小田原攻め(小田原征伐)をわかりやすく解説!ゆるりと楽しく

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徳川家康 ラインスタンプ

小田原攻め(小田原征伐)をわかりやすく解説!

織田信長の死後、凄まじい勢いで台頭してきたのが豊臣秀吉!

 

もとは百姓という低い身分だったらしいのに、気づけば全国各地の大名を従え、命令する立場になってるじゃ~ありませんか!


 

およそ100年にわたって関東に君臨してきた北条氏の4代目・氏政はそんな秀吉が気に食わない模様!

 

しかし、反抗すれば秀吉&全国各地の大名が敵になる!

 

それでも氏政は折れない、意地とプライドで立ち向かうのでありますっ!

 

今回はそんな北条氏政と『小田原攻め』の一部始終をご紹介、ゆるりとご覧アレ~。

 

※前半記事:北条氏政の色々大変だった歴史、戦国事情をわかりやすく解説!

氏政が秀吉と戦うまでの歴史が気になる方はこちらも是非。

 

 

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関東の絶対的王者北条氏!氏政・氏直親子は豊臣秀吉に屈しない

 

1582年、織田信長の死をきっかけに勃発した天正壬午の乱では満足いく戦果があげられなかった北条氏政でしたが、

 

なんやかんや1585年には下野、常陸にも勢力を拡大させ、相模・伊豆・武蔵・下総・上総・上野に加えて常陸・下野・駿河の一部を領し、北条氏の全盛期を築いておりました。

 

 

フハーッハッハハ!

信長の脅威に怯える事はもうないし!

改めて我々が関東に君臨したのだ!


 

といった感じだったわけです。

 

しかし、1587年頃には豊臣秀吉が織田信長の築いた勢力を引き継ぐ形で台頭し、信長を上回る脅威となって関東に迫っておりました。

 

秀吉は中国、北陸、東海道、四国、九州…と支配域を広げた後、残る関東・東北の大名達も自身の支配下に置こうと目論むわけですが…

 

 

我らの盟友、伊達政宗も秀吉に屈するつもりはないみたいだし?

もし秀吉と争う事になっても、北条と伊達の二大勢力で立ち向かえば十分対抗できる!

おまけに北条は徳川とも同盟結んでるし?

いざとなればきっとワシらの頼りになってくれる!


 

こういった背景があるからか、氏政は秀吉に対して割と強気な態度を取り続けました。

 

1588年には秀吉から

 

 

聚楽第で天皇を招いての一大イベントがあるから、氏直くんと一緒に参加してね!

(絶対来いよ!そしてワシに臣下の礼をとれよな!)


 

と要請があったのを拒否。

 

…したのですが、徳川家康の説得を受けて仕方なく弟の氏規を代理で出席させております。

 

遠回しに臣従を拒否された秀吉は、さぞかしモヤついたことでしょう。

 

その後も氏政・氏直親子が上洛する事はなく、当然ながら秀吉との関係も良いものではありませんでした。

 

そんな状況の中、北条家家臣・猪俣邦憲が決定的に北条氏の信用を失くしてしまう大事件を起こしてしまいます。

 

何をやらかしたのかというと…

 

1582年から上野の沼田領の所有権を北条氏と真田氏の両者が主張し、長年揉めていたのを1589年になって秀吉が

 

 

沼田城側3分の2が北条、名胡桃城側3分の1が真田のもの!

これで決着ね!


 

と、間に入って解決してくれていたのをどういうわけかその後、猪俣邦憲が名胡桃城を強奪してしまったのであります。

 

なぜそんな事をしたのかハッキリとした理由はわかっていないようですが、これは明らかな違反行為。

 

 

家臣が勝手にやった事とか言い訳にならないよねぇ~。

責任者である氏政親子はすぐに詳しい説明をしにこい!


