徳川家康と徳川四天王!家康は家臣に恵まれすぎ?
家康の人生最大の幸運は、なんといっても素晴らしい家臣に恵まれた事!
…と言ってもいいくらい家康の家臣達は忠義心厚くてまっすぐ!
家康もそんな家臣達の事をとても信頼して大切に思ってみたいよ~。
とにかく熱くてカッコイイ徳川四天王に三河武士、知れば必ず好きになること間違いなし!
ってことで、今回は徳川四天王やその他家臣とのエピソードなんかをゆるりとご紹介~!
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徳川家康の家臣と言えば…『徳川四天王』!
徳川家康の家臣と言えば徳川四天王が有名であります。
この四天王のメンバーは
酒井忠次
本多忠勝
榊原康政
井伊直政
…であります。
彼ら4人、徳川四天王なんて言われるだけあって皆有能!
家康への忠義心はとっっても厚いし、メンタルも戦も強い爆イケ武将達であります。
1人1人詳しく掘り下げられるのですが、ここでは簡単にご紹介できればと思います。

下に個人の詳しい記事のリンク貼っとくから、詳しく知りたい方は良かったら後で見てみてね〰ん。
徳川四天王最年長!酒井忠次
徳川家康は幼い頃、今川家の人質として駿府で暮らしていた時期があるのですが、酒井忠次はその頃から晩年まで家康を側で支えてきた最古参の家臣であります。
年齢は徳川家康より15歳年上。
家康の一族とも縁が深く、最古参の家臣ということもあり家臣団のリーダー的存在でありました。
他の徳川四天王のメンバーが戦に強い!武闘派!といった感じのイメージが強いので、酒井忠次はちょっと地味な印象があるかもしれません。
が、数々の戦に参加し、武功も十分にアリ。
内政面ではあの織田信長との外交を担当するなど、あらゆるお仕事で活躍してきた重鎮であります。

他のメンバーはみんな家康様より年下だし、若いんだ。
おのずと私が軍師的な立ち位置になっちゃうよね。
そんな酒井忠次ですが、一度とんでもない失敗をやらかしております。
徳川家康の妻と嫡男・信康が

家康の妻とその子がワシの敵である武田と内通してるらしいな。
と織田信長に謀反の疑いをかけられた時、上手く弁明できずに2人の無実を晴らす事ができませんでした。
その結果、妻は殺害され信康は切腹するという最悪の事態を引き起こし、家康の恨みを買ってしまったという…。
幼い頃から家康と一緒!榊原康政
榊原康政は家康の6歳年下、幼い頃から家康の小姓として仕えてきました。
前線で活躍することの多かった武闘派の武将であります。
もしかすると世間一般的に知名度は低いかもしれません。
が、個人的にはかなり魅力的な武将。
メンタル強くて頼もしい、シンプルに強くてカッコイイ武将であります。
家康の家臣と言えば本多忠勝が強くてカッコイイ!
…といったイメージがあるかもしれませんが、個人的には断然、榊原康政の方がカッコイイと思います。
そんな榊原康政が出世するきっかけとなったのが、三河で起こった一向一揆です。
今川家の人質から脱して三河に帰国した後、家康は戦に備えて兵糧の準備を始めるのですが、
焦るあまりか領民から強引に年貢をとりたててしまい、三河の浄土真宗の信者達に猛反発され一揆を起こされてしまうのですが、
※家康の家臣が一向宗の寺に不法侵入して一向宗側が怒ったという説もある。
家康の家臣の中にも浄土真宗を信仰する者がおり、家康のもとを離れて一揆勢の味方をする者達が大勢でたので、家康は苦戦を強いられることになります。
しかも味方の家臣も宗教勢力と戦うのは罰当たりな事だとイモけておる…。。
どうにも士気があがらず、先行き不安の家康たち…
ここでこの状況を打破したのが榊原康政でありました。
榊原康政は…
仏罰は俺が全て受けてやる!
だから皆、敵を恐れずに思いっきり戦ってくれ!
皆に向かってこう言い、この一向一揆が初陣であるにもかかわらず自ら先陣を名乗りでました。
この榊原康政の言葉で士気が上がったのは言わずもがな。
その後、一揆は無事鎮圧されております。
こんな感じで榊原康政はメンタル激強、男前。なのであります。
他には『小牧長久手の戦い(徳川家康・織田信雄連合軍VS羽柴秀吉)』と呼ばれる戦で、秀吉の軍勢を動かす為に秀吉本人に挑発文を送りつけたりもしています。
その内容がこちら…
秀吉殿は信長様に拾ってもらったおかげで世に出れたというのにその恩を忘れ、織田家を陥れるようなことばかりしている。
信孝様(信長の三男)の事を亡き者にしただけではあきたらず、織田そのものを亡き者とするつもりであろう。
秀吉殿は自分の欲のままに世を乱す極悪人、今に天罰が下るぞ!
…こんな手紙を秀吉に送るだけでなく、そこら中に張り付けて拡散したそうな。
当然、秀吉は大激怒。
榊原康政は10万石という破格の懸賞金をかけられ、指名手配されたらしい…。

