北条氏政の色々大変だった歴史、戦国事情をわかりやすく解説
北条氏政と言えば戦国時代、関東に勢力を誇った北条氏の四代目ね~!
氏政の時代の北条氏と言えば、なんたって豊臣秀吉による小田原攻めが有名!
小田原攻めに関しては長くなっちゃうから、今回は氏政がいた頃の北条氏の歴史をご紹介するわね~。
上杉謙信や武田信玄、徳川家康なんかと色々あったみたいですよ~ん。
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汁かけご飯の逸話が有名!北条氏政とはどういう人物?
北条氏政は戦国時代、関東に栄えた北条氏の4代目。
1代目は早雲。
いち武将に過ぎなかった早雲は下剋上で城持ちになって…国を治める大名になって…と北条氏を興し、伊豆と相模を制圧しました。
2代目は氏綱。
早雲の跡を立派に引き継ぎ伊豆・相模のほかに武蔵、上総、下総、駿河へと勢力を伸ばしました。
3代目は氏康。
北条五代の中でも抜群に有能と名高い名君。
これまた父の跡を立派に継いで領土を拡大、政治面でも税制改革に力を入れるなどして功績を残しております。
そして氏康の跡を継いだのが今回の主役、北条氏政であります。
ちなみに5代目は私の息子の氏直。
実権は私が握ったままだったから、氏直はそんなに目立つ存在じゃないかも?
北条氏は豊臣秀吉の天下の時代に
秀吉なんかに屈するもんか!
と反抗的な態度をとり続けた結果、攻め滅ぼされてしまうことになります。
そうなってしまったのは指揮を執っていた氏政の失態だったということで、氏政の後世でのイメージはあまり良いものではないかもしれません。
そして北条氏政といえば、食事中に一杯の飯に二度も汁をかけたことで、
一度にどのくらい汁をかけたら食べ終わるか、日頃心にとめず汁をかけ足すとはなんと愚かな…。
ワシの跡継ぎがこんなでは北条家はお先真っ暗だよ…。
なんて父・氏康を失望させたという逸話が有名であります。
この逸話も相まってか、私の評価は低くみられがち?
でも氏政と氏直の代でそれなりに勢力を拡大させ、北条氏の最盛期を築いたのも事実。
北条氏政は相模、伊豆、武蔵を中心に関東を広く支配下に置き、およそ200万石を領していた文句なしにビッグな大名なのであります。
それに若い頃は敵味方から『北条に氏政あり』と称賛されるぐらい戦で武功をあげてきたんだからね。
汁かけご飯の話は忘れて~!
ちなみに北条氏は代々、民を慈しむことを第一として善政による善政を敷いてきたので領国経営に関しては北条五代通してずっと有能。なのであります。
北条氏にとって上杉謙信、武田信玄は厄介な存在であった
1559年、北条氏政は父・氏康から家督を譲られ小田原城城主となりました。
とはいっても、実権を握っていたのは父なんだけどね。
この時点で北条氏は既に伊豆・相模・武蔵・上野・下総…と広く勢力を伸ばし、関東の覇者たる存在感を放っておりました。
そして北条氏は隣国の武田信玄、今川義元と同盟関係にあり、
関東はもともと上杉が治めていた場所!
北条を倒し、かつての栄光を取り戻してみせる!
と関東へ侵攻してくる上杉謙信とそれを支持する国人達、そして常陸の佐竹氏や安房の里見氏らアンチ北条勢を相手に戦っておりました。
※越後の大名である謙信はもともと長尾姓だったけど、北条に土地を追われた上杉憲政という人物に上杉家を託され上杉姓となり、関東へ出兵していた。
1561年には上杉謙信が上野・武蔵の北条の支城を落としつつ、関東の武将達を糾合して10万の兵で小田原城を包囲するという大変な事態に陥るのですが、徹底した籠城戦でこれらを撃退しております。
そしてその後は武田信玄の支援を受けて上杉謙信に奪われた上野・武蔵の領地を回復させ、さらに下野・下総へも侵攻して着々と勢力を拡大させていきました。
しかし謙信も負けじと関東へ攻め込んできたもんで、一進一退の油断できない状態が続いていたぞ。
上杉謙信に手を焼いていた北条氏でしたが、1564年に『第二次国府台の戦い』と呼ばれる戦で里見氏に勝利したことで上総に勢力を拡大…
その後、謙信に味方していた関東の国人達の多くが北条氏に帰属してくれたので武蔵・上野・下総などを広く支配下に置くことができました。
謙信は信玄の相手もしてたし、越中の方も気にしなきゃいけなかったしで我々だけに集中できなかったんだよね。
領土の回復が思うように進まず…
国人達が上杉から離れていくのは仕方ない。
そして1568年…
上杉謙信との争いが落ち着いた矢先に武田信玄がまさかの裏切り。
義元さん死んでから今川家は落ち目だな。
跡継ぎの氏真と仲良くしててもいい事なさそうだし、今川領奪っちゃお。
信玄は同盟を無視し、三河の徳川家康と組んで今川領へと侵攻しました。
我々は今川を見捨てない!
