加藤清正は熊本の英雄!七本槍に虎退治…逸話や活躍をゆるりと
生涯 | 1562年~1611年 |
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出身 | 尾張(愛知県) |
全盛期 | 肥後・豊後の一部に54万石を領する |
主君 | 豊臣秀吉、豊臣秀頼 |
思い出の戦 | 賤ヶ岳の戦い、小牧長久手の戦い、四国征伐、九州征伐、朝鮮出兵 |
加藤清正といえば | 虎を退治した、福島正則とマブ、築城の名人、熊本城 |
虎退治で有名な加藤清正って何者?
加藤清正は幼い頃から秀吉に仕え、豊臣家一筋で生きてきた武将よ。
勇猛果敢なパワータイプの武将で、虎を退治した話で有名な方ね。
また、築城の名人であったり領内の統治が上手かったりと、戦働き以外でも高い能力を発揮していたのよ~!
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加藤清正ってどんな武将??
加藤清正は『秀吉子飼いの武将』なんて言われ、福島正則と同じく幼い頃より秀吉に仕えてきました。
詳細は不明でなようですが豊臣秀吉と親戚であったと言われています。
(一説には母親同士が従兄弟とも)
武勇に優れていることで有名な武将であり、槍の達人であったと言われております。
戦場ではいつも先頭に立ち、武勇を示してきたぞ!
1583年の賤ヶ岳の戦いでは豊臣家の猛者達で作った精鋭部隊、俗にいう七本槍のメンバーに抜群され、その活躍が認められ戦後に秀吉から3000石を与えられました。
そして1586年の九州征伐の後に肥後の半分を与えられ、約20万石を領する大名となりました。
清正は強くて頼れる武将なんだけど、武功にこだわるあまり単独で行動することも多くて困ったところもあったのよ。
秀吉亡き後の関ケ原の戦いでは徳川家康の味方に付き、その功績から肥後・豊後(一部)54万石にまで加増されています。
加藤清正の朝鮮出兵での活躍が凄い!
秀吉の天下統一後、
1592年と1597年の二度にわたり行われた朝鮮出兵・・・。
この戦で加藤清正は誰よりもはりきっておりました。
1592年の一度目の朝鮮出兵(文禄の役)、加藤清正はこの戦で小西行長と一緒に先鋒を任されていたのですが、
行長に負けてたまるかっっ!!
と対抗心を燃やし、小西行長を出し抜いてグイグイと侵攻していきました。
朝鮮の首都・漢城(現在のソウル)を落とし、勢いに乗った清正は攻めに攻め次々と戦に勝利、着々と朝鮮の地を平定していきました。
そして朝鮮の王子を捕らえるという立派な武功も挙げております。
朝鮮の人達は俺の凄まじい暴れっぷりに震え上がっていたんだとさ。
そんで俺は朝鮮の人達に『鬼上官』なんて呼ばれてたの。
勇猛果敢な働きで日本軍に貢献した清正ですが、その後に小西行長と作戦の事で揉めたり、朝鮮出兵での勝手な行動を連絡係りの石田三成が秀吉にチクったことで
説教じゃ!帰ってこい!
と日本へ帰国させられることとなったのでした。
ちなみにこれが原因でワシは清正にめっちゃ嫌われるようになったのである。
そして1597年、加藤清正は二度目の朝鮮出兵(慶長の役)にも参戦。
二度目の朝鮮出兵で加藤清正は、朝鮮の蔚山(ウルサン)という地で戦をするのですが、ここでかなりの苦戦を強いられました。
日本軍約1万の兵で籠る蔚山城に、5万を超える敵が押し寄せてきたのです。
日本軍の別隊が援軍に駆け付けた事でなんとか窮地を脱したのですが、激戦続きだった日本軍は食料不足や疲労でボロボロでした。
そんな中、日本で秀吉が亡くなったとの報を受けて日本軍は朝鮮から兵を引き帰国、朝鮮での戦はグダグダな中終わりを迎えたのであります。
朝鮮出兵は日本にとっても朝鮮にとっても何も得るもののない無駄な戦だったんだよね。
ただ敵地を荒らしただけっていう。
加藤清正の虎退治がめちゃカッコイイ!
