馬鹿にしとるのか…?!
許さん…大恥かかせやがって!!
当然、秀吉は激怒します。
怒りの収まらない秀吉は…
榊原康政、許すまじ!!
ヤツを討った者には10万石与える!
誰でもいいから榊原を討ってー!!
康政の首に10万石という国一つ貰えるレベルの破格の懸賞金をかけたのでした。
その後、戦はどうなったのかというと…
羽柴軍は徳川軍の隙をつき、守備が薄くなっている家康の本拠地を攻める作戦に出るのですが、
その動きを家康が察知。
逆に羽柴軍の隙をつき、長久手の地で奇襲をかけて勝利しました。
榊原康政ももちろんこの戦に参戦。
この戦の大将であった羽柴秀次(秀吉の甥)の軍勢をほぼ壊滅させるという素晴らしい戦働きをしております。
その後はまた膠着状態が続き…
はぁ…戦終わらない…
家康も心から信用できたもんじゃないし。この先どうなることやら…。
秀吉が和睦しようって言ってきてるし、しようかなぁ…。
うん、そうしよう。
信雄くん、ワシと仲直りしたいってさ。
となると、家康殿とワシが戦う理由もないし戦は終わりだね。
いやぁ、平和的に解決できてよかったよ~。
え?信雄くん?
聞いてないんですけど。
『小牧長久手の戦い』は最終的に和睦を結んで終結したのであります。
戦自体は徳川軍が勝ちましたが、秀吉の外交戦略によって立場的には秀吉が家康の上をいくようになってしまいました。
この後、康政は秀吉に呼び出され、
あの煽り文の件はムカついたけど、今思えばまこと天晴れな志であるっ!
君みたいな家臣がいるなんて、ワシャ家康殿が羨ましいよ!
とお褒めの言葉をいただいたという…。
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榊原康政は頼れるアニキ!遅刻した徳川秀忠を助けた!
1600年…
秀吉が死に、有力大名の前田利家も死んだ。
こうなるとワシより力持った大名いないわけよ~。
秀吉の跡継ぎはまだ子供だし、天下取る大チャンス!
そうはさせない!
全力で阻止して豊臣家の未来を守る!
秀吉亡き後、豊臣家に仕える武将達が仲間割れを起こし、こじれにこじれて『関ヶ原の戦い』と呼ばれる戦が起こりました。
この時、榊原康政はというと…
関ヶ原の戦いが起こる前は家康の次男・秀忠に従い、石田三成側についている真田昌幸・幸村親子の守る信濃の上田城を攻めました。
しかし、戦上手の真田昌幸に翻弄されて上田城はなかなか落ちない…。
攻めあぐねているうちに、関ヶ原の地に続々武将達が集結しているとの報を受けたので、やむなく上田城攻めを中断して関ヶ原へと向かいました。
が、関ヶ原の戦いが意外にも早く決着がつき、秀忠御一行は戦に参加することができませんでした。
戦後、
上田城も落とせなかったうえ、戦にも遅刻するとかありえない!
勝ったから良かったものの、秀忠の大軍をあてにしてたからマジ焦ったわな!
情けないっ!!
ワシの面目も丸つぶれだよ!プンプンプン
家康は秀忠に失望し、顔も見たくないと面会を拒否しました。
そこで…
秀忠
計画通り上田城を攻めたつもりだけど、真田が思いのほか強く…。
使者から知らせが来てすぐに向かったけど、まさか関ヶ原での戦があんなに早く終わるとは思いもしなかったし…(´;ω;`)
俺がとりもってあげますから!
ご安心下さいませよー!!
シュンとしちゃってる秀忠をここで救ったのが、我らが榊原康政であります。
殿!これには事情が!
使者の到着が遅れたから仕方なかったんですよ!
ワシはちゃんと間に合うように使者を送ったもん!
その使者に確認してください!
秀忠様を一方的に叱るのはあまりにも酷いですっ!
使者
どうも、あの時の使者です。
悪天候により川が氾濫するなどし、足止めをくらい秀忠様の下へ到着が遅れたのは事実であります。
!
秀忠ごめん…パパが誤解してたよっっ(´;ω;`)!!
康政がちゃんと弁明してくれたおかげで秀忠の誤解は解け、親子は無事に仲直りする事ができました。
秀忠は自分を庇ってくれた康政にとっても感謝し、以前に増して康政のことを慕うようになったそうです。
必要とされてない?榊原康政の晩年はなんだか寂しい?
関ヶ原の戦いの後、家康の天下になると戦ばかりだった戦国時代がとうとう終わる事となります。
となると、平和な時代に重用されるのは康政のように戦場で活躍する武士ではなく、知略に長けた文官タイプの武将…。
康政は晩年、徳川家の老中として政治に携わるようになりますが…
こんな老いぼれが政治に口出しするのは良くないでしょ。
と政権から遠ざかっていったそうです。
(とはいえ、関ヶ原の後は家康のいる江戸から近い上野館林で10万石の大名となっている。)
康政がしょげてる一方で、文官の本多正信は平和な時代の徳川家でかなり権威を誇っておりました。
康政はそういった現状に嫌気がさしていたという噂…。
嫌いなヤツが調子いい所なんて見たくないわな~。
なんか、平和な時代になって居場所がなくなった感じがする…?
徳川家一筋で仕えてきた榊原康政にはちょっぴり切ない、寂しい晩年であります。
そんな榊原康政は1606年に病でこの世を去ることとなります。享年59。
病床に伏せた康政の為に家康が医師や家臣を派遣して心配してくれるのですが、
康政は晩年、家康があまり自分を相手にしてくれない事に拗ねていたのか
康政は腸が腐ってもう死ぬの!
殿にそう伝えてっ!
と、お布団かぶっていじけていたそうです。
しかし、家康の息子・秀忠からのお見舞いは快くお迎えしていたんだとか。
完全に拗ねていたようです。
家康への愛深き故、ということでしょうね。
そして腸ネタ好きだなぁ…っていう。笑
腸と書いて『はらわた』って読んでね?
戦国時代だからさ。
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楽しんでいただけたらイイネ!