武田勝頼は戦国のレジェンド武将、武田信玄の後継ぎ!
生涯 | 1546年~1582年 |
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全盛期 | 甲斐・信濃・駿河・上野の一部・遠江の一部など。 |
主君 | 武田信玄 |
有名な親族・家臣 | 武田信玄(父)、武田信繁(叔父)、仁科盛信(弟)、真田昌幸・小山田信茂・山県昌景・馬場信春(家臣)など |
思い出の戦 | 箕輪城の戦い、二俣城の戦い、高天神城の戦い、長篠の戦い、天目山の戦い |
武田勝頼といえば | 無能といわれがち、天目山での逃亡劇が悲しすぎる |
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なぜだか世間じゃ無能だなんだと言われがち?
武田勝頼はなぜそんな評価をされてしまうのか??
どんな人なのか、どんな事をしたのか??ゆるりと解説しているわよーっ!
信玄もいいけど、勝頼の事も愛してあげてね!
武田勝頼は父・信玄も認めた戦上手!
武田勝頼は武田信玄の四男、四男にして武田の当主となったのは、信玄が勝頼の戦上手っぷりを評価し、
勝頼は良い大将となる!!
と、その才能を認めたからだと言われております。
(勝頼の兄たちが亡くなったりしていた事情もあり、仕方なく後継ぎにしたとも。)
勝頼は初陣となった箕輪城の戦いで武功を挙げ、上野へ侵攻すると次々に敵の城を攻略…
父・信玄の死後も美濃へ侵攻して明智城、足助城といった城を攻略し沢山の功をあげるなどし、戦デビューしてから絶好調でありました。
そして勝頼が1番ドヤれる功績が、徳川方の武将の守る高天神城(たかてんじんじょう)を落としたということ。
高天神城は、過去に父・信玄ですら落とせなかった遠江随一の堅城なのだ!
父・信玄と比べると今ひとつ…というネガティブなイメージがあるかもしれない武田勝頼ですが、
戦に関しては先代の武田信玄にも劣らない、むしろそれ以上の猛将ともいえる活躍をしていたのであります。
無能のイメージがついた??武田勝頼の長篠の戦い!
信玄の死から2年後の1575年…
武田勝頼は奥平信昌が守る三河の長篠城を攻めにかかりました。
※武田信玄の死後、家臣の奥平信昌が勝頼を裏切り徳川家康についたうえ、過去に武田のものであった長篠城までゲットしたという因縁がある。
父が亡くなってからも武田の勢いは健在だぜ。
この調子で長篠城を取り戻してやるわ!
相手の武将が小規模であるのもあり、余裕しゃくしゃくの武田勝頼…
しかし、この長篠城奪還から始まった戦は武田軍に大ダメージを与え、弱体化していくきっかけを作ってしまうことになるのであります・・・。
武田家衰退の始まり?大敗北した長篠の戦い
1575年…
武田勝頼は奥平信昌の籠る長篠城を1万5000の兵で包囲しました。
それに対し、長篠城の兵はわずか500ほど…。
長篠城の兵糧庫燃やしてやったし、城兵がくたばるのも時間の問題だな。
もう無理に攻め込む事もないわ。
小競り合いで手を焼く場面もありましたが、長篠城は落城寸前といった感じでありました。
しかし…
オラが決死の覚悟で援軍を呼びに行ってきますだ!
勇気ある長篠城の兵士・鳥居強右衛門が城を抜け出し、徳川家康のもとへ行き援軍を頼んだ事により織田信長軍3万と徳川家康軍8000、合わせて3万8000の大軍が長篠城へと進軍するという大変な事態が起こりました。
織田、徳川の軍勢が向かってきてるだと?!
早急に長篠城を落とし、引き揚げたいところだが…。
鳥居強右衛門を捕え、援軍が来る事を知った勝頼は長篠城の攻略を急ぎます。
が、しかし…
それより早く織田・徳川連合軍が長篠城から数キロ離れた設楽ヶ原に到着、武田軍を迎え討つべくスタンバイしました。
きやがったか!
まぁいい、返り討ちにしてやるわ!
兵力差もあるし、敵はかなりの数の鉄砲隊を配置しております。
勝ち目はないかと。
武田ご自慢の騎馬隊も通用しないかと。
ここは退くべきです。
自信満々な武田勝頼に対し、家臣らは冷静に状況を判断してアドバイスしました。
いや、戦うぞ!
最強を誇る武田が負けるもんか!
しかし勝頼は家臣の意見を聞き入れず、そのまま織田・徳川連合軍に突撃開始の命を下します。
武田の騎馬隊対策の『馬防策』と最新の鉄砲戦術『三段撃ち』!
くらえ武田軍!
最強を誇る武田の騎馬隊も馬防柵の前では本領を発揮できず。
そして当時最先端の武器である鉄砲、敵の戦術なんかも知るはずもなく…。
家臣達が予言した通り、武田軍は織田・徳川連合軍に敗北してしまいました。
この長篠・設楽ヶ原の戦いでは山県昌景、馬場信春、土屋昌次、真田信綱…といった信玄の代から仕える重臣達がことごとく討ち死にし、武田軍全体では一万もの戦死者が出たと言われております。
これから先どーするの?
