馬場信春のカッコイイ逸話や熱い最後をゆるりと解説!
生涯 | 1515年~1575年 |
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出身 | 甲斐(山梨県) |
主君 | 武田信虎、信玄、勝頼 |
有名な親族 | 教来石信保(父)、馬場昌房(長男) |
思い出の戦 | 川中島の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い |
馬場信春といえば | 馬場美濃守、武田家筆頭家老、見事天晴な最後を遂げる |
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馬場信春ってどんな武将?
馬場信春は武田信虎・信玄・勝頼…と武田家一筋で仕えてきた戦国武将!
後世に残る史料は少ないものの、伝えられる逸話や後世の評価から、とても優れた武将であった事が分かっているの!
マジメでまっすぐで知的な所も素敵だけど、なんたって最後の最後に見せたTHE・武士魂がカッコイイわね~っ!
実力で武田家家臣に!馬場信春、将来を期待される
馬場信春の出身地は甲斐の教来石(きょうらいいし)という土地です。
馬場姓を名乗る前は『教来石景政(きょうらいいしかげまさ)』というカッコイイ名前を名乗っておりました。
戦国時代、この教来石氏は武田氏に属し、甲斐・信濃の国境付近を守る『武川衆』の核たる存在にあったのですが…、
1531年に信濃の大名・諏訪頼満(すわよりみつ)が甲斐へと侵攻、
馬場信春はこの諏訪氏との戦で武功を挙げた事により、武田信虎の親衛隊に抜擢されて信虎の直臣となりました。
この時17歳。
これが初陣だったと言われているぞ。
初陣にして幸先良し。
そして武田家が誇る勇将・小幡虎盛(おばたとらもり)は、すぐに馬場信春の才能を見抜き、兵法のいろはを信春に伝授したといいます。
馬場信春は強くて賢い、それでいて人気者だった…!
華やかな戦デビュー!
先輩武将にも認められ将来を有望された馬場信春…!
武田家の面々の期待通り、信春は後に『武田四名臣』に数えられるほど有能で頼れる武将へと成長していきます。
※武田四名臣…武田家の頼れる重臣四名。馬場信春、山県昌景、高坂昌信、内藤昌豊の事をいう。
武勇に関しては申し分ナシ。
主君の武田信玄はとても野心が強く、今川、北条、上杉、織田、徳川…と名だたる大名達と戦を繰り広げる事になるのですが、
馬場信春もそれに従い数々の戦に参戦、40数年の間でかすり傷ひとつ負わなかったという伝説を残しております。
タフすぎて『不死身の鬼美濃』なんて言われていたのだ。
『鬼美濃』なんて聞くと、なんだかオラついた猛将をイメージしてしまいますが、
馬場信春はただ突っ込んでいくような荒武者ではなく、冷静で思慮深い智将という一面も持ち合わせておりました。
パワーバランスの良い、THE・有能武将といったお方なのであります。
そしてマジメな性格で人格者だったという事で、同僚や配下達からの人望も抜群にあったとの事です。
完璧すぎて胡散臭い…?
以下、信春の活躍をご覧いただければそれも納得していただけるかと。
頭角メキメキ!武田信玄に仕えてから絶好調の馬場信春!
馬場信春が武田家にきてから10年後の1541年、主君の武田信虎が甲斐から追放されるという事件が起こります。
武田信虎はチョイと粗暴で強引なところがあり、不満を持つ家臣が大勢おりました。
そこで信虎を廃し、息子の信玄を当主にすべく家臣達が動いたわけなのですが、この際、馬場信春は信玄サイドについて先輩武将達の下で働いていたとのことです。
ちなみに、この時ワシは『晴信』と名乗っていたよ。
その後、当主となった信玄は
譜代家臣の馬場家が父と揉めて断絶しちゃってるんだよね。
名家が消滅するのは勿体無いし、身分に箔をつける為にも馬場家の当主にならないかい?
との事で馬場家を再興し、信春を当主に据えました。
これにともない、信春は50騎を束ねる侍大将に昇格しております。
そしてその後も戦で武功を挙げ、順調に出世!
50騎から120騎に加増され、さらには信濃・牧島城の城代を任されるまでに…!
順調に出世し、武田家の中で存在感を増していっておる…!
それもそのはず、後に武田信玄は
信春は一国の主になれる器量人である。
と信春を高く評価しているし、
信濃侵攻においては、信春は信玄の代理で総軍事指揮権を与えられていたといいます。
ワシ、控えめに言って仕事できる武士!
戦では慎重に作戦を考える!でも川中島の戦いでは…
武田信玄といえば上杉謙信!
