山県昌景は赤備えの元祖!身長低いけど最強カッコイイ最期に痺れる!

山県昌景は赤備えの元祖!身長低いけど最強カッコイイ最期に痺れる!

徳川家康 ラインスタンプ

武田家最強家臣、山県昌景をゆるりと楽しく解説!

山県昌景,赤備え,最強家臣,身長

生涯 1529年(?)~1575年
出身 甲斐(山梨県)
主君 武田信玄、武田勝頼
有名な親族 飯富虎昌(兄もしくは叔父)
思い出の戦 川中島の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い
山県昌景といえば 赤備えの元祖、武田家最強、身長低い?

 

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赤備えが自慢の強ーい武将、山県昌景!

山県昌景は武田信玄の家臣であり、とっても武勇に優れていた強~い武将であります。


 

そしてなんといっても有名なのが『武田の赤備え』!

戦国最強の部隊?!…と恐れられたこの軍隊の大将を務めていたのがこの山県昌景なのですよ~!

 

武田家の万能家臣!山県昌景ってどんな人??

 

山県昌景はもともと、武田信玄の小姓を務めておりました。

15歳で信玄に奉公して翌年には初陣、城攻めにて一番乗りの功を挙げたといいます。

 

武田二十四将の中でも筆頭格!

高坂昌信の次に戦力を持っていたそうです。
※武田二十四将とは・・・江戸時代、武田信玄の家臣の中でも有能なメンバーを選出して絵に描いたもの。武田二十四将には昌景の兄・飯富虎昌もいる。昌景も『山県昌景』と名乗る前は飯富姓。『飯富源四郎(おぶげんしろう) と名乗っていた。

 

戦においてはかなりの勇猛っぷりを発揮。

1572年の三方ヶ原の戦い(徳川VS武田)で徳川軍を完膚なきまでに叩きのめしたのが山県昌景の軍勢でした。

 

山県昌景は三方ヶ原の戦いで、徳川家康の家臣・本多忠勝の軍勢と激しくぶつかりあったといいます。

 

最強と名高い武将同士の対決…!

一時は本多忠勝側が優位に立つこともあったようですが、武田軍の勢いは凄まじく徳川家康は命からがら戦場から退却するはめに…。

 

これまでにない大敗北を味わった徳川家康は

 

 

あの先頭きってた武田の武将、山県っていうの?

恐ろしや…マジで死ぬかと思った…。


 

と周囲に言っていたんだとか。

 

山県昌景が最強部隊『赤備え』をゲットした理由

 

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甲冑や兜、旗印など武装を赤一色で統一した軍隊、それが『赤備え』

 

戦国時代、赤備えの軍隊を率いていた武将といえば井伊直政や真田幸村も有名ですが、その赤備えの元祖がほかでもない山県昌景でありました。

 

山県昌景率いる赤備えの軍隊は、見た目のインパクトさながら確かな強さで

 

 

武田の赤備えは最強だ!


 

と世にその名を轟かせました。

 

戦場でこの軍隊を見かけた武将達は

 

 

ウワーッ!

武田の赤備えだおっかねぇ!


 

と震え上がっていたそうな。

 

 

しかもこの赤備え、騎馬隊で構成されているスペシャルカッコイイ軍隊なのだ。


 

ちなみにこの『赤備え』、山県昌景が元祖と言っても実はもともと昌景の兄・飯富虎昌(おぶとらまさ)が率いていた軍団だったそうです。

 

 

私が赤備えを引き継いだ理由には以下のような事情があるぞ。


 

1560年…信玄の同盟相手である今川義元が死去。

それからというもの、今川氏は衰退の一途を辿っていきます。

 

そうなってから信玄は…

 

 

今の今川さんと仲良くするメリットなくない?