 

氏政親子は秀吉から上洛するよう求められるのですが…

 

 

やーばいでしょコレ、行ったら絶対なんらかの制裁あるよ。

上洛するにしても、もう少しちゃんと交渉してワシらの安全を確保してからじゃないと…。


 

なにかと理由をつけ、素直に応じませんでした。   

 

その結果、

 

 

ワシの堪忍袋の緒がぷっちーん!

北条を潰す‼︎


 

秀吉は生意気な北条を完膚なきまでに打ちのめすべく、フルパワーで小田原攻めを行うことを決定したのであります。

 

戦国時代の『北条氏』の凄さ、捨てきれないプライドとは?

 

ところで…北条氏政は織田信長には従う意思を見せていたのに、豊臣秀吉とはなぜかそういった関係を築こうとしませんでした。

 

信長以上の権力者であったにもかかわらず、です。

 

氏政が秀吉に従わなかった理由として、よく百姓出身とされる秀吉に頭を下げるのは北条氏のプライドが許さなかったんじゃないか?なんて語られることがありますが、

 

その北条氏のプライドとは一体どんなものであったのか…?

 

 

関東といえば戦国時代より昔、源頼朝が鎌倉に幕府を開いて武家による軍事政権を樹立しておりました。

 

源頼朝は関東の覇者にしてその時代の王者だったわけですが、

 

後にその鎌倉幕府で実権を握り、関東に権威を誇ったのが北条氏でありました。

 

 

北条政子で有名なあの『北条氏』ね。


 

その鎌倉幕府は幕府に不満を持つ勢力により倒れ、北条氏は滅亡してしまうのですが、

 

その後しばらくして戦国時代に突入すると、関東では伊勢盛時という一介の武士が下剋上で伊豆・相模を制圧し、その後継者がさらに勢力を拡大させました。

 

そして

 

伊勢氏

 

我々も大分力がついてきたことだし、関東の覇者に相応しいカリスマ性あふれる名前に変えた方がいいかな?!

そうだ、かつてこの地の覇者であった『北条』を名乗ろう!


 

といった感じでお家をブランディング化。

その後も勢力を伸ばし、一大国家を作り上げたのが戦国時代の北条氏でありました。

※伊勢盛時=北条早雲。

 

こういった背景があるので、

 

 

戦国時代の北条氏は鎌倉時代の名門北条氏の再来!

我々は実力で関東に100年もの間、独立国家を築いてきた早雲以来の名家なのだ!

 

なーーーーんで秀吉とかいうどこの馬の骨かわからんような奴の言う事聞かきゃいけないの?


 

なんて不満に思うのはまぁ仕方ない。のであります。

 

小田原評定!氏政は息子や弟たちと話し合うも意見まとまらず…

 

なんやかんや秀吉に反抗的な態度を取り続けた結果、小田原攻めが決定されてしまったわけですが…

 

実は北条家では、こうなる数年前からせっせと戦準備を整えておりました。

 

 

四国、九州が続いて秀吉の手に落ちたとなると、いずれ関東も標的にされると考えるのは当然!

抵抗もできずに屈するなんて嫌だもんね。


 

1587年頃から鉄砲や大筒の製造を急ピッチで進め、本拠地である小田原城ほか支城の修築にも力を入れていたようで、

 

さらに兵も7万6000?8万2000?と諸説あるようですが相当数確保していたようです。

 

そんなこんなで天正18年(1590年)2月…

 

いよいよ秀吉との決戦を控え、これまでにない強敵相手にどう立ち向かっていくか小田原城で会議が行われるのですが…

 

 

前々から言ってるけど、僕はできるなら戦は回避したい。


 

氏政の弟・氏邦(うじくに)

 

全国各地の大名を味方につけてる秀吉と戦うのは相当厳しいわなぁ…。


 

氏政の弟・氏規(うじのり)

 

家康殿に仲介してもらい、秀吉との和解を試みましょう。


 

 

いやいや、我々の味方には伊達政宗もいるし?