そんな二人といえば『川中島の戦い』!
この川中島の戦いは1553年~1564年の間に5回も勃発した戦なのですが、中でも激しい戦となったのが1561年に起こった4度目の川中島の戦いでした。
武田信玄が信濃攻略の為、川中島に海津城を築き…
それを許さない上杉謙信が武田軍に対抗すべく、海津城を見渡せる妻女(さいじょ)山に陣を張る…!
また謙信が邪魔しに来た…。
そろそろバシッと負かしときたいよね。
未だかつて決着が着いたことのない川中島の戦い、作戦会議が行われるのですが…
飯富虎昌
正面から堂々と攻めましょう。
こう主張する家臣がいる中、馬場信春は
それでは武田軍の被害もただでは済まない。大勢の死傷者が出てしまうぞ。
もっと慎重な策を考えるべき。
と主張しました。
そして…
では奇襲をかけましょう。
兵を二手に分け、挟み撃ちにするのです。
一隊が囮となり上杉軍を引きつけて、潜ませていた別隊で反対側から叩く!
名付けて『キツツキ戦法』!
おおっ!素晴らしい!!
名案でございますな!
最高(´∀`)!
武田家軍師・山本勘助によって考案されたキツツキ戦法で上杉軍に挑む事に。
しかし、その動きが上杉謙信にバレてしまった為、逆に武田軍は上杉軍から奇襲をかけられてしまいました。
八幡原という地で両軍は激しい戦いを繰り広げるのですが、
馬場信春はというと、妻女山の上杉軍を背後から攻撃する予定だったので、八幡原とは別の所にスタンバイしておりました。
不覚!
濃霧で視界が最悪だった為に敵の動きに気づけなかった!
事態を知った信春ら武田の別隊はすぐさま現場に急行。
窮地に陥っていた武田軍でしたが、なんとか上杉軍を撃退し、難を逃れる事ができたのでした。
冷静に物を考え、慎重に事を進めていく馬場信春ですが、川中島の戦いでは上手く結果を出す事が出来なかったという…。
いい案だと思ったのに…。
上杉謙信、一筋縄じゃいかないね。
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曲がった事が大嫌い!マジメで豪気な馬場信春!
馬場信春の漢気を感じる、有名な逸話をここでひとつ…。
1560年、武田信玄の同盟相手であった駿河の今川義元が死去。
この後、衰退していく今川家を見限った武田信玄は、今川家との同盟を一方的に破棄し、
1568年には今川領へと侵攻、本拠地である駿河の今川館に攻め入ります。
今川家当主・氏真は逃亡、信玄は今川館に火を放たせるのですが…
今川さんの家、素敵なお宝が沢山あるんだろうなぁ…。
財宝が燃えるのを惜しみ、兵達に財宝を全て運び出すよう命令しました。
この事を聞いた馬場信春は、急いでその現場に駆けつけます。
止めなさい!
戦の最中に敵の財宝を奪うなど恥ずかしい事!
武田の者共は盗人だと後世の笑い者になるぞ!
でも信玄様が…。
殿の命令であってもダメ!
ワシが責任とってあげるから中止!
信春は兵達にこう言い、せっかく運び出した財宝を次々と火中に投げ捨ててしまいました。
後に事の顛末を聞いた信玄は…
信春の言う事はごもっとも…。
止めてくれてよかった、おかげで恥をかかずに済んだよ。
と納得し、信春を責めるどころか感謝したのでした。
馬場信春は曲がった事は大嫌い!…といった一本気なお方なのであります。
三方ヶ原の戦いでは家康を恐怖に陥れ、男を上げる
苦戦する事もあったけど、武田信玄の駿河・信濃攻略はいい感じ!
なんやかんやで勢力を拡大させ…
武田氏は日本屈指の大勢力へと成長しておりました。
そしてこの時期、武田信玄は将軍・足利義昭の誘いに応じて『信長包囲網』に参加し、
1572年には遠江へと侵攻し、織田信長の同盟相手である徳川家康と三方ヶ原の地で戦って圧勝しております。
この時の武田軍の勢いは凄まじく、徳川家康は家臣に守られ命からがら戦場から脱出するのですが、
馬場信春はこの際、敗走していく徳川家康をおよそ9km先の浜松城まで追撃したとの事です。
武田軍のあまりの勢いにビビってさ…
ワシ、マジで死ぬかと思って恐怖でウンピ漏らしちゃいました…。
多数の死者を出し、ボロ負けした徳川軍にとってはなんとも厳しい戦となったわけですが、
馬場信春は戦場に倒れた徳川の兵を見て
三河武士は皆、武田の方に向かって倒れている。
誰一人、逃げようとする者はいなかった。
と褒め称えたといいます。
武田信玄死す!馬場信春、死へのカウントダウン始まる…
武田信玄には有能な家臣達もいるし、動員できる兵力もかなりのもの…。
武田は戦国最強!というくらい絶好調だったわけですが、三方ヶ原の戦いから半年も経たない間に信玄は病死してしまいます。
これにより、武田家は信長包囲網から離脱。
信玄の息子・勝頼が武田家を継いで新たなスタートを切る事になるのですが…
殿の死からわずか二年後に、武田家の運命を変える戦が起きるのである…。
馬場信春の長篠の戦い!信春の最後の最後が熱い…!
