伊達政宗の歴史をゆるりとわかりやすくご紹介
1567年…
政宗の生まれた頃の伊達家は、政宗の祖父・晴宗と父・輝宗が対立していて散々な状態でした。
奥州において一大勢力を誇っていた伊達家ですが、伊達家内で争っている間に近隣の大名に領地を奪われるなど、伊達家の勢いは衰えつつあったのです。
が、そんな伊達家を救ったのが伊達政宗!
政宗は家督を継いでからわずか6年もの間で、伊達家の勢力を回復させるどころか、奥州の覇者と呼ばれるほどビッグな存在となっていくのです!
ちょっぴり長くなっちゃうけど、今回は伊達政宗の生涯の歩みをゆるりとご紹介しているよ~!
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奥州とは?どこ?陸奥とは?
奥州の覇者、伊達政宗!
…とはよく聞くけど、そもそも奥州ってどこ??と言った疑問があるかもしれません。
奥州(おうしゅう)とは陸奥国(むつのくに)の別称であります!↓
見ていただいたらわかるように、奥州こと陸奥国はすごく広いのです!
現在の青森県、岩手県、宮城県、福島県、秋田県(一部)を領しています。
伊達政宗は1589年の時点で、この奥州のほぼ半分(と出羽の一部)を手中に収め、南奥州のほぼ全ての大名を屈服させております。
しかもこの時まだ24歳よ?
若くしてこの実績、おまけに政宗は『伊達男』なんて言われるぐらいお洒落で有名だしカースト上位のイケてる大名って感じ?
伊達政宗が台頭するまでの伊達家を簡単にご紹介
伊達政宗が生まれる100年以上前、奥州は大崎氏が奥州探題(守護職の代わりに置かれた役職)を務めていたのですが、
政宗の曽祖父・伊達稙宗が陸奥国守護(将軍の認めた陸奥トップの地位)となり、それ以降、伊達家は陸奥で存在感を増していくこととなりました。
しかしその後、政宗の曽祖父・稙宗と祖父・晴宗が政の方針の事などで揉めて対立し、内紛を起こした結果伊達家は疲弊し、伊達家に従っていた周辺の武将達が独立したりと一時グダついてしまいます。
ちなみにこの時の東北地方は諸勢力がそれぞれ婚姻関係を結んだりして、関係性が複雑だったんだ。
だから敵対しても、激しい戦にならなかったりしたんだよ。
一時グダついたものの、伊達氏は他勢力と婚姻関係を結ぶなどして勢力の維持に務めました。
そして伊達政宗の父・輝宗の代になると、近隣の最上氏や相馬氏らと争いを繰り広げることとなります。
そんなこんなで1567年…
出羽米沢城にて伊達政宗が誕生しました。
幼名は梵天丸!
ぼ・ん・て・ん・ま・る♡
政宗は幼少期に天然痘という病を患い、右目を失明するという辛い経験を乗り越え無事に成長…
1581年に相馬氏との戦で初陣を飾り、1584年に伊達家の家督を相続すると、その後は凄まじい勢いで奥州の諸将をねじ伏せ、大名としての地位を確立していきます。
奥州を震え上がらせた小手森城の撫で斬り
奥州統一を目指しギラギラしていた政宗は、積極的に領土拡大の為に軍事行動にでます。
そして政宗の奥州統一への第一歩目とも言える戦が、小手森城での戦でありました。
当時、奥州周辺は米沢の伊達氏、会津の蘆名氏、常陸の佐竹氏が力を持っており、その周辺の小中勢力はいずれに属して安泰を図る…といった感じでありました。
伊達政宗は…
伊達に従うとか言っといて裏切ったり、裏で蘆名らと通じてる奴とかいるんだよね~。
絶対に許さん!