今川領、攻めちゃおっかな~。


 

ということで、対今川氏の姿勢を見せるようになっていきました。

 

がしかし、ここである問題が…

 

信玄の嫡男・義信は今川義元の娘を妻にもらっているのでこれを良く思わず、信玄と義信の関係が悪くなってしまいました。

 

その結果、義信の支持者は信玄を暗殺して義信を武田家当主に!と謀反を企てるのですが…

 

 

信玄様を暗殺する計画が推し進められている…。

そんな事はさせないぞ!


 

この秘密の計画を知ってしまった昌景は、このことを信玄に密告しました。

 

昌景の兄の飯富虎昌も謀反に加担しているという事情があったにもかかわらず。

 

 

まさか弟にリークされるとは思わなかったかもね…。

兄といえど、許しちゃいけないもんは許しちゃいけないんだ。


 

その後、飯富虎昌は許される事なく切腹させられました。

 

そして山県昌景は…

 

 

昌景のおかげで助かったよ!

褒美としてお前に赤備えを引き継いでもらおうかと思ってる!


 

とのことで、ここでめでたく赤備えの軍隊をゲットしたのであります。

 

良く言えば『武田信玄に忠義を尽くした』、悪くいえば『兄を売った』ですね。
※飯富虎昌は兄じゃなく叔父との説もある。

 

 

戦国時代では家族内での裏切り、命のやり取りは割とよくある話…。

ワシも家族には酷い事してきたよ。


 

 

 

 

ちなみに、実は私のもともとの姓は『飯富』。

兄が死んだ後、私は飯富の名を捨て武田家に縁ある山県家を継ぐことになったのだよ。


 

山県昌景、勇猛果敢でカッコイイエピソード!

 

山県昌景は少年時代から勇猛果敢、怖いもの知らずで敵にぶつかっていく武闘派武将でした。

 

戦の最中に見張りに出て、その時たまたま出会った敵の騎馬武者に馬上から体当たりし、落馬させて軽く討ち取ってそのまま馬で逃亡した。

 

…という、なかなかやんちゃなエピソードがあったり、

 

また別の戦では、進軍中、山道で敵と遭遇し、斬り合いになって速攻一人で五人倒した。

 

…なんてエピソードもあります。

 

度胸もあるし腕っぷしも強い!

少年の頃からこんな感じだったもので、

 

 

山県昌景のあるところ敵ナシ!


 

と皆大絶賛していたんだとか。
昌景は個人の戦闘力も高いし、軍を率いても強いのであります。

 

そんな昌景は自分が強い理由を問われた時、

 

 

初陣の時のようなピュアな気持ちで戦に挑む!

しっかりと策を練り、勝機があれば戦う!


 

…と答えていたそうです。

 

決して自分の強さを過信したりせず、冷静に戦況を見極め戦に臨む…。

山県昌景、めちゃ有能!

 

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長篠の戦い、山県昌景の最後が壮絶カッコイイ!

 

武田信玄に気に入られ、武田家の筆頭家臣として重用されていた山県昌景ですが、信玄の跡を継いだ武田勝頼とはあまり良い関係ではなかったそうです。

 

その為…

 

 

パパの代から仕えてる家臣ら、年寄りばっかで口うるさいんだよなぁ。

あんま好かん。


 

信玄亡き後は武田家の政の中心から遠ざけられていたんだとか。

 

 

一応、勝頼の補佐役なんだけどね…。


 

そんな山県昌景は、信玄の死から2年後に起こった長篠の戦いで戦死しております。

 

長篠の戦いは武田勝頼VS織田信長・徳川家康連合軍の戦で、

 

 

凄い数の鉄砲隊!

こんなの初めてぇ!信長の鉄砲隊の威力ハンパねぇ!!


 

って事で話題になった戦であります。

 

 

鉄砲の他に、武田の騎馬隊対策として大量の馬防柵を築いたぞ!


