伊達家No1知将!片倉小十郎をゆるりと楽しく解説!
生涯 | 1557年~1615年 |
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出身 | 出羽(山形県) |
全盛期 | 陸奥白石1万3000石 |
主君 | 伊達輝宗、伊達政宗 |
有名な親族・家臣 | 片倉景重(父)、喜多子(姉)、重長(長男) |
思い出の戦 | 人取り橋の戦い、郡山の戦い、北条小田原攻め |
片倉小十郎といえば | 景綱、伊達の双璧、やたらと有名な政宗の家臣、めちゃ有能 |
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伊達政宗の人生に必要不可欠だった片倉小十郎!
伊達政宗あるところに片倉小十郎アリ!
『小十郎』という名は実は幼名で、『片倉景綱(かげつな)』と表記するほうが戦国武将的には正しかったりするのね。
まぁそれはおいといて、片倉小十郎はゴリゴリの知将で超出来る男だったの!
小十郎がいなかったら政宗は奥州統一どころか、戦国の世を生き抜く事なんてできなかった!と言ってもいいくらいの英傑なのよ~!
片倉小十郎、実は武家出身じゃなかった!
片倉小十郎は伊達政宗の10歳年上。
武勇に名を馳せたというよりかは知略に長けた武将で、伊達政宗の軍師、参謀役として活躍してきたお方です。
そしてもともとは伊達政宗の父・輝宗の小姓でした。
小十郎が19歳の時、政宗の傅役(教育係)に抜擢されたのをきっかけに、政宗の右腕的ポジションへと上り詰めていくことになります。
が、小十郎が政宗の傅役に選ばれたのは異例の事でした。
なぜなら、小十郎は成島八幡宮の神官・片倉景重の次男。伊達家譜代の家臣でもなければ、武家の出身でもないのです。
そんな身分の小十郎が、伊達家譜代の家臣を差し置いて傅役に抜擢されたのには、政宗の父・輝宗が片倉小十郎の聡明さと、伊達家に対する厚い忠誠心をとても評価していたからだといわれております。
ちなみに、なぜ私が伊達輝宗の小姓になれたのか?
…というと、伊達家家臣・遠藤基信に才能を見抜かれ、『この子は大物になるに違いない!』と推薦されたからなのだ。
おまけに私の容姿は美形だったとの噂…。
政宗と小十郎の覚悟が凄い!圧倒的な主従関係の2人
伊達政宗は5歳の時に天然痘という病を患い、その病毒のせいで顔が崩れ、右目の眼球が飛び出るという異様な風貌となってしまいました。
その後、病気自体は完治するも右目は飛び出たまま。
政宗は自分の容姿を激しく嫌い、
この右目を突き潰せ!
と家臣に命じました。
しかし、家臣達は跡継ぎの坊ちゃまにもしもの事があれば…とヘタって誰も実行する事ができませんでした。
では私が。
ここで名乗りを上げたのが我らが片倉小十郎であります。
小十郎は政宗にもしもの事があれば切腹して責任とる!と覚悟を決め、小刀で政宗の右目を切り落としました。
右目を潰せという方もクレイジーですが、それを実行しちゃう方もかなりクレイジー!
よくやってくれた!
お前は俺の特別な存在になったぜ///
凄まじい信頼関係がここで生まれましたな///
きっとこの瞬間、二人の間には切っても切れない主従関係が生まれたに違いない…。
片倉小十郎、人取り橋の戦いで出来る男感炸裂!
18歳で伊達家の家督を継いだ政宗は、奥州の覇者となるべく積極的に行動を開始していきます。
片倉小十郎は政宗の軍師、参謀役といったポジションにあったわけですが、武勇においても素晴らしい活躍をしていました。
それは1586年に起こった人取り橋の戦い(伊達VS蘆名・佐竹ら反伊達連合軍)での事…
伊達軍7500に対し、敵は3万もの大軍。
敵の猛攻撃により伊達軍は崩され、総大将である政宗に攻撃が及ぶほど追い詰められておりました。
どれくらいヤバかったのかというと、政宗自身、鎧に銃弾5発と矢を一筋食らうほど…。
アレが伊達政宗か!
討ち取れ討ち取れ!
キャーッ!!
ついには狙いを定められた政宗、絶体絶命のピンチです。
が、この時…!
ひるむな小十郎!
