北条氏康とはどんな武将?功績や魅力をゆるりと解説!
北条五代の中で一番の名君と評価される北条氏康!
知略・武勇に優れ、大名としての実績も素晴らしい北条氏康なんだけど、
強烈な個性やネタ的な面白さがないからか、チョイ地味なイメ ージがあるかもしれない…!?
今回はそんな北条氏康の功績や魅力をお届けしたいっ…!
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ちょっとややこしいけど『関東の北条氏』は戦国オリジナル
戦国時代、関東の覇者となった『北条氏』…、
その一代目であり、氏康の祖父である北条早雲は、初めて下剋上で戦国大名になった事で有名なお方です。
そしてもともと早雲は『伊勢』という姓を名乗っており、実は自分で『北条早雲』なんて名乗った事はありません。
『北条』と姓を名乗るのは、ワシの父・氏綱の代からよ。
そして『北条』といえば、鎌倉時代に権力を握った源頼朝の妻が『北条政子』ですが…、
戦国時代の北条氏と、鎌倉時代の北条氏は血縁関係や一族の繋がりなんかもナシ。
父・氏綱は、
これから関東で覇を唱えていくには、カリスマ性を発揮する名前が必要だぜ!
という事で、鎌倉時代に関東で権威を誇った北条氏にあやかって、伊勢姓から北条姓に変えたそうです。
戦国時代の北条氏は『後北条氏』と言われ区別されているぞ。
三代目・北条氏康!氏康が当主となった時期、敵は誰だった?
氏康の祖父・北条早雲が関東で北条氏の礎を築き、
氏康の父・北条氏綱がそれを引き継ぎいで勢力を拡大させ、北条氏をグイグイと成長させていきました。
そんな北条氏がノリにノってきた時期に生まれたのが、北条三代目・氏康です。
1541年、氏康が26歳ぐらいの時に父が死去し、氏康が北条家を引っ張っていく事になるわけですが…、
敵勢力
氏綱が死んだ!
しばらく北条は勢いが弱まるだろう、北条を潰すなら今!
まだまだ未熟者の氏康が北条氏のトップとなったという事で、北条の勢いに脅威を感じていた、両上杉氏や関東公方達が結束して氏康に襲い掛かってくる事になります。
氏康が家督を継ぐ前の関東はこんな感じ
扇谷(おうぎがやつ)上杉氏は関東管領・上杉氏(山内上杉)の分家。
後々、上杉謙信を輩出するのがこの山内上杉家。
この両上杉氏や里見氏、足利氏などと北条は敵対していた。
千葉さんは味方だぞ。
強者達を相手にしていたから大変!
そしてこの頃、駿河の今川とは同盟を組んでいた。
けど、後に今川義元が武田信玄と同盟を組んだのに氏綱が怒って、今川との同盟関係が壊れる。
政治力抜群の北条氏康!民への思いやりでカリスマ領主に!
およそ100年続いた北条氏五代の中で、1番の名君と評判なのが北条氏康!
そんな氏康を育てた先代も有能!氏康は父親から、
役にたたない人などいない。百姓も武士もそれぞれに優れたものがある、長所を見つけてあげよう!
義の心を大切に!義に背くは末代までの恥、天運尽きて滅亡をまねくやもしれんぞ!
戦に勝利したからといって驕ったり敵を侮ったらいけない。滅びちゃうぞ!
倹約に努めよ。家臣、民を慈しむべし!。
…このように遺言を受けたとのことです。
0からスタートした北条氏が関東に君臨できたのは、しっかりとした信念、心構えがあったからなのだ。
そして北条氏康は、政治手腕が最高に優れているとの評価をされております。
北条氏は代々『民ファースト』な政治を行い、領民からとても慕われておりました。
氏康の代では度重なる戦、城の改築などで出費が重なってしんどい時期があったのですが、
氏康は徹底して税制改革を行い、北条早雲が定めた『四公六民』の税を貫きました。(領主4:民6の割合)
豊臣秀吉は天下人の時代に『七公三民』を定め、秀吉の後に天下人になった徳川家康も『七公三民』を継続したとの事なので、北条氏の政治がいかに領民に優しいものであったかが伺えます。
各土地の領主達が不当に領民から税を徴収していないか…といった事も厳しくチェックしてたぞ!