誰が武田家を支えるのさ・・・
という状況。
死んだ父・信玄も草葉の陰で泣いていたことでしょう。
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武田勝頼は相変わらず家臣の意見を聞かない
長篠の戦いの翌年、武田勝頼は遠江の高天神城に兵糧を仕入れました。
徳川家康と戦をする為だと言います。
勝頼は長篠の戦いの後、反省して大人しくなるというよりかは
長篠の戦いでついた武田のマイナスイメージを挽回せねば!
といった焦りのほうが強かったようです。
そんな勝頼に対し、家臣の高坂昌信は…
武田は前の戦で多くの味方を失い疲弊しております。
まずは国をしっかりと硬める事に努め、軍勢を養うべきです。
と進言するのですが、勝頼は
確かに、家臣達が死んだのは判断を誤った自分のせいかもしれん。
けどそれも信長が馬防冊やら鉄砲やら、姑息なマネをしたからだ。
決して勝頼の武略が劣ったわけではない!
そう、家康一人では武田に勝つことなど出来んだろう!
なんて事を言ったので、高坂昌信はあきれて何も言わずにその場を退席したそうです。
武田勝頼が無能と言われちゃうのは功を焦るが故…
長篠の戦いからしばらくの間、武田は大きな戦をする事はなく、徳川と一進一退の小競り合いを続けていたといいます。
名誉挽回!
名誉挽回!
武田の名誉挽回!!
頻繁な軍事行動で国の財政は悪化する一方、家臣達の勝頼に対する不満も日々強まっていきました。
そんな中で、徳川家康は積極的に領土回復の為の行動を開始していきます。
徳川の勢いが怖い…織田がバックについてるし調子ノッてんな。
北条とまた仲良くして奴らに対抗できる力をつけるかな。
この頃、勝頼は武田の強化を図るためにあやふやになっていた北条氏との同盟を復活させました。
同盟の証として北条氏政の妹を妻に迎えたぞ。
しかしこの後、勝頼は上杉謙信の死後に起こった跡継ぎ争い(北条氏政の弟で養子の景虎VS謙信の姉の息子で養子の景勝)で
北条氏政
私の弟・景虎を応援してね!
戦になりそうだから援軍の協力も頼んだよ!
と依頼してきた氏政のお願いを聞くどころか跡継ぎ争いを和睦で解決させようとしたり、景勝と同盟を結んで妹を景勝に嫁がせたり、
上杉家の跡継ぎ争いで氏政の弟・景虎が敗北して自害してしまった為、北条氏政を怒らせて絶交されてしまいます。
だってさー、よく考えたらさー、北条一族の人間が上杉家当主になったら北条の勢力ヤバイことになるよね。
景勝さんが勝つ方が、武田的には安心な気がするよね。
上杉景勝と同盟を組んだのはいいものの、北条氏はこれに対抗して織田信長、徳川家康と同盟を組みました。
勝頼的に超ヤバイ展開であります。
タイマンでもできるなら戦いたくないのに何この組み合わせ…エグ…。
立ち回り完全にミスったかも…。
ちなみにこの後、勝頼は北条氏の領土である伊豆に攻め入るのですが、迎え討つ北条氏政の軍勢が鉄砲隊をガッツリ配置しているのを見てすぐ引き上げたそうです。
強がっている勝頼ですが、なんだかんだ長篠の戦いでの鉄砲隊がトラウマとなっていたのでしょうね。
織田信長VS武田勝頼!ついに武田滅亡へ…
長篠の戦いで家臣や兵を大勢失い、その上家臣達の心までを失いつつある武田勝頼・・・。
同盟相手の北条とも縁が切れ、武田氏は完全にかつての勢いを失っておりました。
そんな状況の中、ついに地獄のような出来事が武田勝頼を襲います。
そろそろ本格的に武田を潰しにかかろうか!
ワシら織田軍は信濃らへんから攻めるわ~!
イェス!
ワシは駿河からですね!
