本能寺の変後、織田家や信長の息子達はどうなった?
本能寺の変の後の織田家の人達の事って、一般的にはあまり知られていないわよね。
ここでは信長亡き後、織田家はどうなっていったのか?信長の息子達は何をしていたのか?といったことを解説しているわよ!
清洲会議!織田家の跡継ぎはどうなった?
織田信長は自分の跡を長男の織田信忠に継がせていました。
しかし、その信忠も本能寺の変の煽りを受け自害した為に織田家には跡継ぎがいなくなってしまいました。
信長亡き後の織田家には、信長のように自らが先頭に立って周りを引っ張っていけるような者がおらず、跡継ぎは信長の家臣達(羽柴秀吉、柴田勝家、池田恒興、丹羽長秀の4人)による会議で決められることとなりました。
これは『清洲会議』と呼ばれ、映画にもなっていますね。(三谷幸喜監督のこの映画、めちゃ面白いですよー!)
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秀吉が支持したのは信長の孫の三法師。
三法師は当時3歳、まだ子供で当主なんか務まるわけがありませんが、
織田家当主であった信忠様の息子の三法師様を当主にするのが当たり前の流れでしょ!
大人になるまでワシらが支えていけばいいじゃない!
という理由で秀吉は三法師を跡継ぎに推しまた。
実のところ、秀吉はまだ子供の三法師に変わって織田家の政権を自分が仕切ってやる!といった魂胆がありました。
一方で柴田勝家は三男の信孝を跡継ぎに推しました。
もちろん、秀吉の魂胆もお見通しだしそれを良しとしません。
跡継ぎ問題でモメモメしていた織田家家臣たちでしたが、最終的には丹羽長秀も池田恒興も秀吉の肩を持ち、柴田勝家も両者に説得されて三法師が織田家の当主となる事で決着がつきました。
次男の信雄はあまり有能でなかったと言われているんだな。跡継ぎには推されなかったみたいね。
ちなみに信雄は『のぶお』とも『のぶかつ』とも読まれるぞ。
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清洲会議の後の織田家はどうなった?
清洲会議で織田家の跡継ぎが三法師に決まりました。そして次男信雄と三男信孝が三法師の後見人となっています。
その後の次男信雄と三男信孝の動きを見てみましょう!
三男・織田信孝はその後どうなった?
柴田勝家が跡継ぎに推してくれたものの、秀吉の三法師推しによって跡継ぎになれなかった信孝・・・。信孝は依然として柴田勝家派でした。
そして勝家と秀吉の仲は依然として険悪で、この織田家家臣内での権力争いはついに戦に発展しました。
賤ヶ岳の戦いと呼ばれるこの戦は、柴田勝家・織田信孝VS羽柴秀吉・織田信雄であり、織田の兄弟同士の争いともなっていました。(ちなみに信孝と信雄は腹違いの兄弟)
そして賤ヶ岳の戦いで勝利したのは秀吉です。柴田勝家、織田信孝は自害に追い込まれ、無念の最後を遂げたのであります・・・。
この戦により、織田家では秀吉に敵対する者がいなくなり、ますます秀吉は権力を持つこととなりました。
次男・織田信雄はその後どうしていた?
信長亡き後の領地分配により、信雄は尾張、伊賀、伊勢に約100万石を領していました。なんだかんだで信雄は大大名だったんですね。
そして賤ヶ岳の戦いで一緒に後見人を務めていた信孝が亡くなったことで、信雄が実質織田家の当主のようなポジションにつけたわけであります。
とはいっても、もはや織田家の当主はいていないようなもの・・・実質、秀吉が政権を取り仕切っているので信雄的には心中穏やかではありません。
信雄は、だんだんと秀吉に対する不満や不安が大きくなってゆき、
このままでは織田家は秀吉に乗っ取られてしまう!家康さん助けて!
と、織田の同盟相手の徳川家康を頼りました。これは家康からすればラッキーな出来事で、
信長殿の息子からのお願いとあらば助けないわけにはいかない!
織田の盟友、徳川家康が織田家を乗っ取ろうとする悪者秀吉を討ちましょう!
といった、秀吉と戦をする大義名分ができたのです。
※理由もなく秀吉に戦を仕掛けると家康は同盟相手を裏切って攻撃してきた悪者になってしまう。
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こうして秀吉と信雄が対立して起こったのが小牧長久手の戦いです。
そしてこの小牧長久手の戦いは、戦自体は家康側が優勢だったのですが、先の事を色々と不安に思った信雄が家康に黙って勝手に秀吉と仲直りした事で終結しました。
それ以降信雄は、一介の大名として長く秀吉に仕えています。
幼い三法師も後に秀信と名を改め、秀吉の家臣として美濃に約30万石を領する大名になりました。
ちなみに家康はこの信雄の勝手な行動により、秀吉を倒すチャンスを潰されました。そして秀吉に臣従することとなってしまったのでさぞかし信雄のことを恨んだ事でしょう・・・。
信長亡き後の織田家のまとめ
信長亡き後、織田家の人達はなんだかんだで秀吉のもとでそこそこの領地を与えられ大名として戦国の世を生きてきました。
が、なんだかパッとしないなぁ・・・というのが正直な感想であります。笑
やはり信長のいた頃の織田家と比べると、落ちぶれてしまったなぁ・・・と思ってしまいますよね。(いち大名としては十分なんですけどね。)
下剋上の世なので仕方がない事ですね。それだけ秀吉がやり手だったという事・・・!
ちなみに信長には他にも下に息子がいるのですが、彼らにはあまり目をかけていなかったようで、ほとんど歴史の表舞台に名前がでてきません。
調べたところ、信雄同様に秀吉に長く仕えていたようです。
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