ということで、1585年に伊達氏を離反した大内定綱を倒すべく挙兵。
大内氏の支城である小手森城を攻めました。
そしてこの戦で、兵士だけでなく老若男女問わず敵側の人間を完膚なきまでに殲滅するという凄まじい戦いっぷりを見せました。
大内定綱は居城を放棄して逃亡、政宗の勝利で終わったぞ。
政宗を敵にまわすとこうなるぞ~っていうのを世に知らしめてやったよね。
この当時、奥州では各地で戦はあったけど、ここまで苛烈なやり方をする武将がいなかった為、
奥州にヤベェ奴が現れた!
と、近隣の大名達は震え上がり、伊達政宗は奥州で恐れられる存在となったのでした。
まさかの二本松!伊達政宗と父・輝宗の悲しいエピソード
小手森城の戦いの後も伊達政宗は
伊達家に刃向かう者は容赦しない!
のスタンスで突き進んでいきます。
1585年…
二本松城主の畠山義継は、
畠山義継
この前やられた大内定綱と懇意なのもあって政宗に睨まれちゃってる!
腑に落ちないけど、政宗に勝てないし降伏することにしよう…。
とのことで、臣従の意を示すために伊達の館を訪問しました。
しかしその時、伊達政宗は不在。
代わりに政宗の父・輝宗が畠山義継を迎え入れました。
そしてそこで思わぬ事態が起こってしまいます。
畠山義継は政宗がいない事をチャンスと見て輝宗に短刀を突きつけそのまま拉致してしまったのであります。
この急報を受けて政宗はすぐに畠山義継を追い、二本松城に入る寸前の所で追いつくことができました。
しかし、
城に逃げ込まれては終わりだ、早く父を奪還しなくては!
とはいってもこの状況、どうすれば?!
政宗は父を人質に捕られて戸惑うばかり。
そんな政宗を見て輝宗は…
ワシに構うな!
畠山を撃て!
と叫びました。
政宗は父の言葉を受けて泣く泣く銃撃、父もろとも畠山義継を亡き者としたのであります。
父は畠山義継と顔見知りだったんだ。
まさかこんなことになるなんて思ってなかったんだよね…。
伊達家の未来の為、政宗は悲しい決断を下すことになってしまったのでした。
…と思いきや、この二本松での事件は輝宗は畠山義継と刺し違えて亡くなったとか、父親を葬る為に政宗が仕組んだことであったとか色々噂があるみたいです。
人取り橋の戦い!伊達政宗VS反伊達連合軍
父の死後すぐ、伊達政宗は復讐を果たすために畠山義継の跡継ぎが守る二本松城に攻め込みました。
…が、その畠山氏は蘆名氏、佐竹氏に援軍を要請し、政宗はこの城を落とすことができませんでした。
うむむむ。
今の政宗では蘆名・佐竹の二大勢力を相手にするのはキツイ…。
蘆名氏、佐竹氏、畠山氏らは…
畠山義継の子・国王丸
最近の伊達政宗は調子乗りすぎですよね!
何とかしないといけないと思います!
蘆名
確かに野心強いし、勢いを増してきてる。
早いとここの危険な若造をやっつけてしまおう!
佐竹
我々が政宗の魔の手から畠山家を守ってあげるよ。
一緒に政宗を倒そう!
ということで、ここに集ったメンバーを中心に反伊達連合軍を結成しました。
そして起こったのが『人取橋の戦い』であります。
連合軍は全部でおよそ3万もの大軍、一方の伊達政宗は1万にも満たない軍勢で窮地に立たされますが、
何があっても退くもんかー!!
伊達政宗は絶対に負けないっ!!
と、強大な敵にもひるまずに伊達軍は最後まで戦場で踏ん張りました。
そんな伊達政宗に、家臣たちも士気を失う事なく奮戦します。
劣勢ながら、士気は高い!
踏ん張り続ける伊達軍…!
