徳川家康はホトトギスが鳴くのを待つ!家康の凄さ、魅力に迫る!

徳川家康はホトトギスが鳴くのを待つ!家康の凄さ、魅力に迫る!

徳川家康はホトトギスが鳴くのを待つ!その凄さ、魅力に迫る!

 

鳴かぬなら、鳴くまで待とう、ホトトギス


 

という言葉があるとおり、家康はとにかく忍耐強く、冷静に事を見極め行動する慎重派の武将でした。

 

無理な博打をせず、しっかりと先を見据えて行動にでる、こんなイメージの武将です。

 

鳴かないホトトギスの鳴かせ方と言えば、織田信長は

 

 

天下取るぞー!

戦、戦、とにかく戦!!

邪魔する奴はKO☆Ro☆Su!


 

って感じで天下人直前まで勢力を拡大させ、

 

豊臣秀吉が織田信長が築き上げたものをベースに、これまた

 

 

天下とるぞー!

調略!戦!調略!戦!

とにかく色々考えてやれる事をやるのみっ!


 

てな感じで天下をモノにする。

 

そして徳川家康が

 

 

秀吉いなくなったラッキー!

待ったよ長かったよ~!

空いた天下人の席はそのままワシが座らせてもらうよっ!!


 

てな感じでごっそりそのまま天下をモノにする。

 

そんな感じなのでなんだか織田信長や豊臣秀吉に比べて英雄っぽいイメージがないように思います。

 

がしかし!

 

とにかく待ち続け、じっくりと先を見据えて家康は天下人になれたわけなのですが、とにかくその用意周到さ慎重さは凄いのであります!

 

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実は血気盛んな性格だった徳川家康

 

ホトトギスは待つのがモットーの徳川家康ですが、実は若い頃は血気盛んな性格をしておりました。

 

そんな家康の性格が変化するきっかけとなったのが、三方ヶ原の戦いであります。

 

三方ヶ原の戦いは甲斐の武田信玄が上洛する為に、通過地点である徳川の領地を侵攻してきたことから始まった戦です。

 

武田信玄はその時、2万5000もの大軍を率いていました。

 

 

ヤバいよヤバイよ!

こっち向かってきてるってよ!

こっちは信長殿からの援軍を入れても1万2000だよ!


 

 

殿!ここは籠城です!


 

家康は迫りくる武田軍に対して籠城作戦をとりました。

 

が、

 

 

ちょっと前の方通らせていただきますねっ


 

武田信玄は進路を変え、浜松城をスルーして通り過ぎていきました。

 

 

まさかの無視!


 

 

追うっ!!

きっと城下を荒らしまわるに違いない!

許してなるものか!いざ出陣!!


 

 

ダメです、これは罠の可能性もありますぞ!

信長様からも敵は大軍だから迂闊に動くなと言われてるでしょう!


 

 

このまま城に引きこもって何もできずに終わるなんて…末代までの恥よ!

勝つか負けるかは運次第!!


 

敵は2倍の兵力、しかも相手は戦上手な武田信玄。

 

にもかかわらず、家康はプライドが許さんと果敢に武田信玄に挑んだのであります。

 

その結果、武田軍にボロ負けして敗走させられることとなりました。

 

 

負けてもいい!

最後まで戦う!

情けなく逃げまわるぐらいならここで討ち死にするほうがマシ!!!


 

完全に冷静さを欠いてヤケクソ状態となった家康…。

 

そんな困ったちゃんの殿様を家臣達は強引に馬に乗せ、浜松城へ連れて帰る事にします。

 

そして何が何でも無事に家康を帰還させる為、一部の家臣たちは戦場に残って武田軍と戦いました。

 

中でも有名なのが夏目吉信という家臣、彼は家康の甲冑を身に纏い、

 

 

我が家康じゃーっ!!