ま、やられなかったけどね~。
戦国最強と名高い本多忠勝!
本多忠勝は生涯で57度戦に出て一度も傷を負ったことがないという伝説を持つ武将です。
戦国時代とかよく知らない、と言う方でもおそらく名前ぐらい聞いたことあるかと思われます。
逸話を見てる限り、榊原康政のようにオラついた雰囲気はなさそうですが同レベルの強メンタルの持ち主と思われます。
『小牧長久手の戦い』では別動隊として動いていた家康の軍勢を守る為、たった500の兵で8万近く集まった豊臣軍の前に立ちはだかり、家康の元へ行かせない為に挑発しまくるという活躍をしています。
その凄まじい度胸に秀吉は
す、すげぇ肝っ玉の持ち主じゃ!
徳川には天下無双の武士がいるぞ!!
と驚愕したといいます。
また、戦以外では普通に家康に口答えしたり、強引に意見を押し通したりする頑固なところがあったりします。
忠勝には敵わんぜ。
…って感じでワシが折れたりする。
強い・イケメン・頭いい!徳川一のエリート井伊直政
井伊直政は徳川四天王の中で一番若く、唯一よそから徳川家にやってきた中途採用の武将です。
にもかかわらず徳川四天王となり、さらには徳川家で1番の禄を与えられるまでに出世しているすごい方であります。
武勇、知略どちらにも優れ、おまけに顔もイケメン。
男の子にはあまり興味を示さなかったとされる家康も、井伊直政だけはめちゃくちゃ可愛がっていたという噂であります。
ちなみに井伊直政はゴリゴリの武闘派。
戦では常に1番をいきたがるような、とってもやる気のある猪武者であります。
家康は直政が戦場ではりきりすぎて怪我でもしないか心配で心配で、持っていた軍配を噛みしめて直政を見守っていた…
みたいな逸話があるので、とにかく家康に愛されていたんだろうなぁ~というのが伝わってくる武将であります。
戦だけでなく外交なんかもちゃんとこなしていたようなので、もの凄く真面目でやる気があってスペックが高い有能な人物だったように思います。

『井伊の赤備え』と呼ばれる赤色の装備で統一した軍勢を引き連れていたことでも有名だね。
忠義の塊!勇猛果敢!三河武士!
徳川家康には代々仕えてくれる自慢の家臣達がいます。
三河の頃から家康に仕える『三河武士』であります。
(そのまんま。)
とにかくこの三河武士は忠義に厚く、屈強な軍団であったと言われています。
三河武士のエピソードでかかせないのが『三方ヶ原の戦い』であります。
1573年…
武田信玄の侵攻に対し、家康は家臣の制止を振り切ってやる気満々で迎え撃って敗北。
家臣達は
最後まで戦う!
情けなく逃げ帰るくらいならここで討ち死にするほうがマシ!!
とヤケクソで駄々こねてる主君を無事に浜松城へ連れて帰るべく、激しく追撃してくる武田軍と命がけで戦いました。
家臣らは
ヤメロ〰!!
勝手な事すな〰!!!!
と馬上からケリを入れて抵抗する家康の馬を必死で引き、浜松城へと強制送還…
夏目吉信という家臣は家康の身代わりとしてその場に残り、家康を逃がすために武田の軍勢に突っ込んでいき、命尽きるまで戦いました。
その他の三河武士達も、家康を無事に帰還させる為に武田軍を必死で食い止めました。
この戦で逃げだす三河武士は一人もおらず、ことごとくが討ち死にしたといいます。
その戦いっぷりに敵の武将も