 

武田軍1万5000が長篠城を包囲し、この長篠城を救うべく織田・徳川連合軍3万8000(これ以上とも)がやってきたことで始まった戦であり、

 

兵数だけみても武田軍が不利なのに、敵連合軍の攻撃力&防御力は相当高いものでありました。

 

いざ戦が始まると、武田軍は対抗する術無く一万を超える兵に、昌景ほか馬場信春、土屋昌次など有能な家臣らが討ち死にするという大きな痛手を負い敗北してしまいました。

 

山県昌景ら重臣達は、織田・徳川連合軍とぶつかる前…

 

 

この戦は不利、あの鉄砲隊は相当にやっかいです。

ひとまず撤退しましょう。


 

勝頼にこのように進言したそうですが、聞き入れてもらえなかったそうです。

 

 

主君が戦えと言ったならそれに従うのみ…。


 

山県昌景はこの戦で先鋒隊をまかされました。

初めは策を講じて敵と一進一退を繰り返していましたが、鉄砲隊の攻撃が始まると状況は一変…。

 

 

もはや此度の戦で生きて帰ることはなかろうて。


 

死を決した山県昌景は銃弾が飛び交う中を刀をかざし突撃、全身に銃弾を浴びて絶命したのでした。

 

山県昌景は命尽きても落馬せず、采配を口に咥えたままであったと伝えられています。

 

めちゃくちゃ壮絶、この死に様はカッコよすぎて震えます。

 

 

あ、実は落馬したとの説もあるんだけどね。


 

山県昌景は身長が低い?逸話はカッコイイけど…

 

山県昌景はかなり身長が低かったと言われているようです。

 

一説によると昌景の身長は130cm~140cmほどであったんだとか…。

 

戦国時代の成人男性の平均身長は160cm前後と言われております。

それより20~30cmも低いとなるとかなり小柄ですね。

 

山県昌景が戦場で最強の戦力を誇るのと、身長が低い事は他国の武将達の間でもよく知られていたそうです。

 

戦場で山県昌景の姿を見つけた敵の兵達は

 

 

小男が出たぞーっ!


 

と恐怖していたといいます。

 

小男というとなんだか悪口みたいですが、それが悪口にならないほどに周囲から恐れられていたのでしょうね。

 

山県昌景の死後、徳川家康のもとで赤備えは蘇った!

 

多くの有能家臣が討ち死にした長篠の戦い…。

これ以降、武田家は衰退の一途を辿っていきました。

 

そして1582年…

 

 

なんでこうなった…。

最強だった武田家が落ち目…もう誰かしらと戦するのしんどい…。

外交も上手くいかんしどうしろと…。


 

こんな武田氏をブッ潰すべく、織田信長が徳川家康や関東の北条氏と手を組み武田領へと攻め入りました。

 

家臣の離反も相次ぎ弱り切っていた武田軍はろくに応戦できず、追い込まれた武田勝頼は自刃。

 

一大勢力を誇った武田氏は、山県昌景の死から約7年後に滅亡してしまいました。

 

後々、武田の領地だった甲斐・信濃は徳川家康の領地となるのですが、家康はこれにともないかつて武田家に仕えていた武士達を家臣に召し抱えました。

 

そして

 

 

武田家には山県昌景が率いていた赤備えの屈強な軍隊があったね!

彼に仕えていた武士達もきてくれたことだし、徳川家でも赤備えの部隊を作っちゃおう!


 

との事で、武田家旧家臣を迎えて徳川家オリジナルの赤備えの軍隊を作りました。

 

そしてこの赤備えの軍隊の大将に抜擢されたのが徳川四天王の一人、井伊直政であります。

 

井伊直政の率いる赤備えもまた、

 

 

井伊の赤備えは最強か!

まるで赤鬼…井伊の赤鬼だ!


 

なんて言われるほどに戦場で大活躍しておりました。

 

かつて武田と徳川は敵でしたが、武田の旧家臣達はこの赤備えの復活をとても喜び、家康に感謝したといいます。

 

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