援軍を待ちつつ小田原城にやってきた敵を各個撃破していく、これでいける!


 

氏政の弟・氏照(うじてる)

 

そうだそうだ!十分、秀吉と戦える!


 

ここにきてもまだ降伏か決戦かで意見が割れておりました。

 

そして戦うにしても

 

氏政の弟・氏邦

 

籠城じゃなく、箱根あたりに進出して豊臣軍を迎え撃つべし。


 

といった意見もあったりで、会議を重ねてもいっこうに話がまとまらず時間だけが過ぎていきました。

 

 

この時の我々の会議がグダグダだったせいで、なかなか議論がまとまらない様子を『小田原評定』なんて例えることがあるんだってね~。


 

 

お恥ずかしい限りです。


 

北条氏政

一致団結してなさすぎてヤバめな北条家…

 

豊臣秀吉、小田原攻め開始。早々に落とされる北条の支城…

 

一方、豊臣秀吉は各地の大名を召集し、およそ22万という大軍をもって北条攻めを開始しました。

 

小田原攻め

※豊臣秀吉の主力部隊(豊臣秀次、織田信雄、徳川家康、宇喜多秀家、蒲生氏郷、細川忠興、池田輝政、堀秀政など)が東海道から小田原城を目指す。

※脇坂安治、加藤嘉明、九鬼義隆、長宗我部元親らは水軍を率いて小田原城を目指す。

※前田利家、上杉景勝、真田昌幸らは北陸方面から北条領へと侵入。

 

3月…

駿河の沼津に着陣した豊臣方の武将達は、北条領の最前線となる箱根峠を突破すべく周囲の城攻めに取り掛かりました。

 

29日には羽柴秀次率いる7万の軍勢が、北条家家臣・松田康長ら5000が籠る伊豆の山中城を襲撃。

 

北条軍は10倍以上の兵を相手に防ぐ手立てなく、大勢が討ち死にして山中城はものの半日で落城してしまいました。

 

そしてこれと同時に、山中城から17km離れた場所にある韮山城も豊臣軍の標的となっておりました。

 

韮山城を守るのは北条氏規ら3600の軍勢。

 

韮山城は織田信雄率いる4万4000の軍勢に包囲されるのですが、こちらは大軍相手に善戦しておりました。

 

ここは1代目北条早雲の居城であったということもあり、城を守る兵達の士気は高かった模様。

 

しかし…

 

 

まさかこの兵力差で手こずるとは。

こんなとこで時間無駄にできないし、韮山城は一部の兵に包囲させて私らは進みましょ。


 

氏規らはこれを食い止める事ができず、北条軍の防衛線は早々に崩れてしまったのであります。

 

 

もう箱根を突破されたの…?!

こうなるといよいよ家康さんを頼るのは不可能だし、籠城一択じゃないですかぁ。


 

 

なぁに、小田原城はかつて上杉謙信や武田信玄が落とせなかった堅城よ?

しかもその頃より防御力あがってるし、そう簡単に揺るがないんだから。


 

籠城戦に自信ありげな氏政だが現実は厳しそう…

 

山中城を落とした豊臣軍は4月1日には箱根山に陣を張り、3日には小田原城の包囲を開始しました。

 

そしてその3日後、秀吉が小田原城から6km離れた早雲寺に着陣。

 

秀吉は、

 

 

ワシの本隊が主力となって小田原城を包囲!

同時に前田利家や上杉景勝らを主力とした軍勢が、関東各地に散らばる北条方の城の攻略に取り掛かる!


 

こういった作戦で北条氏を潰しにかかりました。

 

小田原攻め布陣図

※秀吉は対北条戦の為に、短期間で石垣山城を築城した。

 

小田原城には武士のほかに町民、農民、女性含めて5万6000が籠城。

 

外郭土塁には城外と結ぶ9つの口があり、それらに一族、重臣を配置して守らせておりました。

 

これに対して戦国オールスター大集合!といった感じで豪華かつ絶望的な包囲が完成されていたわけですが、

 

小田原城は『廻り5里の大城』と記録があるように、城下町がすっぽり収まる壮大な総構えとなっており、

 

 

ウソぉ…小田原城ってこんな規模でかいの?

