徳川軍が惨敗した上田合戦!昌幸の巧みな戦術が冴え渡る!
武田家滅亡後、何度も主君を変えて大名として独立を果たした真田昌幸!
独立を果たした後もホイホイと主君を変えて豊富秀吉の直臣になるなど、かなりのちゃっかり者。
そしてその策士っぷりや処世術も素晴らしいものだけど、真田昌幸は戦においても頭キレまくりのやり手だった!
今回はやっぱり真田昌幸ってゴイス~!ってなる第一次上田合戦なんかをゆるりとご紹介!
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真田vs徳川!第一次上田合戦勃発の経緯
織田や上杉、北条と主君を変えて最終的に徳川家康の傘下に入る事になった真田昌幸ですが、この後、
北条が和睦の条件に『沼田くれ』って言ってるの。君んとこの沼田、譲ってやってくれないかね?
嫌です。
代わりにそれ相応の土地が貰えるなら考えますが。
うーん…。
こんな事があった為、真田と徳川の関係は険悪になっていきました。
沼田(上野国)は武田家家臣時代から任されていた思い入れのある土地、くれと言われて簡単にあげれるような土地ではないのであります。
その後も家康から沼田を北条に譲るように説得されたのですが、昌幸の望む条件での取り引きが実現しませんでした。
もう家康とは無理!!
徳川家康と決裂する事を決めた真田昌幸は、次に越後の上杉景勝に臣従する事を決めました。
いつぞやは大変失礼いたしました。何卒よろしくお願いします。
よいよい。上杉家は義を重んずる家風だからね。
本能寺の変の後、上杉景勝に臣従するもすぐに北条氏直に鞍替えしたという過去がありますが、この頃の真田は一部といえども信濃・上野で力を持つ大名だったのでこれは上杉家的にもありがたい話でした。
そしてもちろん、これを聞いて徳川家康は激怒します。
許さん。
1585年、怒れる徳川家康は7000の兵を信濃・上田城に送り込みました。
来るなら来いっ!!
こうして勃発したのが第一次上田合戦なのであります!
ちなみにこの頃、幸村は上杉景勝の元へ人質に送られてるよ~!
第一次上田合戦
信濃の上田城は1583年から真田昌幸が築城を始めた城であり、この頃には完成間近という具合でした。
その為、工事が未完成で城の守備が薄い箇所があったりと、敵の侵入を許しやすくなっている状態でした。
その上、真田が集められた兵は2000ほどと大分敵に劣ります。
(この中に上杉のヘルプもいる)
敵は上田城を簡単に落とせると思うかもね。油断させて一気に叩き潰してやる!
真田昌幸は一見不利と思えるこの状況を逆手に取り、巧みな戦術で見事に敵を嵌め大勝利を得るのであります…!
ザックリと第一次上田合戦の戦術を解説
①本来なら上田城の防衛拠点にするであろう、千曲川と染谷台に挟まれた道をあえてガラ空きにした。
徳川軍は一気にここを通り抜けて上田城に到着する。
②城下から二ノ丸にかけての地点で第一部隊が激しく敵と戦う。
敵から見たら多勢に無勢で無駄な抵抗だけどそれでOK。ここでの抵抗は敵に背後や側面を気にさせない事が目的。
③敵が本丸正面まで到達したところで、戸石城方面に潜んでいた真田信之が部隊を率いて徳川軍の背後を襲う。
そして本丸からも別隊が出動して徳川軍を襲う。
④徳川軍は思ってもいない奇襲にビックリ!大混乱となり敗走した。
致命的な打撃が与えられるまでわざと敵の侵入を許し、そこを一気に攻めたというわけだ。
この上田城の戦いで徳川軍は1000人以上の被害が出たと言われております。
それに対し真田軍の被害は2、30人であったそうな。
7000VS2000で勝利し、被害も圧倒的に少ないという…。知将、策略家として名を馳せるのも納得の戦上手!
戦は頭(ココ)だぜ。頭(ココ)。
ちなみに家康は参戦せず。この上田城攻めは鳥居元忠に任せていたぞ。
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後日談…真田昌幸はやはり油断ならん男だった?
徳川と戦をするにあたり、昌幸は少なからず上杉景勝から助けを得ていたのですが、この後上杉景勝の上洛中に幸村を上田に呼び出してそのまま豊臣秀吉のもとに人質に送り、豊臣家の家臣になるという不義理な行動にでております。
もはや天下人状態の秀吉の家臣になった事で真田の格も上がるというものよ。
幸村を気に入って家臣のように扱っていた上杉景勝はもちろん激怒。そして
今回の一件は全く私のあずかり知らぬこと。幸村を返してほしい。
と秀吉に願い出たそうですが聞き入れてもらえず、相手は天下人同然の秀吉なのでそれ以上は何も言えなかったそうです。
二度も裏切られた(´;ω;`)
※真田昌幸が勝手に秀吉の元へ行ったとされているけど、秀吉自身が信濃・上野で権力を持つ真田を欲しがったとも言われているらしい。
おまけ・こんなはずじゃなかったかもしれない豊臣家時代
めでたく豊臣家の家臣となった真田昌幸ですが、この後秀吉から
これからは徳川家康の与力として働いてね。
と命じられてしまいました。
沼田城問題で徳川家康のもとを去っていったうえ、上田城の戦いでは完膚なきまでに徳川軍を叩き潰した真田昌幸…。
徳川家康の配下になるのちょっと気まづいような気もいたします。
そのうえ、
北条と徳川と真田で揉めてた沼田領問題も決着つけとこう!
沼田城側3分の2は北条、名胡桃城側3分の1は真田のもん。文句は言わさん。
はい・・・(´・ω・`)
守りきった沼田城を北条に渡す事になってしまったという…。
ドンマイ(笑)
なんて思ってたかはわかりませんが、家康的にはかなりメシウマな展開。笑
ちなみに北条は、この秀吉の決めた領土分担が気に食わなかったみたいで名胡桃城を強奪してしまいました。
これに怒った秀吉は全国の大名を動員して北条小田原攻めを決行し、北条氏を滅亡させてしまいます。
そして巡り巡って沼田城は再び真田のものになったのである。めでたし。
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