徳川四天王に熱き三河武士!家康と家臣達の絆
家康の人生最大の幸運は、なんといっても素晴らしい家臣に恵まれた事!
・・・と言ってもいいくらい家康の家臣達は忠義心厚くてまっすぐ!家康もそんな家臣達の事を信頼して大切に思っておりました。
とにかく熱くてカッコイイ徳川四天王に三河武士!知れば必ず好きになりますぞ~!
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家康の不幸な幼少時代
はじめに・・・、家康の幼少時代は不幸の連続であり、苦難の連続でした。
当時の松平氏は三河の弱小勢力にすぎず、勢力拡大に燃える尾張の織田氏と、遠江・駿河の大大名である今川氏に挟まれ、その脅威に脅かされていました。
そして当時松平家の当主だった父・広忠は、生き残る為に今川氏の傘元に入ることとなります。
しかし、父・広忠の妻の一族は織田氏につきました。その為、二人は離縁することとなり、家康は幼くして母と離れ離れ、敵対関係になってしまったのです。
そしてさらなる不幸・・・、父・広忠も早くにこの世を去りました。
家康は実の両親を失ったうえ、幼くして地元の三河を離れ今川家の人質となったのです。
詳しくは別記事:家康はなぜ今川の人質に?どんな幼少時代だったの?
忠義の塊!勇猛果敢!三河武士!
家康には代々仕えてくれる自慢の家臣達がいます。
三河の頃から家康に仕える『三河武士』であります。(そのまんま。)
とにかくこの三河武士は忠義に厚く、屈強な軍団であったと言われています。
別記事にも書いたネタですが、三河武士のエピソードでかかせないのが三方ヶ原の戦いでの出来事です。
三方ヶ原の戦いで家康が武田信玄にボロ負け、敗走するも武田軍の追撃は激しく家康大ピンチ!って時に命を投げうって家康を守り、壮絶な戦いをしたのが三河武士です。
最後まで戦う!情けなく逃げ帰るくらいならここで討ち死にするほうがマシ!!!
とヤケクソになっている家康を家臣が強引に馬に乗せ、居城である浜松城へ連れて帰ります。
そして残った三河武士達は、家康を無事に帰還させる為に武田軍を必死で食い止めました。
この戦で逃げだす三河武士は一人もおらず、ことごとく討ち死にしたといいます。
この三方ヶ原の戦い以降、家康は命を捨てにいくような危険な戦い方はしなくなります。
三河武士の熱すぎる思いに忠義が家康の命を救い、そして家康をより成長させることとなったのです。
家康の家臣たちに対する思い
とにかく三河武士は家康一筋の熱い武士であります。
そんな家臣たちのことを家康も大切に思っていました。
それは豊臣秀吉が大名達を集めてお宝自慢大会をしていた時のこと・・・、
皆が武具や骨董品などの自慢の一品について語る中、家康だけは
ワシはそんな自慢できるような高価な物は持ってないです。
でもワシの為なら命を惜しむ事なく、火の中水の中どこにでも飛び込んでくれる家臣が沢山います。それがワシの一番の宝であります。
と言いいました。
家康ほどの大大名、自慢できるお宝のひとつやふたつぐらい絶対にあったと思われます。いかに家臣達の事を大切に思っていたのかが伝わってきますね。
とても素敵なエピソードであります。
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徳川家康の側近中の側近、徳川四天王!
忠義心厚く屈強な徳川家家臣達、その中でも有能な4人の武将を家康は側近として重用しました。
そう、世に有名な『徳川四天王』であります!
徳川四天王最年長!酒井忠次
酒井忠次は家康より15歳歳上で、徳川家家臣団のリーダー的な存在でした。
徳川四天王の他のメンバーが武闘派なのに対し、酒井忠次は軍師のような役割を担っていました。
家康が今川家の人質となった時、共に駿府に移り幼い家康を支えてきた頼れる家臣であります。
がしかし、とある事件がもとで二人の間に確執が生まれてしまいます・・・。
1579年、家康の妻子である瀬名姫・信康が
武田と組んでワシに対し謀反を企んでいる!
と信長から疑いをかけられた時、外交担当の忠次が上手く弁明できず、結果的に2人を死に追いやってしまったのです。
この事がきっかけで家康は忠次を恨むようになったといいます。
その負い目もあってか、酒井忠次は1588年に家督を嫡男・家次に譲って51歳で隠居したのであります。
幼い頃から家康と一緒!榊原康政
榊原康政は家康の6歳歳下、幼い頃から家康の小姓として仕えてきました。
前線で活躍することの多かった武闘派の武将であります。
そんな榊原康政が出世するきっかけとなったのが三河で起こった一向一揆です。
人質から脱して三河に帰国した家康は、戦に備えて兵糧の準備を始めるのですが、焦るあまりか領民から強引に年貢をとりたててしまい、三河の浄土真宗の信者達に猛反発され一揆を起こされてしまいました。
※家康の家臣が一向宗の寺に不法侵入して一向宗側が怒ったという説もある。
そして家康の家臣の中にも浄土真宗を信仰する者がおり、家康のもとを離れて一揆勢の味方をする者達が大勢でてきます。
家康大ピンチ!しかも味方の家臣も宗教勢力と戦う事を罰当たりな事だと恐れて尻すぼみしてしまう状態・・・。お先真っ暗や。
という時に出てきたのが榊原康政、この一向一揆が初陣であるにもかかわらず自ら先陣を名乗りでました。
仏罰は俺が全て受けてやる!だから皆、敵を恐れずに思いっきり戦ってくれ!