その他にも、領民が国のトップである北条に直接意見できるよう、各地に目安箱を設置していたんだとか。
民の為の政治を!
民も喜ぶし、北条の統治力も増すしで皆がハッピー!
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北条氏康は武勇にも優れていた
政治的手腕に優れ、知将といったイメージの強い北条氏康ですが、戦となればとても勇敢に戦う猛将であったそうです。
自ら先頭きって敵に突撃することもあったし、絶対に敵に背後を見せなかった…、
そのため、顔や体に沢山の傷があるものの、背中には一つも傷がなかったんだとか。
氏康の顔の傷からかもしでるオーラが凄かったか、敵は氏康の事を『氏康傷』なんて呼んで恐れていたそうです。
若い頃は『弓馬の腕、腕力では肩を並べる者はいない』なんて称賛されていたのだ。
北条氏康が関東の覇者となった決定打は『河越野戦』!
1545年、北条氏康が当主となって最初の大事件が起こります。
関東最大の敵である山内・扇谷上杉氏 に古河公方・足利晴氏が手を組み北条領へと侵攻し、
氏康の娘婿・北条綱成(つなしげ)が守る武蔵の河越城を8万もの大軍で包囲したのであります。
それだけでなく、東海地方の今川義元も上杉氏と組んでおり…
前年今川領に攻めてきた仕返しな!
覚悟しときぃよ~!
との事で、上杉勢の反対側から北条領へと侵攻してきました。
しかも、今川義元は武田信玄の援助を受けての侵攻です。
この大勢力らに挟み撃ちにされるなんてキツすぎ。
このままじゃ滅亡しちゃうよ…。
という絶望的な状況でしたが、ひとまずここで北条は今川と和睦を結ぶ事で窮地を脱しました。
なんと、あの武田信玄が仲介してくれたのだ。
信玄さんに感謝…!
これで上杉との戦に集中できる!
こうして背後の憂いを無くした氏康は8000の兵を率い、河越城の救援に向かいました。
河越城には3000しか兵がいなくて大ピンチだったのだ。
間に合って良かったよ~。
しかし、敵は8万もの大軍。
援護しに来たところで兵力差はかなりのもの、かなり厳しい戦いが予想されます。
なので氏康は、慎重に情報収集を行い、策を駆使してこの戦に挑みました。
敵の陣営はそれぞれ離れており、敵同士の連携はとりづらい状態だ。
隙をついて攻撃すれば崩せるぞ!
という事が判明したので、夜襲をかける事に決定。
そしてそれを決行するに至り、
城を明け渡すので、城兵の命はお助け下さい。
と上杉連合軍に降伏する意思を見せました。
なので敵側は、
そりゃこの兵力差だもんね。
北条も観念するわな。
てな感じですっかり勝ち戦モードになり、夜な夜な酒宴を開いて浮かれまくっておりました。
氏康はそんな状態の敵陣営に夜襲をかけたので、まさかの出来事に上杉連合軍の陣営は大混乱。
北条軍は次々と敵陣営に突撃していき、上杉朝定(扇谷上杉家当主)を討ち取る事に成功したのであります。
上杉憲政(山内上杉)、足利晴氏らはそれぞれの領内へと敗走していきました。
凄まじい兵力差がありながら、北条の完全勝利です。
この戦いに勝利した北条氏康は、関東でよりいっそう存在感を増すようになったのでした。
ちなみにこの時の戦いは『河越夜戦』と呼ばれているぞ!
そしてこれから約6年後…、
北条氏康は上野へ侵攻し、山内上杉氏の本拠地である平井城を落としました。
立場を追われた上杉憲政は、越後へと逃亡。
氏康は関東の大部分を支配していた両上杉氏を駆逐し、武蔵・上野を手中に収めたのであります。
ここで確固たる地位を確立し、『関東の覇者』と呼ぶにふさわしい存在になったのだ!
しかし、ここからも北条氏は大変!
この後、上杉謙信が関東に進出してきたり、武田信玄や今川義元と同盟組んだり裏切られたり…と新たな関東戦国時代が始まるのであります…!
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