とはいってもすんごいヤバイ。
いつまでもつか…。
伊達政宗が人生最大の山場を迎えていたその時…
まさかの敵が戦場から撤退するという事態が起こり、伊達政宗は幸運にも窮地を切り抜ける事ができたのでした。
佐竹の領地に安房方面の敵が攻め込んできたらしく、それで急いで帰ったらしいよ。
他のヤツらもそれに合わせて撤退したんだって。
この戦は伊達政宗の粘り勝ちといった結果で終わったといっても良いでしょう。多分。
その後、
今回の戦での伊達軍、ハンパねぇガッツだぜ!
これからは政宗様の時代になるんじゃないの~?!
と、反伊達連合軍の武将達の一部が伊達政宗の味方につきました。
政宗のカリスマ性を見せつける一戦となったね。
この人取橋の戦い以降、味方も増えて政宗はメキメキと頭角を現していくよー!
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伊達政宗と最上義光で敵対するも母親の義姫にタジタジ
人取り橋の戦いの後も、伊達政宗は容赦なく近隣の大名達に戦いを挑んでいきます。
勢いづく政宗が次に狙いを定めたのは奥州の国人・大崎義隆…。
ことの経緯は伊達氏に属していた大崎氏が独立を図ったことであり、
その大崎家内で内紛があり、大崎家家臣・氏家吉継が政宗に援軍を頼み、それに政宗が応じた事でありました。
この争いを政宗が主導し、当主の大崎義隆倒せば大崎氏は政宗の思うままになるじゃんね♡
そら協力するよね~!
これを聞いて怒ったのが最上義光(もがみよしあき)、政宗の母の兄(つまり叔父)でありました。
大崎義隆とワシは親戚、見過ごすわけにはいかないよね。
甥っ子とはいえ、敵となるなら戦うのみ!
隣国同士である両者は兵を率いて国境で対峙、しばらくの間小競り合いを続けておりました。
が、そんな状況であるところに伊達政宗の母・義姫が待ったをかけました。
自分の息子と自分の兄が争うなんて勘弁!
馬鹿やってんじゃないわよ!
と思っていたであろう義姫は、この両軍が対峙している間に輿で割って入り…
戦するんなら私を斬ってからにしてちょうだい!
てな感じでそこに居座りました。
これには両者困惑。
たとえ政宗が反抗期で
うるせぇババア!
すっこんでろ!
と言えたところでさすがに母親を斬るなんてできないし、最上義光は
妹ながら強ぇ~。
いやまぁ、協力してくれるのはありがたい事よねぇ。
てな感じなので義姫を無下にする事はしないのであります。
一歩もひかない義姫、義姫が帰るのを待つ伊達軍と最上軍…。
しかし、一向に帰らない義姫。
気づけばそこに小屋を建てて3ヶ月近くも居座っていたという…。
撤退するまで帰らないからね。
負けたよ母さん…。
撤退させます。
根負けした両者は兵を退き、この戦は引き分けという形で終結したのであります。
その後、伊達政宗と最上義光が争う事はありませんでした。
摺上原の戦い!伊達政宗最大の敵、蘆名氏との対決!
引き続き伊達政宗にとって大きな敵となるのが会津の蘆名氏、常陸の佐竹氏…
この蘆名氏は1584年から当主となった人物が2人立て続けに亡くなっており、跡継ぎに相応しい人物が蘆名家にいなかった為に伊達家か佐竹家、どちらからか跡継ぎを迎えようという話になるのですが、
蘆名家家臣たちによる協議の結果、佐竹義重の次男・義広が蘆名家当主になったという経緯がありました。
※義広の妻が蘆名家の人間で、母が伊達家の人間。そして蘆名家前当主・亀王丸の母が伊達家の人間。絶妙に血縁関係がある中で敵対したり跡継ぎにしたりととややこしい…。
政宗の弟・小次郎が蘆名家当主候補にあがってたのにムカつく!