そしてこの痺れる仲間への喝入れです。
この榊原康政の言葉で家臣達の士気も上がり、一揆は無事平定されたのであります。
そして小牧長久手の戦いでは、敵の秀吉軍を動かす為、秀吉本人に挑発文を送りつけたりもしています。
秀吉殿は信長様に拾ってもらったおかげで世に出れたというのにその恩を忘れ、織田家を陥れるようなことばかりしている。
信孝様(信長の三男)の事を亡き者にしただけではあきたらず、織田そのものを亡き者とするつもりであろう。
秀吉殿は自分の欲のままに世を乱す極悪人、今に天罰が下るぞ!
・・・こんな手紙を秀吉に送るだけでなくそこら中に張り付けて拡散したのであります。
大恥かかされた秀吉は大激怒、榊原康政の首に10万石という国一つ貰えるレベルの破格の懸賞金をかけたのでした。
榊原康政、いろんな意味で強い。笑
戦国最強と名高い本多忠勝!
本多忠勝、生涯で57度戦に出て一度も傷を負ったことがないというレジェンド武士です。
姉川の戦い(織田・徳川VS浅井・朝倉)で朝倉軍と家康軍がぶつかった時には、
徳川軍5000に対して朝倉軍10000という2倍の兵力差をものともせず、忠勝は率先して敵陣に突っ込んでいったといいます。
その勇敢な姿に味方の士気も大いに上がったんだとか。
そして小牧長久手の戦いでは徳川軍の勝利の為に、たった500の兵を連れて80000近く集まった豊臣軍の近くへ行き、煽りに煽っておちょくりまくるという活躍をしています。
その凄まじい度胸に秀吉は
す、すげぇ肝っ玉の持ち主じゃっ!徳川には天下無双の武士がいるぞ!!
と驚愕したといいます。
家康に過ぎたるもの2つあり、唐の頭に本多平八
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強い・イケメン・頭いい!徳川一のエリート井伊直政
井伊直政は徳川四天王の中で一番若く、唯一よそから徳川家にやってきた中途採用の武将です。
にもかかわらず徳川四天王となり、さらには徳川家で1番の禄を与えられるまでに出世しているすごい方なのであります。
武勇、知略どちらにも優れ、おまけに顔もイケメン。とにかく家康に愛されたエリート武将です。
戦国三英傑の家臣事情を比べてみる
せっかくなので、織田信長、豊臣秀吉との家臣事情を比べてみましょう!
織田信長と家臣達について
織田信長は、完全なる実力主義で家臣を評価していたので、有能であれば譜代の家臣であろうと無名の他所者であろうと関係なく平等に評価してくれます。
しかし、無能なものにはとことん厳しいので、例えどれだけ自分に対する忠義心があっても失態をおかせば容赦なくお払い箱となります。
役立たずはいらん!文句も言わさんし黙って俺についてこい!
といった強引な主君であります。
そんな織田信長は家臣に不満を持たれる事も多く、よく裏切られたりもしていました。
(松永久秀や荒木村重、明智光秀など)
こういったところから織田家は
ちゃんと言う事聞いて働かないと!信長様は怒ると怖い!
といったピリピリした雰囲気のイメージがあります。
信長と家臣の関係も、信長のお気に入りを除けば、ビジネスライクな関係であったと思われます。
豊臣秀吉と家臣達について
天下人となった豊臣秀吉には沢山の家臣がいて、忠義をもって仕えてくれる家臣も沢山いました。
がしかし、豊臣家家臣たちは団結力力に欠けるところがあります。
それは秀吉の死後にハッキリと見てとれます。
関ヶ原の戦いにおいては、加藤清正・福島正則らと石田三成が同じ豊臣恩顧の家臣であるにも関わらず激しく対立しています。
それが原因で豊臣家は破滅、徳川家の天下になっていくのですが、そうなった時に豊臣家に仕えていた多くの家臣達は豊臣家から離れていきました。
豊臣秀吉は農民の出であり、己の身一つで成りあがった男・・・、
家族・親戚(豊臣秀次、加藤清正、福島正則など)以外の家臣はよそからやってきた武将であり、その場限りの忠義の武将も多かったのです。
織田信長や徳川家康と違い、代々仕えてくれている家臣がいないのは仕方がない事とはいえ、豊臣秀吉にとって最大の欠点だったかもしれません。
徳川家家臣団ほどの団結力が豊臣家にあれば関ヶ原の戦いは起きなかったかも・・・??
徳川の天下はなかったかも・・・?!
徳川家康と家臣達について
徳川家康には父や祖父の代から三河で仕えてくれる家臣団がいます。
弱小勢力であった松平家は、家臣に裏切られて祖父が殺害されたり、身内に裏切られて織田家に家康が売られたりとグダグダな時期もありました。
そんな苦しい時を共に乗り越え、家康について来てくれた家臣達の忠義、結束力は抜群に強いものであります。
家康は家臣の意見をちゃんと聞くし、自分に非があれば反省し改める事もできる、家臣からしても接しやすい主君であったと思われます。
信長、秀吉と比べると断トツでアットホームじゃない??
・・・個人的な意見で申し訳ありません、だいぶ徳川家を贔屓目に書いてしまいました。笑
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