武田勝頼は信玄の死後も美濃や遠江に侵攻、織田や徳川方の支城を落とし勢いに乗っておりました。
俺は父も認めた戦上手だからな!
次は三河の長篠城を落とす!
長篠城を守る奥平信昌は、かつて武田を裏切り徳川についた憎い相手であります。
そんな事情もあり、1575年、武田勝頼は長篠城を1万5000もの兵で包囲しました。
長篠城にいる兵は500ほど。
どう考えても武田の勝利!
…という状況だったのですが、織田軍3万と徳川軍8000の大軍が長篠城の援軍にやって参りました。
敵の大軍は長篠城の手前、設楽ヶ原にて武田軍を迎え討つべくスタンバイ…
これを見て馬場信春ほか武田家の重臣たちは…
兵力差も凄いけど、敵は鉄砲隊や騎馬対策の柵を多数配置している…。
正面から戦うとなると、あきらかに我々が不利でしょう。
うむ。
武田自慢の騎馬隊も通じないし、鉄砲隊の戦闘力も未知数…!
ここはひとまず退くべきです。
冷静に戦況を見極め、勝頼にこう進言しました。
しかし、
は?
戦国最強の武田が負けるとでも?
勝頼は自信満々、信春達の意見を却下しました。
では、ひとまず長篠城の攻略だけに集中しましょう。
長篠城を落とした後に兵を退き、追撃してくる敵を信濃に誘い込みそこを討つのです。
いや!織田や徳川なんぞ恐れるに足らず!
ここで討ち果たしてやるわ!
勝頼は信春が妥協して進言した作戦も却下、強引に突撃の命令を下しました。
(主君がそうしろというなら従うのみ…。)
戦が始まると、信春達の予想した通り武田軍は大苦戦。
兵達は織田軍の鉄砲隊に次々と撃ち倒されていきます。
馬場信春はというと、武田軍の五番手として750騎を率い、織田軍の滝川一益・佐久間信盛の軍勢6000に突撃していきました。
果敢に攻めるも味方は敵に討たれて減っていってしまうのですが、信春はそんな中でも敵兵を数人討ち取り、それでいて無傷であったといいます。
しかし、
鉄砲隊に柵を越えねば敵の本陣に辿りつけない。
このまま戦っても全滅するだけ…。
信春の戦いっぷりが凄くとも、武田軍は圧倒的に劣勢でありました。
武田家の為、勝頼様だけは生き伸びてもらわねば!
信春は配下を武田勝頼のもとへ送り、退却するよう言葉を伝えさせました。
始めは強気だった勝頼も、さすがに戦場の様子を見て退却を開始します。
信春は殿を務め、大将の旗印が戦場から離れていくのを確認すると、勝頼を追う敵を食い止めるべく戦場に留まり、命尽きるまで戦って61歳で生涯を終えたのでした。
この時の様子について、織田信長の生涯を記録した『信長公記』には
馬場美濃守、手前の働き比類なし。
と、信春の勇姿を褒め称える一文が綴られております。
敵サイドにこう言わしめる馬場信春、その戦いっぷりがいかに素晴らしいものであったのかが伺えます。
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馬場信春の願いむなしく、武田家は滅亡…
長篠の戦いでは馬場信春ほか、武田家の有能な家臣達がことごとく討死に…。
これを機に武田家は衰退の一途を辿り、7年後の1582年に織田信長に攻められ滅亡してしまいました。
武田勝頼は当主になってからというもの、自分に意見してくる馬場信春ら老臣を嫌う傾向にあり、あまり彼らの意見を聞き入れなかったといいます。
そんな勝頼の我儘で始まった長篠での戦…、
負けると予感しつつも主君に忠義を尽くし、主君を守る為に身を挺した信春の最後はグッとくるものがありますね。
ここを己の死に場所と定める潔さよ。
武士とはかくありたかろう。
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