びっくり…。


 

と秀吉も攻めあぐねたので、ここでは多少の小競り合いがあった程度で派手な戦闘は行われませんでした。

 

 

もともと東西2.7km、南北2.2kmの巨大な城郭をもっていたところに、さらに10kmに及ぶ土塁と空堀を増強していたのだ。

そら簡単に崩れんよ。

 

秀吉が諦めて撤退するのを待ち、関東の支配が我々の権利であることを認めさせてやるぅ!


 

こんな感じなので包囲が始まった当初、小田原城内では囲碁や将棋、連歌を楽しむ陣所もあれば笛や鼓を鳴らし踊る所陣所もあったり…と割と余裕があったようです。

 

 

まぁ力攻めが難しいのはわかってたし?

兵糧攻めだな、北条が音を上げるのを待とうではないか。


 

一方…

 

小田原城の外では豊臣軍の別動隊による城攻めが行われておりました。

 

各地に存在する北条方の支城は小さいものも含めるとおよそ100ヶ城あり、これらを北条家の家臣や各国人衆が守っていたわけですが、

 

結論から言うと、これがことごとく落城したり、豊臣方に寝返ることになります。

 

小田原攻めの功労者?まさかまさかの大道寺政繁

 

上野方面の攻略を担当する上杉景勝、前田利家、真田昌幸ら3万5000の軍勢が碓氷峠を突破してきたのが3月18日…

 

伊豆の山中城、韮山城が攻撃を受ける10日程前でありました。

 

初めに狙われたのは北条家家臣・大道寺政繁が守る松井田城。

 

こちらは山城で防御力高く、簡単に落ちる事はなかったのですが、

 

大道寺政繁

 

やっぱ兵力差キツいし厳しい!

援軍の望みないし、降参するか…。

包囲されている間に周辺の城も落とされてしまったみたいだし。


 

孤立した大道寺政繁は4月20日に降伏してしまいました。

 

そしてこの後、大道寺政繁は豊臣方に寝返り、自ら案内役を務めて積極的に北条方の城攻めに参加するというまさかの行動をとっております。不忠の極み…!

 

こうした大道寺政繁の働きもあり豊臣軍は上野を制圧、武蔵へと兵を進めました。

 

そして5月初旬には武蔵の河越城、松山城が戦わずして降伏。

 

氏政の弟・氏邦が3000で守る鉢形城は必死で抵抗したものの、降伏勧告を受けて6月14日に開城しております。

 

あちらこちらで続く北条攻め、来ない伊達政宗、詰んだ北条氏

 

豊臣軍の城攻めはまだまだ続きます。

 

前田利家、上杉景勝らの武蔵入りと同じくして、小田原城の包囲にあたっていた武将の一部も相模、武蔵方面を攻略すべく出動…

 

これらの軍勢は4月27日には江戸城を制圧し、

 

秀吉の味方に付いている里見氏、結城氏、佐竹氏らの協力のもとで上総、下総の城を多く攻略して5月中旬にはこの辺り一帯を制圧しました。

 

 

ちなみにここで動いていたのは私のほかに浅野長政、そして本多忠勝や鳥居元忠など徳川家の武将達だぞ。


 

小田原城の包囲からわずか2ヶ月程度で北条領内の多くが落城…

 

 

ちょっと…

さすがに焦るって…。

 

ねぇ伊達は?

伊達政宗は何をしてるの?!


 

氏政が頼りにしていた伊達政宗は…

 

 

よし、そろそろ重い腰を上げて小田原へ行くぜ。

 

 

 

 

 

 

……秀吉に頭を下げにな!