政宗がついておるぞっ!!
(´;o;`)?!
小十郎が政宗に向かいこんな事を叫んだので、敵はいっせいに小十郎へと矛先を変えたのであります。
小十郎が政宗の身代わりに(´;ω;`)!
今度は小十郎が窮地に陥ったわけですが、ギリギリのところで伊達軍の別隊が駆けつけてきたので政宗も小十郎も命拾いしたのでした。
『主君の為に命を懸けて戦う!』といった武将のエピソードは沢山ありますが、ドタバタの中で咄嗟にこのセリフがでるのはさすが知将の小十郎、頭の回転が早い!と感心しちゃいますね。
そして戦が終わった後も、小十郎は素晴らしい活躍をしております。
人取り橋の戦いは伊達軍の勝利…、
連合軍は仲間割れを起こすなど、結束が弱まっている状況でした。
そこで小十郎は反伊達連合軍に与していた武将達とコンタクトをとり、巧みな外交で彼らを伊達家の味方に引き入れていったのであります。
おかげで政宗はグイグイ勢力を拡大させていく事ができたのだ!
また、小十郎は国の統治能力も素晴らしかったとのこと。
政宗が凄まじいスピードで領土拡大できたのも、小十郎が奪った領地の統治を頑張ったおかげだそうです。
めちゃ有能!
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いつだって冷静沈着な片倉小十郎
1590年、豊臣秀吉は天下統一の総仕上げとして関東の北条攻めを決行。
秀吉は政宗にも協力を要請するのですが、まだまだやんちゃ盛りの政宗はこれを無視しておりました。
農民あがりの秀吉のいう事なんて聞いてられるかっつぅの。
こんな感じで余裕ぶっこいていた政宗なのですが、秀吉は政宗が思っていたよりも早く、総勢22万というフルパワーで北条攻めを開始しました。
22万?ヤバくない?
今から秀吉の味方につくのはアリ?
手遅れでしょ。
許してもらえないと思うので、このまま奥州に留まって秀吉との戦に備えましょう!
伊達成実をはじめ、伊達家の重臣達は秀吉と徹底抗戦すべきだ、と政宗に進言しました。
……。
この時、なぜか小十郎は一言も意見せず。
秀吉には従わない流れで会議は終わったのですが、やはり不安な伊達政宗はこの夜、小十郎の屋敷をこっそり訪ねました。
皆は秀吉と戦えばいいって言うけど、小十郎はどう思う?
悩める当主に小十郎はこう言いました。
蠅というものはね、払っても払っても群がってくるもんなんです。
秀吉は大軍を率いている…
一度追い払えたところで後から何度でも襲ってきてキリがない。
そういう事ですね!?
そういう事です。
政宗は小十郎のこの言葉を聞き、秀吉のいる小田原へ参陣する決意を固めたのでした。
片倉小十郎のアイディアが伊達家の未来を救う!
小十郎の説得もあり、政宗は急ぎ小田原へと向かいまず。
がしかし、完全に怒っていた秀吉は政宗に会う事を拒否し、政宗を箱根底倉の地に幽閉してしまいました。
秀吉めっちゃ怒ってる!
どうにかしてよ小十郎~(´;ω;`)
話を聞く限り、秀吉はかなりの派手好き。
そしてサプライズとか好きなタイプです。
ここは伊達政宗という人間を華やかに演出し、只者ではないという事をアピールしてやりましょう!
秀吉のハートをガッツリ掴み、許しを請うのです!
ただ謝るだけではいけない!
小十郎は秀吉という人物の性格を把握し、政宗を秀吉の好みにかなう人物に仕立て上げるよう策を講じました。
まず、小十郎は
日本一の茶人、千利休殿がいらっしゃるとのことで!
是非とも茶道の伝授をお願いしたい!
こんな事を政宗に言わせました。
これを聞いた秀吉は…
自分の身が危ないって時になんとも風流な!
余裕あるね~!変わった子なのかな?会ってみようかな…?
怒りをやわらげ、政宗の謁見を許したのであります。
そしてその謁見の場で政宗は、髪をかぶろ(髪を短く切って垂らしてるヘアスタイル)にし、死装束を連想させる白色の陣羽織を羽織って登場しました。
うーん、面白いね!
気に入った!
この変わったパフォーマンスが見事に秀吉のハートを鷲掴み!