加藤清正といえば虎を退治した事で有名です!そしてこの虎退治は朝鮮出兵の時の出来事でした。
それは清正の軍勢が休息をとっていた時・・・、一匹の虎が清正達の前に現れました。
驚いたのも束の間、虎は近くにいた馬と小姓に襲いかかり、サーッと逃げていきました。
そして襲われた馬と小姓はどちらも命を落としてしまいました。清正は悲しむと同時に激しく怒り、
許さん!絶対にあの虎を討つ!!
と虎退治を決意しました。
そして後日、清正の願った通り一匹の虎がまた清正達の前に現れました。
清正様、近づくと危ないので鉄砲で仕留めて下さい!
と家臣が言うも清正は
いや、それではダメだ!こやつはこの手で直々に成敗してやる!
と、槍を手に取り見事に虎を討ちとったのであります。
猛獣である虎を槍一本で倒すというこの絵面はなんともカッコイイですね!
この出来事は後世の人達にも大人気のエピソードで、浮世絵なんかでもよく描かれているシーンであります。
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関ヶ原の戦いで加藤清正は何してた??
加藤清正が関ヶ原の戦いで何をしていたのか?というと、実は家康や三成のいる関ヶ原の戦場にはいなかったんですね。
清正は九州にいる三成派の武将達の抑えとして自分の国元にいたのです。
そして関ヶ原の戦い後には肥後・豊後54万石に加増されています。
こんなはずじゃなかった加藤清正
関ヶ原の戦いといえば、徳川家康派と石田三成派にわかれて起こった豊臣家内での政権争いです。
清正は、石田三成憎しの感情で関ヶ原の戦いでは家康の味方についていました。
清正の家臣は、三成に味方するべきだと言ったらしいのですが清正は頑なにそれを拒み、
三成は家康を討ち、俺らの事も討つつもりだ!いずれは豊臣家を滅ぼし自分が天下人になるつもりなのだ!
とまで言っていたそうです。
義の武将として伝えられている石田三成が『豊臣家を滅ぼそうとしていた』なんて事はないように思いますが…清正の被害妄想ですかね??
とにもかくにも三成をめちゃくちゃ嫌っているのは伝わってきます。笑
清正が家康に味方したのは豊臣家のことを思っての事ですが、結果的に関ヶ原の戦いで勝利した家康は自らが天下人になり、豊臣家の権力を削いでいくこととなります。
現代の人は結果を知っているから
家康は豊臣を潰して天下人になろうもしてるのに、なんで清正は家康の味方になったの?