 

と家康の身代わりになり敵と戦い、命を落としました。

 

彼だけでなく、この撤退戦では他にも多くの家臣・兵が戦死しております。

 

その後…

 

浜松城へ無事に帰還した家康は大分落ち着きを取り戻しておりました。

 

そして、家康の為に犠牲となった家臣たちの話を聞かされた家康は…

 

 

冷静に考える事をせず、感情だけで戦をしたせいでワシは沢山の家臣を死なせてしまった。

本当に申し訳ない…。

 

今後は絶対にこんな愚かな事はしない!

ワシは変わるぞっ!!


 

三方ヶ原の戦いでの事を後悔し、心から反省したといいます。

 

失ったものは沢山ありましたが、家康はこの出来事をきっかけに成長し、天下人に相応しい器量の持ち主になったのであります。

 

 

ちなみにこの三方ヶ原の戦い、武田軍の追撃が凄まじすぎて『家康は恐怖のあまり脱糞した』と言われているよ。

 

でもそれは間違いなんだ。

お弁当として持っていった味噌が溢れちゃっただけなんだよ、ホントだよ。


徳川家康待ちすぎ問題。秀吉存命中から息を潜めていた

 

1590年、秀吉が最後の敵となる関東の北条氏を滅ぼして天下を統一。

しばらく日本は戦のない平和な時が続きます。

 

徳川家康は秀吉の存命中、他の大名と同じく豊臣家に忠義を示して働いておりました。

 

確固たる豊臣家の権力に、謀反を起こし『天下を取ってやる!』なんて考える者はいなかったことでしょう。

 

 

え?


 

秀吉は天下統一後、徳川家康の力を恐れて京から離れた江戸(当時は未開の土地で結構田舎だったらしい)へ追いやっていましたが、

 

晩年はマジメに豊臣家に尽くしてくれる家康の事を信頼し、五大老(豊臣政権の最高幹部)の一人に家康を任命しております。

 

起請文(お約束のお願い。遺言みたいなもの)には

 

 

事を決める時、他の大名達は家康殿によく相談して意見を聞くように。

そして家康殿、ワシの跡継ぎの秀頼のことをよろしく頼む。

よろしく頼むマジでよろしく頼む支えてやってくれぃ。


 

といったような事が綴られています。

 

がしかし、

 

秀吉の死後、家康は結構な速さで天下をものにするべく行動を開始しちゃいます。

 

無許可で大名同士で婚姻関係を結んではいけないという豊臣家のルールを破って、自分の子や親戚をバンバン他の大名家と結婚させていたのです。

家康の六男・松平忠輝⇒伊達政宗の長女・五郎八姫

家康の甥・松平康元⇒福島正則の養子・正之

家康の養女・清浄院⇒加藤清正

・・・などなど。

 

待ってましたと言わんばかりの手の平返し・・・。

秀吉の存命中は息を潜め、とにかくチャンスが来るのを待っていたんですね。

 

しかし、そんな家康を許すまいと石田三成を筆頭にアンチ家康勢が立ち上がります。

 

そして今後の政権を巡って両者の関係が悪化。

ついには戦にまで発展し、1600年に関ヶ原の戦いと呼ばれる戦が起こります。

 

この戦で勝利を飾ったのは家康率いる東軍。

 

これで家康に逆らえる力を持った大名がいなくなり、実質、天下は家康のものとなりました。

 

とは言っても豊臣家の力はまだまだ強い状態です。

 

秀吉の時代に蓄えた財産が沢山あるから、戦をしようと思えば沢山人を集めれるし、武器も買える。

 

福島正則や加藤清正といったゴリゴリの豊臣家家臣も現役で、いくら家康に従ってるとはいえ油断は禁物といった状況なのです。

 

 

完全に徳川の世にするには豊臣家の存在は邪魔だなぁ…。

消しときたいなぁ…。

後継ぎの秀頼が大きくなって反抗してきたりする可能性もあるし…。

 

まだ安心安全な私の天下、とはいえないんだよなぁ…・。


 

と思った時、できるだけすぐに対処したいものですがベストな結果がだせるようタイミングを見計らい、慎重に行動するのが徳川家康
なので、家康は下手に行動することはありませんでした。

 

それに、家康もなんやかんやで豊臣家とは良い関係でいるよう努めてはいたみたいです。

 

しかし、なんだかんだで豊臣家を弱らせる事は継続しておりました。

 

 

亡き秀吉様を供養するために各地に寺を建ててはどうかね?