もう少し来るのが遅かったら首とんでたからね?
なんて嫌味は言われたようですが、無事に許された政宗は豊臣政権の一員になり、伊達家を守る事ができたのでした。
この謁見のパフォーマンスを考えたのも私!と言われているぞ。
そしてこの後、片倉小十郎のできる男っぷりをかなり評価した秀吉は小十郎を5万石でスカウトしたと言われております。
フラれちゃったけどね。
政宗一筋だってよ。
伊達家超ピンチの秀次事件!しかし小十郎の策が冴えわたる!
1595年、伊達政宗は秀次事件に連座していたと秀吉に責められ、領地を没収され四国(伊予国の宇和島)にとばされそうになります。
秀次が謀反を計画していた証拠もなければ、政宗がそれに関わっている証拠もない…!なんとも理不尽な展開であります。
秀次事件と政宗の詳細
実子・秀頼を跡継ぎにしたい秀吉は、跡継ぎと決めていた甥の秀次が邪魔だった。そして『秀次は謀反を起こして秀頼を亡き者とするつもりだ!』と決めつけて秀次を切腹させた。
伊達政宗は豊臣秀次と歳も近く、会った時には共に鹿狩りへ行くほど親しい仲だったので、『政宗が秀次と会っていたのは謀反の計画を相談していたに違いない!』と疑われてしまった。
この伊達家のピンチを救うため、小十郎は秀吉に誓紙を送り弁明し、さらには
伊達家の家臣達はヤケクソになって大阪、京に火をかけた後、みな斬死して果てるつもりらしいぞ!
と、こんな噂を広めさせました。
これがちょっとした騒ぎになったのと、徳川家康のとりなしもあって伊達家はなんとか罪を免れることができたのであります。
小十郎のおかげで政宗は色んなピンチを脱しているのだ。
情報収集力に先見の明も抜群!マジ頼りになる男よ。
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常識人とみせかけて案外ダークな片倉小十郎
1600年、関ヶ原の戦い勃発。
その時、伊達政宗は…というと、東軍に属して東北地方にいる西軍武将の抑えとなるよう奥州に留まっていました。
そしてこの関ヶ原の戦いの時、東北地方で一番熱いバトルを繰り広げていたのが最上義光(東軍側)と上杉景勝(西軍側)でした。
※上杉景勝は直江兼続を総大将とし、出羽・山形城の最上義光を攻めさせていた。
最上、苦戦してるみたい。
援軍よこせってさ。
ほっとけばいいですよ。
上杉が最上の城を落とした後、我々でそこを攻めましょう。
上杉は戦の後で疲弊してるだろうし、簡単に最上領ゲットできますぞ~!
えっっ('Д')
最上義光は政宗の叔父(母の兄)です。
この時、政宗の母は兄・義光のいる山形城に身を寄せていました。
そんな事情があったのに、平然とこんな事を言えちゃう片倉小十郎はなかなかに腹黒い…。
さすがに母親いるし援軍送ったわな。
そしてちなみに関ヶ原の戦いの後、片倉小十郎は陸奥の白石城に1万3000石を与えられています。
これは家臣の中では別格の厚遇!
私と並んで『伊達の双璧』と言われる伊達成実は6000石だったんだぞ。
天下の陪臣!片倉小十郎の晩年と最後について
戦国時代の最後の戦となった大坂の陣、
伊達政宗はこの大坂の陣に参加しているのですが、この頃、片倉小十郎は中風という病により半身不随にあり、戦に参加する事ができませんでした。
小十郎、思うようにいかなくて落ち込んでるかも…。
政宗は小十郎の事をきにかけ、大阪へ向かう前に白石城へ立ち寄りました。
忙しいのにわざわざ見舞いにきてくれるなんて(´;ω;`)
小十郎は主君の気づかいに感謝感激、輿に乗ってまで城外へ出て政宗を見送ったといいます。
この数か月後、小十郎は病死。
悲しい事に、これが二人の今生の別れとなってしまいました。訃報を聞いた政宗の悲しみようはかなりのものだったといいます。
伊達政宗にひたすらに忠義を尽くし、数々のピンチを救ってきた片倉小十郎…、
片倉小十郎がいなければ、仙台の英雄、伊達政宗!といった人気武将は存在しなかった事でしょう。
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