これで決定的に蘆名、佐竹と敵対することになったよねぇ…。
でも負けてられないんだわ。
改めて二大勢力と敵対してしまった伊達政宗でしたが、政宗は蘆名氏と戦をするにあたって蘆名家家臣を調略して伊達家に寝返らせることに成功したり、
佐竹家で家臣の謀反があって、佐竹から蘆名に援軍を送るのが厳しいという状況になるなどの幸運に恵まれ、
1589年に『摺上原の戦い』と言われる戦で蘆名氏を破り、勝利することができました。
蘆名義広は常陸の佐竹氏のもとへ逃亡することとなり、大名としての蘆名氏は滅亡したのであります。
ちなみにこの戦は伊達軍2万3千に対し、蘆名軍は1万6千だったぞ。
奥州の一大勢力であった蘆名氏に勝利、とにかく嬉しかった政宗は…
七草を
一葉によせて
つむ根芹(ねぜり)
という句を残しております。
つまり、
あ~嬉しい!
蘆名氏は滅んだし周辺の小・中勢力の大名達も政宗に服従したよね!
仙道地域の七郡が政宗のものとなったのだ!
というお気持ちを表明した一句であります。
この戦で勝利した事により、伊達政宗は奥州のほぼ半分を手中に収め南奥州ではほぼ敵無し状態となりました。
これが政宗の最盛期、その石高は114万石ほどあったといわれております。
家督をついでここまでくるのに約6年!
政宗は弱冠24歳にして奥州の覇者(半分だけど)となったのだ!
ちなみに政宗はこの後、出身地である出羽国の米沢城から会津の黒川城にお引越ししています。
北条小田原攻め開始!伊達政宗は豊臣秀吉に従いたくない
政宗が奥州半分の覇者となったのが1589年…
その頃、中央では豊臣秀吉が中国、東海、北陸、四国、九州…と日本の大部分を支配下に置き、
天下統一まであと一歩♪
というところまできていました。
誰が見ても豊臣秀吉の一人勝ち状態ですが、伊達政宗は
まだ常陸の佐竹氏がいるし、ガンガン攻めてくよ~!
秀吉が自分に従えとか、勝手に戦をするのは禁止するとか言ってるらしいけど知らんぴ♡
てな感じで、秀吉による圧力をものともしておりませんでした。
この時、秀吉に服従を誓っていなかったのは政宗含む奥州の諸大名(大崎氏、葛西氏、白川氏等)と関東の北条氏でした。
奥州の諸将に北条氏は、昔からこの地を守ってきた誇りやお家柄もあるし?
農民上がりの秀吉に好き勝手されるのは、そりゃ気に食わないよねぇ。
伊達政宗は、関東の北条氏と組んでいずれ迫りくるであろう豊臣秀吉を打ち負かしてやるつもりでした。
豊臣秀吉が北条攻めを決めた時、伊達政宗の元にも
豊臣に味方して北条攻めに参加せよ。
とお誘いが来てたのですが、伊達政宗はこれを無視しております。
奥州の覇者・伊達と関東の覇者・北条!
この2つの大勢力が力を合わせれば大丈夫でしょ!
しかし、秀吉は全国の諸大名を呼び寄せ総勢22万というフルパワーで北条攻めを開始…。
ヤバ。想像以上だった。
秀吉の本気と現実を目の当たりにし、マジでヤバイと思った政宗は北条氏を見捨てて速攻で秀吉に降ることにしました。
そしてギリギリではありましたが、政宗は秀吉に服従を誓い許されたのであります。
しかし、タイミングが遅すぎたのと反抗的な態度の罰として会津を没収されてしまいました。 ※『奥州仕置き』
そして会津は蒲生氏郷に与えられたんだ…
政宗は再び米沢の地へ戻ったよ…。
とはいっても伊達氏の本領72万石は安堵となっていたので、大名としてはまだまだビッグな存在でありました。
情けないけど面白い逸話!伊達政宗のヘタウチエピソード
1590年に小田原攻めで北条氏を完全に滅ぼした豊臣秀吉は天下人となり、ひとまず日本は平和な時代となりました。
さすがの伊達政宗も大人しく平和な日々を過ごしている…
と思っていたらある時、豊臣秀吉に呼び出しをくらってしまいました。
なぜか?