三河武士は皆、武田の方に向かって倒れている。
誰一人、逃げようとする者はいなかった。
と、感嘆したという…。
この三方ヶ原の戦い以降、家康は命を捨てにいくような危険な戦い方はしなくなります。
三河武士の忠義が家康の命を救い、そして家康をより成長させたのでしょう。
徳川家康の家臣たちに対する思い
三河武士が家康のことを大切に思う一方…
家康もまた、そんな家臣たちのことを大切に思っていました。
とっても素敵な逸話があります。
豊臣秀吉が大名達を集めてお宝自慢大会をしていた時のこと…
皆が武具や骨董品などの自慢の一品について語る中、家康は
ワシはそんな自慢できるような高価な物は持ってないです。
でもワシの為なら命を惜しむ事なく、火の中水の中どこにでも飛び込んでくれる家臣が沢山います。
それがワシの一番の宝であります。
と、家臣たちのことを語ったのでした。
家康ほどの大大名、自慢できるお宝のひとつやふたつぐらい絶対にあったと思われます。
いかに家臣達の事を大切に思っていたのかが伝わってきます。
お互いがお互いの事を思いやり、リスペクトしている。
最高の主従関係であります。
戦国三英傑の家臣事情を比べてみる
めちゃくちゃ個人的意見ですが、せっかくなので徳川家康、織田信長、豊臣秀吉のレジェンド大名3人の家臣事情を比べてみました。
織田信長と家臣達について
織田信長は完全なる実力主義で家臣を評価していたので、有能であれば譜代の家臣であろうと無名の他所者であろうと関係なく平等に評価してくれます。
しかし、無能なものにはとことん厳しいので、例えどれだけ自分に対する忠義心があっても失態をおかせば容赦なくお払い箱となります。
役立たずはいらん!
文句も言わさんし黙って俺についてこい!
といった強引なところもあるであろう、ちょっと怖い主君であります。
そんな織田信長は家臣に不満を持たれる事も多く、よく裏切られたりもしていました。
(松永久秀や荒木村重、明智光秀など)
こういったところから織田家は
ちゃんと言う事聞いて働かないと!
信長様は怒ると怖い!
といったピリピリした雰囲気のイメージがあります。
信長と家臣の関係も、信長のお気に入りを除けばビジネスライクな関係であったと思われます。
豊臣秀吉と家臣達について
天下人となった豊臣秀吉には沢山の家臣がいて、忠義を尽くして仕えてくれる家臣も沢山いました。
がしかし、豊臣家の家臣たちは団結力力に欠けるところがあると思われます。
豊臣秀吉の死後なんかは、みるみるうちに崩壊していってる感じです。
秀吉がいなくなってわずか2年後、豊臣家内では家臣らの対立が深まって『関ヶ原の戦い』という大きな戦が起こっております。
それが原因で豊臣家は破滅していき、徳川家の天下になっていくのですが、そうなった時に豊臣家に仕えていた多くの武将が豊臣家から離れていきました。
豊臣秀吉は農民の出であり、己の身一つで成りあがった男…
家族・親戚(豊臣秀次、加藤清正、福島正則など)以外の家臣はよそからやってきた武将であり、その場限りの忠義の武将も多かったのです。
仕方がないとはいえ、織田信長や徳川家康と違って代々仕えてくれている家臣がいないのは仕方がないのは豊臣秀吉にとって痛すぎる欠点でありました。
徳川家みたいな絆が豊臣家にもあれば、関ヶ原の戦いは起きなかったかも…?
徳川家康と家臣達について
徳川家康には父や祖父の代から仕えてくれている家臣がいます。
かつて松平家では祖父が家臣に殺害されたり、身内に裏切られて織田家に家康が売られたりとグダグダな時期もありました。
そんな苦しい時を共に乗り越え、家康について来てくれた家臣達の忠義、結束力は抜群に強いものであります。
家康は家臣の意見をちゃんと聞くし、自分に非があれば反省し改める事もできる。
家臣からすると、接しやすい主君であったと思われます。
上司がちゃんと話を聞いてくれて、自分の言う事する事を理解しようとしてくれるって嬉しいし働きやすいですもんね。
織田家、豊臣家と比べると断トツでワシんとこアットホームじゃない?
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