なんて思っちゃいますが、当時の人からすると家康の内に秘める野望に気づけない者もいるし、まさか天下の豊臣を潰しにかかるなんて思ってなかったのであります。
天下取りのタイミングを待ち続け、それまで息を潜めて豊臣に尽くしてきた家康がやり手だったというわけです。
最後まで清正は秀頼に忠義を尽くした
関ヶ原の戦いの後、徳川の世となってからは多くの大名が手の平を返したように豊臣家から離れていきました。
しかし、加藤清正や福島正則などの豊臣恩顧の家臣は依然として豊臣家に忠義を尽くし、秀吉の跡継ぎである秀頼を支えていました。
清正は、秀頼のいる大阪に行った時は涙をながしてその再会を喜んだといいますし、
1611年には家康に臣従するのを拒んでいた秀頼と秀頼の母(淀君)を説得させ、家康と秀頼の会見を実現させるという重大な役目も果たしました。
※この会見を拒めば家康は豊臣家を本格的に潰しにかかるつもりだった。豊臣家滅亡を避ける為、秀頼を守る為にも、屈辱に耐えて家康に臣従の意を示しに行ったのである。
その会見の時に清正は、万が一に備えて懐に短刀を隠し持ち、ずっと秀頼の側に付き添っていたといいます。
そしてこの会見からわずか2ヶ月後に清正はこの世を去ることとなります。
清正の死因についてはハッキリとした事が解っておらず、
心労による体調不良でこの世を去った
家康に毒殺された
遊女からもらった梅毒でこの世を去った
など様々な説があります。
清正の死は、家康との会見から2ヶ月後のことなので毒殺であれば期間が空きすぎですよね。
これについては、会見の時に何かしらの食べ物に毒を盛られたが即死はせず、毒の影響で体が弱っていったとか、家康からお土産にもらったお菓子に微量の毒が含まれていてそれを食べ続けた事で死に至ったとか、こんな説があるみたいです。
※ちなみに、清正の死後は三男の忠広が跡を継いでいたけど1632年に改易され加藤家は断絶してしまった。改易の理由は、上手く統治がてきていなかったとか、豊富恩顧の大名だからなにかしらのイチャモンつけられて厄介払いされたとか言われている。
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加藤清正の築いた熊本城が凄い
加藤清正は築城の名人と言われ、熊本城、名古屋城、江戸城・・・など数々のプロデュースに携わってきました。
中でも1番凄いのが熊本城!
この熊本城は、関ヶ原の戦いの後に7年の歳月をかけて築かれたお城で、見た目の美しさだけでなく、工夫を凝らしに凝らした清正渾身のお城なのであります!
熊本城は合戦に備えた超強固なお城なのだ!何が凄いか説明しよう!
熊本城は合戦に備えた強固なお城!
熊本城の石垣は『武者返し』と呼ばれており、下は上にいくにつれて急角度になっています。
敵が登ってこれない、単純な原理ではありますがこれを設計し建築する技術は立派なものであります。
籠城戦になった時の備えが凄すぎる
清正は朝鮮出兵の時、拠点とした城を敵に攻められて籠城戦をした事があるのですが、その時に食糧・水不足 で飢えに苦しむという過酷な経験をしていました。
その経験から、水分確保の対策を徹底する為に熊本城内に120もの井戸を作りました。
そして、食糧の対策として梅や銀杏の木を植えたりもしていたし、
もっと凄いのが壁には干瓢(かんぴょう)を埋め、畳は干した芋の茎を使って作るという徹底ぶり…。
万が一食料がスッカラカンになってしまったら壁や畳を食べて飢えをしのぐ!
熊本城は『食べられる城』という斬新なお城なのだ!
ちなみに熊本城は銀杏の木を沢山植えていたことで銀杏城とも呼ばれております。
実戦により証明された熊本城の凄さ!
江戸時代は徳川幕府のもと、300年近く平和な時代が続いていました。
熊本城が実戦でその力を発揮したのは、熊本城完成から270年ほどたった西南戦争の時でした。
新政府の拠点であった熊本城にいた兵の数は4000ほど。
薩摩軍の西郷隆盛は1万3000の兵で熊本城を攻めたのですが、54日間の激戦をもっても熊本城は落ちなかったのです。
西郷隆盛はこの時、
おいどんは政府軍に負けたんじゃない…加藤清正公に負けたのでごわす…
とぼやいていたそうです。
おまけ話!とことん用意周到な熊本城
おまけに、ここまでするか!といった熊本城のお話しです。
ある時に、熊本城の柱が破損してしまったので取り替えることになりました。
その取り外した柱を見ると、端っこのほうに
これの代わりに使える柱が◯◯池にあるよ!
と書いてあったそうです。
柱に書かれた場所へ行くと、確かにその柱の代わりに使えそうな材木があったといいます。
なにこの優しいサプライズ!ってな感じで面白いですね。笑
備えあれば憂いなし。
清正公は用意周到、計画も綿密に練る武将であったのだ!
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楽しんでいただけたらイイネ!