氏真くんは私の妹の旦那だし、助けに行くに決まってる!
北条氏康・氏政親子は今川氏真を救うべく駿河へと出兵。
武田軍と戦いこれを甲斐へと追い返した後、徳川家康と和睦して氏真を保護しました。
そして翌年…
上杉に加えて武田まで敵になっちゃったのはキツイねぇ…。
北条氏は武田信玄に対抗するため、今度は上杉謙信と同盟を結びました。
この際、上野の一部を上杉氏に譲渡し、氏政の弟が謙信の養子となっております。
弟はかつての謙信の名である『景虎』を名乗っていたんだよ。
謙信に気に入られてたみたい。
こんな流れで長年戦ってきた上杉氏と同盟を組んだわけですが、残念ながら
謙信、自分の敵に忙しすぎてまともに我々の支援してくれんし!
これじゃ同盟の意味ないよねプンプン!
といった感じで同盟は上手く機能せず。
1571年に北条氏康が病死した後、氏政は氏康の遺言を受けて武田信玄との同盟を復活させました。
上杉家の跡継ぎ争い『御館の乱』で敵味方がまた変化!
1578年、上杉謙信が死去。
跡継ぎを決めていない状態での突然死だったので、上杉家では謙信の養子達による跡継ぎ争い『御館の乱』が勃発してしまいます。
これは北条家にとっても大きな出来事でありました。
というのも、これは北条家出身で養子の景虎VS謙信の甥で養子の景勝のバトルであり、
景虎が上杉家の跡継ぎになることができれば、北条一族の勢力はさらに強大になるのであります。
普通なら謙信の血縁者がすんなり当主になると思うでしょ?
でも上杉家では派閥があったみたいで、景勝派を嫌う者たちが弟を支持してくれたのよ。
争いが勃発した当初、氏政は下野で佐竹・宇都宮氏と対陣中ですぐに越後へ援軍が出せなかったので、同盟相手の武田勝頼に支援を依頼しました。
※勝頼は信玄の子。信玄は1573年に死去してる。
勝頼はそれに応じて兵を出してくれるのですが…
俺も織田や徳川を相手しなきゃいけないし、上杉と揉めないにこしたことないんだけどな~。
ていうか、北条と上杉が合併しちゃったら脅威でしかないんだけど。
こういう事情があったところに景勝側から和睦の話を持ち掛けられたので、これに応じてしまいます。
そして景虎と景勝の仲をとりもって両者の和睦を成立させました。
しかし、景虎と景勝はまたすぐに争いを再開…
氏政は景虎を援助する為、弟の氏照・氏邦らを越後に派遣しました。
しかし、景勝方の守る坂戸城を攻めたところで苦戦を強いられ、さらに
氏照&氏邦
越後の冬さっむ!
雪ヤバくて戦うの無理!ギブです!
厳しい冬の到来により撤退せざるを得ず…
武田勝頼もすっかり景勝側の味方についてしまった為、結果的に景虎は景勝に敗れ、自害に追い込まれてしまいました。
武田勝頼の裏切りに氏政が激怒したのは言わずもがな。
北条氏と武田氏の同盟は手切れとなってしまいます。
そしてその後、氏政は同じ武田氏の敵である徳川家康と織田信長と同盟を結びました。
同盟とはいっても、北条が織田に従う形で…。
この頃の信長さんは勢い右肩上がりでマジ脅威的だったから。
こんな感じでコロコロと情勢が変わって1580年、氏政は息子の氏直に家督を譲りました。
信長が関東にまで手を伸ばしてきて北条氏チュン…。がしかし…
1582年…
織田信長による武田攻め、俗にいう甲州征伐が行われることとなりました。
ついに本格的に武田潰しが始まったか…。
勝頼可哀そ。北条・織田・徳川の特大勢力に囲まれて絶望的だわな。
北条氏政・氏直親子は特に誘われてなかったみたいですが、この武田攻めに参戦することを決定。
織田軍が信濃方面から武田領へ侵攻するのを確認すると、駿河側から武田領へ侵攻してチョロチョロっと城を落としていきました。
この甲州征伐では信長の息子さんが大活躍していたそうで…。
北条軍はあまり目立った活躍はなかったかな?