なぜなら奥州で秀吉に反抗して暴れる一揆衆がいたのですが、
実は政宗が影でその一揆衆を動かしていたのでは?
と疑われてしまったからなのでした。
これには政宗も焦ります。
なぜなら政宗が一揆衆を煽っていたというのは事実であり、秀吉からどんな処分を受けるかわからないからであります。
どうしよう!バレてもうて!
政宗処罰されちゃう?!
助けて小十郎~!
落ち着いて、誠心誠意謝れば大丈夫!
伊達政宗という男の凄味と覚悟を見せつけてやりましょうや!
伊達政宗よ、なぜ葛西・大崎の一揆を起こした?
奥州で起こったこの一揆、暴れていたのは豊臣秀吉の奥州仕置により改易された葛西氏・大崎氏らの旧臣らでありました。
彼らは秀吉を憎み、新しく自分らの領地に入ってきた木村氏も憎んでおりました。
政宗はそんな彼らを焚き付け、裏のボスとなって一揆を起こさせたと言われております。
木村が討ち死に、もしくは失脚すれば葛西・大崎の領地が政宗の元へ戻ってくるかも♡
もちろん、政宗は秀吉に臣従を誓ってるのでそんな事をしたのがバレると普通にヤバイです。
が、バレちゃったのです。
政宗が一揆衆らに送った書状が秀吉側の手に渡ってしまったのであります。
天下統一を果たした超絶権力者・豊臣秀吉を裏切り悪事を働いたわけですから、政宗も焦りに焦った事でしょう。
こいつ頭イカレてんな。
…なんて事をやっちゃうのが我が殿、伊達政宗なのですよ。
そしてそんなクレイジーなところが殿の魅力なんだよなぁ。
この伊達家の最大のピンチを政宗は…
こんな格好で秀吉に会いに行き、
政宗は一揆の黒幕なんかじゃありません!
その書状が偽物っていう証拠もあります!
それでも許さんというなら政宗の事、好きに罰してくれていいですけど?!
見ての通り死に装束着てきましたし?!
覚悟はできてますっ!
でも本当にやってないです!
証拠あるしこんなに誠心誠意こめて謝罪してるんだから許してくれてもいいんじゃないかなぁ?!
ってな感じで出来る限りの謝罪と弁明をし、秀吉から許しを得たのでありました。
嘘くせぇ~って思うけど、なんか怒ったら負けな感じだし面白いから許しちゃうよね。
そしてその後…
まぁ政宗が首謀者じゃないのはわかったとして…
一揆の鎮圧手伝ってくれる?
一揆が収束したら終わったらそのまま葛西、大崎に引っ越してくれていいよ。コレ、命令ね。
えっ。
政宗は自分で蒔いた種を刈るはめになったのでした。
愛着のある地元から一揆で荒れた地への強制引っ越し、自業自得とはこのこと…。
その後、しばらくは豊臣政権のいち大名として大人しく秀吉に従うこととなります。
この後にあった一度目の朝鮮出兵『文禄の役』では、主力として出陣した武将達の援軍といった形で朝鮮入りしているよー!
二度目の朝鮮出兵は不参加だけど。
関ヶ原の戦いの時、伊達政宗は何してた??
1598年、豊臣秀吉が死去。
その後は豊臣家家臣の間で仲間割れが起き、
秀吉様がいなくなってから徳川家康は好き勝手しすぎ!
豊臣の天下を守る為に家康を倒す!
そんなつもりないって言ってるのに。
でもまぁ来るなら来いや。オラッ!!