 

5月に入りようやく会津を出立、小田原へと向かいました。

 

伊達政宗はギリギリまでどちらに付くかで迷っていたみたいですが、さすがに状況の不利を悟ったか、豊臣方の誘いに応じて小田原参陣を決意した模様。

 

これにより北条氏は完全に孤立してしまったことになります。

 

 

伊達の戦力ありきでやってきた所もあるのに…。

どうすれば…。


 

この頃になるとさすがに小田原城内の武将達も弱気になり、会議でも降伏する方向で話し合いが行われるようになりました。

 

しかし、そんな中でも

 

氏政の弟・氏照

 

まだやれる!

小田原城から八王子城へ移り、徹底的に戦おう!


 

と主張する強者も健在。

 

しかし結局、この作戦は実行されず…。

 

6月23日…

八王子城はおよそ3000の兵で守らせていたところを上杉景勝ら率いる軍勢に攻められ、ほとんどが討ち死にするという激戦の末に落城してしまいました。

 

そして6月24日…

小田原征伐開始直後からおよそ3ヶ月の間、包囲され続けていた韮山城が降伏勧告を受けて開城。

 

 

北条の原点であり、心の支えであった韮山城がついに陥落してしまった…。

 

今の時点で生き残ってる北条の城は…忍城?

武蔵の忍城だけ…?凄いガッツだ…

例えワシらがくたばっても忍城だけは生き残ってくれる、そんな気がする…!

頑張れ忍城…伝説となれ忍城…!


 

こんな感じで絶望的に追い込まれているのに加え、小田原城内でも武将達による離反の動きがあったので…

 

 

ま、まだだ…まだやれる…

ッウッ ૮(꒦ິཅ꒦ິ)ა ウグッ…


 

 

(もう無理だよ…。

ここまできたらもう、当主としてきちんとケジメをつけるほかない…!)


 

北条氏(氏直)はついに、秀吉に降伏することを決めたのであります。

 

北条氏、ついに降伏。北条氏政の最期とは?

 

7月5日…

 

 

当主である私は腹を切ります。

ですのでどうか、城兵の命は助けていただきたく…。


 

北条氏直は豊臣軍の陣所を訪れ、降伏を申し入れました。

 

これを聞いて秀吉は

 

 

氏直の切腹は必要ナシ。

城兵の命も助けよう。


 

という優しいジャッジを下しました。

 

しかし、

 

主導者であり主戦派であった北条氏政は許されず、切腹の命が下されました。

 

 

無念、秀吉を甘く見すぎていた。

まさか籠城から3ヶ月でこんな最期を迎える事になろうとは…。


 

そして7月11日…

 

北条氏政は氏邦の介錯を受けて切腹、53歳の生涯を終えたのであります。

 

ちなみに、氏政同様に主戦派だった氏照も同日に切腹させられております。

 

一方、氏直同様に和平推進派で秀吉との関係改善に努めていた氏規、最後まで忠義を尽くして韮山城を守っていた氏邦は助命されております。

 

 

あ、あと豊臣に寝返って城攻めしてた大道寺政繁いたでしょ?

不忠の極みを秀吉に嫌われたか、こやつも切腹させられてるからね。


 

 

僕は助命されたとはいえ、高野山に追放されたよ。

関東に一大勢力を築いた北条氏は滅亡してしまったんだ。


 

この後、新たに関東に入ったのは徳川家康でした。

 

関東は戦の後で治安が悪かったのに加え、北条氏が税率を低く設定していた為…

 

 

税率上げたら民衆の不満爆発するだろうし、このままでいくしかないか~。

収入少ないの辛いなぁ。


 

家康は当初苦労したんだとか。

 

 

北条は民ファーストで政を行っていましたから!

ずーっと北条に国を任せてくれていれば、関東どころか今の日本はもっと良くなってたんじゃないかねぇ?!


 

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