 

なんて言って、豊臣家にお金を使わせ財力を削ったりしてたのです。

 

そして徳川方はその中のひとつ、方広寺で作られていた鐘に刻まれた文字、

 

国家安康

 

君臣豊楽

 

 

 

家康の文字を分断している!

不吉!この家康を呪い、豊臣家の安泰だけを願っているんだな!?


 

とケチをつけ、豊臣家を悪者に仕立て上げました。

 

 

そんなつもりない!誤解!


 

 

許せない!プンプン!

仲直りしたいなら秀頼くんののお母さんを人質に出してもらおうか?

ほんで秀頼くんは大坂から出ていって他国へお引越ししてくれる?


 

 

そんな条件飲めるわけない!


 

 

じゃあ仲直りできないね!

そのうち戦になるかもね!


 

豊臣方も折れないし、家康も譲らない…。

 

こんな感じで両者の関係が悪くなり、ついには大坂の陣と呼ばれる戦に発展します。

 

1615年、この戦で家康は勝利し、豊臣家を完全に滅ぼすことができました。

 

関ヶ原の戦いから15年も経ちましたが、家康は待ちに待って豊臣家が弱った時期に戦を仕掛け、見事完全に豊臣家を潰したのであります。

 

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徳川家康は長寿!長く生きる!生きてる間は待てる!

 

長生きこそ最大の武器!家康が天下人となれたのは長生きあってこそであります。

 

人間五十年と言われたこの時代、家康の享年75歳という数字は十分に長生きと言えます。

 

 

ワシが家康より長生きしていたらきっと家康の天下はなかっただろうね。


 

家康は自ら薬草を調合して薬を作ったり、何が体に良いかを研究したりと健康オタクであったといいます。

 

そして家康は決して遊女とは関係を持ちませんでした。なぜなら梅毒などの病を貰って身体を壊す事があってはいけないからです。
※加藤清正や黒田官兵衛なんかは梅毒が死因だったかもと言われている。

 

健康管理もバッチシで意識も高い、さすがです。

 

ちなみに徳川家康の死因は・・・

 

そんな家康の死因は、大好きな鯛の天ぷらを食べ過ぎて食あたりしたのが原因だと言われています。

 

が、どうやらそうではなく家康は胃ガンだったかもしれないとか。

 

だとすると、病気に気づかず油物を沢山食べすぎてしまい、それが胃の負担となって病状の悪化を引き起こしてしまった。

 

・・・といった感じかもしれませんね。

 

胃ガンでなくても75歳のご老体で天ぷらの大食いはかなり胃に負担かかりそうですが・・・。

 

徳川家康の凄いところおまけ

 

家康は側室を決める時、若くて美人であるとか、そういった事を重点におくのではなく、

 

今までに出産経験がある、子を産むのに適した身体をしている、といった事を重点に側室を選んでいました。

 

その為なら歳や見た目は関係なし。どれだけ自分の血を分けた子を世に残せるかが大事だったのです。

 

結果、家康には実子が16人産まれました。

これを有力大名の元へ嫁がせたりし、どんどん徳川の血筋を広めていったのであります。

 

 

若くて可愛い子がいいなんてエゴは封印。

これも全ては徳川家の為・・・。

でも晩年はその反動か、孫くらい歳の差がある子を側に置いていたよ!


 

次の記事:徳川四天王に熱き三河武士!家康と家臣達の絆とは

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