甲州征伐は織田軍の猛攻により、ものの一ヶ月で武田勝頼を自害に追い込んで終了となりました。
この戦の勝利には少なからず北条軍の貢献もあったわけですが、
残念ながら北条は行動を褒められたのみで、武田領は織田と徳川の武将達に分配されました。
それどころか、織田家家臣・滝川一益が上野一国を与えられ、関東方面のリーダー的役職に任命されるというまさかの事態に…!
な、なんそれぇ…。
関東のリーダーは実質北条だったはずなんですけど…?
めちゃくちゃ不満があったと思われますが、超絶権力者となっていた信長に文句なんか言えず。
氏政は
北条のものになってるお城、元の武将に返したってくれんか?
というお願いも逆らうことなく聞き、信長へ戦勝祝いの贈りものをしたりして友好関係を保っておりました。
他の地方の大名達も信長に貢いでヘコヘコしてたからね。
当時は誰しもが、信長が天下を取ると思ってたからさぁ…。
しかし、勝頼の死後からわずか2カ月後に本能寺の変が起こって織田信長が死去。
これを機に、氏政はギラつきを取り戻すのであります。
天正壬午の乱。北条・上杉・徳川で旧武田領の争奪戦!
旧武田領は領主が変わって間もなく、まだまだ情勢が不安定な状態でありました。
そんな時に織田信長が死去したので、それを知った土着の武士達は
信長がいなくなったのなら恐れるものはない!
よそ者め!我らの土地からでていけー!
と、織田家の武将達に反乱を起こしました。
北条氏は臣従する形で織田信長と同盟を結んでいたので、
ワシは信長様の仇を討つために上方へ戻るぞ!
この機にワシの首を狙う者がいるなら受けて立つ!遠慮なくこい!
という滝川一益に
心配せずとも我々は変わらずあなた達の味方ですよ。
困ったことがあれば協力しますから。
と表明。
…するのですがアッサリと裏切って挙兵、5万6000もの大軍を上野へと侵攻させました。
上野の一部はもともと北条が支配してたしね。
信長が怖くて譲らざるを得なかったが、この混乱に乗じて取り戻すのだ!
そして進軍中、『神流川の戦い』と呼ばれる戦で滝川一益に勝利すると、北条軍は敗走する滝川一益を追って信濃へと進出…
そこで滝川一益を取り逃がしてしまいましたが、その地に残る反北条勢を倒して信濃に勢力を伸ばすことに成功しました。
信濃の森長可は撤退、甲斐の河尻秀隆は戦死!
織田家の大名らがいなくなって領地は無法地帯、勢力を広げる大チャンス!
しかし、近隣の上杉景勝や徳川家康も旧武田領を狙っていた為、北条軍はそれらと戦うこととなります。
上杉軍とは北信濃で対陣するのですが…
徳川軍の動きが気になりすぎたので、上杉方に北信濃の地を譲って和睦を結び、素早くケリをつけました。
その後、北条軍と徳川軍は甲斐の若神子にて対陣するのですが別動隊を動かした戦で北条軍が敗北し、
さらに徳川方に寝返る国人衆もでてきたりと不利な状況に立たされたので上野を北条領、甲斐・信濃を徳川領とすることで合意して和睦を結び、戦を終わらせました。
氏直が家康の娘さんを嫁にもらって縁戚関係もできたよ。
しかし本当は信濃も甲斐も欲しかった…無念。
この『天正壬午の乱』と呼ばれる争乱では、家康がかなり力をつける結果になったよね。
ちなみに、この北条と徳川の同盟が成立したせいで、ある問題が生じてしまいました。
滝川一益が上野を撤退した後、滝川氏のものとなっていた沼田城を奪取していた真田昌幸が…
上野が北条領になったから、申し訳ないけど沼田城を北条に渡してくれる?
もともと真田の城だったのを自力で取り戻したまで。
それを渡せとは理不尽でしょ。
沼田城の明け渡しを頑なに拒否。
真田は徳川の傘下に入ってるんだから、いう事聞けっつうのな。
それにもっと前、沼田城は北条のものだったんだけど?
嫌なもんは嫌!
両者が沼田の所有権を主張したので関係が悪化、これが1589年になるまで解決しないうえに後にもっと大きな事件を引き起こしてしまうのであります。
※真田昌幸は元武田家家臣。武田家滅亡後は織田家に属していたけど、信長の死後は独自に力を強めていた。
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