てな感じで石田三成率いる西軍VS徳川家康率いる東軍で戦が起こることとなります。
1600年に美濃で起こったこの『関ヶ原の戦い』…
この時、伊達政宗はどうしてたかというと、関ヶ原の戦い自体には参加していないのですが最上義光と共に西軍に属している上杉景勝の家臣・直江兼続の軍勢と戦っておりました。
会津の上杉軍が妥当家康を掲げて上方へ向かったらヤバイから、政宗らはその抑えとなるよう働いていたのだよ。
徳川家康は戦が始まる前、
味方に付いてくれたらもともと政宗くんの領地だった会津らへん、上杉から取り上げて伊達家の領地って正式に認めてあげるよ!
と約束してくれました。
※蒲生氏郷の死後、上杉景勝が会津に入領。
これが実現すると総石高は100万石を越え、政宗は再び奥州随一大大名へと返り咲ける事になります。
この約束の書状は『百万石のお墨付き』と言われ、伊達政宗の嬉しいお話として世に語りつがれています。
さておき、関ヶ原の戦いは徳川家康率いる東軍の勝利で幕を閉じました。
伊達政宗は約束通り上杉氏の領地をものにし、100万石を超えるの大大名に返り咲く!
…はずだったのですが、残念ながらこの『百万石のお墨付き』の約束は果たされませんでした。
なぜなら政宗は混乱に乗じ同じ東軍に属していた南部氏の領土で一揆を起こさせ、あわよくばでその領地を狙っていたことが家康にバレてしまったからであります。
※ちなみに一揆を起こさせたのは奥州仕置きで改易となった稗貫氏、和賀氏といった面々だった。葛西・大崎一揆と同じパターン。
伊達政宗は大坂の陣で真田幸村と戦っていた
関ヶ原の戦いが終わった後、しばし平和な時が続くのですが…
豊臣家と徳川家の関係が悪化し、『大坂の陣』と呼ばれる戦が起こりました。
この戦は1614年に冬の陣、1615年に夏の陣と二度起こっており、徳川軍の勝利で終わっております。
政宗は冬の陣・夏の陣とどちらの戦にも参加してるぞ。
大坂夏の陣と言えば豊臣軍の真田幸村が少数で徳川の大軍に突撃し、家康に死を覚悟させるほどの凄まじい戦いっぷりを見せたことが有名なのですが、
伊達政宗には夏の陣の『道明寺の戦い』で真田幸村の軍勢とぶつかり、伊達軍より俄然兵数の少ない真田軍の猛攻を受け800m後退させられたという思い出があったりします。
さ、真田幸村は『日本一の兵』なんていわれるぐらいの男だし…。
政宗が弱かったわけじゃないし…。
伊達政宗の晩年、最後は?辞世の句がお洒落!
大坂の陣をもって戦国時代は終わったものとされ、それ以降日本は平和な時代が続くことになります。
ピンチに見舞われる事も沢山あったけど、無事に乱世を生き抜いた伊達政宗の最後とは一体どういうものだったのでしょう??
晩年、政宗は趣味のお料理や能を楽しんだり、徳川家とも良き交流を持ったり…と穏やかに過ごしていたそうです。
とくに、徳川三代将軍の家光(家康の孫)にはとても気に入られたみたいで、『伊達の親父殿』と懐かれていたんだとか。
そんな政宗の最期は病死であり、1636年に享年70歳で亡くなっております。
死因は食道癌、癌性腹膜炎などと推測されている模様。
最期、病により食事をとることも歩く事もままならないほど弱ってしまった政宗は
こんな姿を妻や我が子に見せるわけにはいかない。
伊達政宗はいつだってカッコよくいなきゃダメなのだ。
といった理由で、決して家族を自分の側に近づけなかったそうです。
伊達政宗の辞世の句は
曇りなき
心の月を先だてて
浮世の闇を照らしてぞ行く
(先の見えない戦国の世、心の月で目の前を照らし自分はひたすらに進んで生きてきたよ)
…です。
政宗の兜の前立ては三日月、そういったところもかけて読んだ子洒落た一句であります。
最期の最期、辞世の句までカッコイイとは抜かりないであろう。
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楽しんでいただけたらイイネ!