1582年、織田信長による武田攻め(甲州征伐)が本格的に行われたのであります。
もう誰かしらと戦うのしんどい…。
武田の勢いが完全に下火…。
という状態の中、織田氏と徳川氏、さらに北条氏までもが一気に襲いかかってきたのです。
ハードモードというより完全に
終わった…。
です。
いざ敵が侵攻してくると武田の武将達は何の抵抗もせずに城を明け渡したり、戦わず城から逃亡したり、そのまま織田に寝返ったり・・・と散々でありました。
あらかじめこちらに寝返るよう裏工作もしてたから、織田軍は苦労せずに敵城を落としていったのだ。
このような状況の中、最後の最後まで戦い抜いたのが信濃・高遠城を守る仁科盛信(にしなもりのぶ)でした。
※仁科盛信は武田勝頼の弟。
高遠城を攻めたのは織田信長の長男・信忠が率いる5万もの軍勢、それに対して仁科盛信は3000程の兵で籠城しておりました。
ここでは
投降したら城兵の命は助けるよ。
と申し出があったそうですが、仁科盛信はそれを拒否して徹底抗戦。
容赦ない織田軍の攻撃に、城内にいる兵士、女、子供、ことごとく戦死するという壮絶な戦となりました。
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家臣に見捨てられた武田勝頼の悲しい最後…
ところでこの時、勝頼はどうしていたの??というと、高遠城とはまた別の場所、信濃の上原城という所におりました。
そしてこの上原城も織田軍の侵攻で危うくなった為、城を捨てて甲斐の新府城へ逃げ落ちました。
みな武田から離れていった…敵と戦う力なんてもうない…。
これからどうすればいいのだ…。
という絶望的な状況の中、『高遠城落城、仁科盛信戦死』の一報が勝頼のもとに入ってきます。
唯一、最後まで武田に忠義を尽くし戦ってくれた仁科盛信は、武田にとって最後の頼みの綱であり心の支えでした。
もはやこれまでか。
残る武田の武将達はこの訃報を聞くと、勝頼を見捨てて次々と逃げ出してしまいました。
ここまでくると立て直しは不可能、完全に打つ手なし。であります。
ここもダメだ…
織田軍が来る…安全な場所へ逃げねば!
戦う手立なく、勝頼は新府城を抜け出して家臣の小山田信茂の手引きで逃亡を開始します。
目指すは小山田氏の要塞である岩殿城!
この逃亡劇の際、勝頼に付き従っていたのは500人ほどであったといいます。
ここから逃亡中に隙を見て姿を消す者が1人2人…と次々にでてくるので、500人がさらに減っていくことになります。
これだけでも悲劇的なのですが、さらに悲しい事件が起こります。
小山田信茂
勝頼様、城に入れるよう準備してきますのでここでお待ちを。
こう言ったきり、小山田信茂が戻って来なかったのであります。
勝頼が不審に思い調べさせたところ、なんと小山田信茂は勝頼を助けるどころか先の峠で勝頼たちを迎え討つ準備をしていたという…。
最後の頼みであった小山田にまで裏切られるとは…。
この時、逃亡メンバーは減りに減り勝頼の側にいたのは100人程であったといいます。
しかもそのうち武士は40人程度、あとは勝頼の妻・北条夫人とその女中だけ…。
ま、まだだっ!
まだ俺を受け入れてくれる場所はある…!
新たに目指すは天目山の棲雲寺。
勝頼達はとにかく、できるだけ安全な場所を目指して道を進みます。
しかし、ここでもまた悲劇が・・・。
味方であるはずの甲斐の百姓たちが敗軍の将となった武田勝頼を見捨て、織田軍に協力して勝頼ら武田の残党を探すため山狩りを始めたのでした。
もうダメだ…
逃げ場がない…!
こうしてついに、勝頼は天目山で織田軍と対面してしまいます。
※この時の戦いは『天目山の戦い』と言われるのですが、織田軍5千に対して武田の武士達は40名ほどだったという。戦というよりもはや落ち武者狩り。
いよいよ逃げ場をなくした武田勝頼は妻・北条夫人と嫡男・信勝とともに自刃、勝頼は37歳でこの世を去ったのでした。
そして付き従っていた家臣たちも、勝頼の死を見届けると残った女子供を手討ちにし、皆自刃して天目山で果てたのであります…。
俺たち親子が自刃する時間を稼ぐ為、織田軍と戦ってくれた者もいるぞ。
なんとも壮絶で悲しい最後だった…。
甲斐、信濃、駿河、遠江の四国を支配し、一大勢力を築いた武田氏はこの『天目山の戦い』で滅亡してしまいました。
信玄が死去したのが1573年、勝頼が死去したのが1582年、当主が変わってから10年にも満たない間の出来事であります。
ちなみに俺の三男・勝親は家臣に救出され、生き延びたといわれているぞ。
武田勝頼は無能?有能?評価をジャッジメン
武田勝頼が戦上手、戦に強いというのは実績もあるし本当のことなのでしょう。
ただ、家臣の意見を聞かずに突っ走ったり、ちょいと自信過剰なところがそういった才能を台無しにしている感が否めません。
最後、ことごとく家臣に見捨てられてしまったのもそういった事の積み重ねが原因となってしまったわけで。
人は城、人は石垣・・・
甲斐は大きな城。そして甲斐、武田の家を守るのは武田の家臣達…。
と武田信玄が言っていたように、武田氏は主君と家臣の絆で強さが成り立っていたのでしょう。
勝頼は無能というよりかは、大将としての器が大きくなかったのかもしれませんね。
(それを戦国時代的には無能と言うのかも。)
武田勝頼があまり評価されない理由とその言い訳
●父・武田信玄がレジェンドすぎたせい。比べられたらそりゃ、劣ってしまう。
●長篠の戦いで織田信長が強すぎたせい。信長の株があがりすぎて勝頼が引き立て役になってしまった。
●最期家臣に逃げられすぎた。織田軍の勢いが凄すぎたせい。勝頼は悪くない。
もし長篠の戦いで信長に挑んだのが父・信玄だってもきっと負けてたはずさ。
信玄ならきっと家臣の意見を聞いて上手くやっていたはずさ。
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