龍造寺隆信が肥前の大名になるまで!敵より怖いのは母ちゃんだった

龍造寺隆信が肥前の大名になるまで!敵より怖いのは母ちゃんだった

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龍造寺隆信が肥前の大名になるまで!敵より怖いのは母ちゃんか

龍造寺隆信

生涯 1529年~1584年
出身 肥前(佐賀県)
全盛期 肥前、筑前、筑後、豊前など
主君 少弐氏、龍造寺本家の家兼・胤栄、大内氏、大友氏
有名な親族・家臣 龍造寺周家(父)、慶誾尼(母)、龍造寺政家(嫡男) 鍋島直茂、成松信勝、百武賢兼、江里口信常、円城寺信胤、木下昌直(家臣)など
思い出の戦 今山の戦い、沖田畷の戦い
龍造寺隆信といえば 肥前の熊、母親が強い

 

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龍造寺隆信の歴史、逸話などゆるりとご紹介

肥前の熊こと龍造寺隆信!

下剋上で九州を代表する大名になるも、まさかの戦で討ち死に。


 

ある意味戦国時代を満喫してるというか、上がって下がってドーンって感じでドラマティックな人生を送られてるわね〜!

 

まぁそれ言ったら戦国武将は大概みんなドラマティックな人生送ってるんだけども。

 

とりあえず今回はそんな龍造寺隆信が肥前を統一するまでをゆるりとご紹介~。

 

龍造寺隆信が当主の地位を確立するまで

 

龍造寺隆信はもともと、肥前の守護・少弐氏に仕える龍造寺氏の分家(水ヶ江龍造寺氏)の出であり、7歳で出家していたので若かりし頃は

 

 

自分が九州で覇権争いをするビッグな大名になる…?

 

そんなこと、あるわけないっしょ。


 

といった感じでありました。

 

しかし1545年…

隆信が17歳の時、隆信の祖父と父が死去。

 

隆信は父らの遺言により、俗世に戻って水ヶ江龍造寺家を継ぐことになりました。

※祖父と父は龍造寺氏の台頭を妬む者に謀反の疑いをかけられ、殺害されてしまったという噂。

 

そして当主となって2年後の1547年、隆信は龍造寺本家当主・胤栄(たねみつ)に従い、少弐冬尚(ふゆひさ)を攻めて追放するという活躍をしております。

 

 

主だった少弐氏は肥前・筑前・豊前の守護を務める名門だったけど、この時にはもうかつての勢いはなかったんだよね。


 

少弐氏を追いやり龍造寺氏のさらなる発展が期待されるわけですが、この1年後に龍造寺胤栄が病死。

 

胤栄には跡継ぎ息子がいなかった為、一族相談の結果隆信が龍造寺本家の当主となる事に決まりました。

 

しかし、龍造寺本家の家臣達の一部は、水ヶ江出身の隆信が本家の家督を継ぐ事に不満を持っておりました。

 

なので隆信は、中国地方の大名・大内義隆(周防や長門といった九州寄りの国に加え、豊前や筑前にも勢力を誇っていた)と結び、家臣らの不満を封じました。

 

 

強力な大名がワシのバックにいるとなれば、誰もワシに文句言えんからな。

虎の威を借る狐…ってやつだな。


 

大内義隆を味方につけてひとまず安心!

 

…の龍造寺隆信でしたが1551年、その大内義隆が家臣(陶晴賢)の謀反にあって死去してしまいました。

 

後ろ盾を失った隆信は龍造寺本家の家臣に肥前を追われ、筑後へと逃げる事になってしまいます。

 

 

この時、23歳。

蒲池鑑盛という優しい武将のもとでお世話になっていたぞ。


 

そして約2年後…

 

蒲池氏の支援のもと隆信は挙兵して本拠地の佐嘉城を奪還、アンチ隆信派の龍造寺家家臣を駆逐する事に成功しました。

 

龍造寺家は無事にリニューアルされ、肥前に舞い戻った隆信はここから勢力拡大に燃えます。

 

1559年にはかつての主君・少弐冬尚を攻めて自害に追い込み、完全に滅亡させました。

 

そして肥前の国人達を次々に降し、龍造寺隆信は急速に存在感を増していったのであります。

 

 

いきなり台頭してきたワシに近隣の大名達は結構ビビってたみたいよ~。


 

VS大友宗麟!龍造寺の力を見せつけてやった今山の戦い

 

新たな勢力として頭角を現し始めた龍造寺隆信…

 

そんな隆信を目障りに思ったのが豊後・豊前・筑後・筑前・日向・肥後…と九州で大勢力を誇る大友宗麟でありました。

 

1570年、大友宗麟は…

 

 

龍造寺とかいう小物がイキっちゃって…

ワシの敵である安芸の毛利とも仲良くしてるみたいだし、気に食わ~ん。


 

隆信を倒すべく6万もの軍勢を動員して龍造寺領へと侵攻し、佐嘉城を包囲しました。

 

 

敵は6万を超える大軍で来たとな?!

こっちはせいぜい5000だぞ…。

 

けど我々には地の利があるし、そう簡単に近寄らせない!


 

兵力差はかなりのものでしたが、河川が大友軍の行く手を阻んでくれたのもありしばらくは両軍一進一退、小競り合いが続くこととなります。

 

そんなこんなで気づけば4ヶ月が経過…

 

 

敵は少数なのになかなかに手こずっておる…。

ここいらで本気出して総攻撃をかけるか!


 

大友宗麟は早いとこ決着をつけるべく、弟・親貞(ちかさだ)を大将として兵3000を前線へ送り出し、佐嘉城の攻略を命じました。

 

 

いよいよ来るか…。

援軍の望みもないし、勝機ゼロ。

 

こうなったらもう…降伏するしか…。


 

ここまで踏ん張っていた龍造寺軍ですが、敵の総攻撃を前にして城内の士気はダダ下がり。

 

さすがの隆信も諦めムードに入ってしまっておりました。

 

が、

 

鍋島直茂

 

諦めるのはまだ早い!

 

入手した情報によると、敵が城攻めを開始するのは明日。

今夜は勝利の前祝いと称して酒宴が開かれるそうです。

 

敵は完全に油断しきっております!

ここに夜襲をかけ、蹴散らしてやりましょう!


 

ここで龍造寺家家臣・鍋島直茂が必勝の策を提案してくれました。

 

しかし

 

 

そんな上手くいくかね?

一部の敵を追い払っても何万もの敵軍が控えてるし…。

 

やはり降伏するのが一番賢いのでは…?


 

隆信は渋る。

 

宣教師のルイスフロイスに

 

 

龍造寺隆信は決断力ハンパない。迅速すぎる。


 

なんて言われてるほど答えを出すのが早かったらしいのに加え、

 

敵から贈られてきた酒を

 

 

毒なんか大した事じゃないわ。


 

と毒見させることなく飲んだ…

 

なんて逸話があるほど豪胆で慎重さに欠ける隆信ですが、大友軍が怖いかここでの決断はそう簡単に出せなかった模様。

 

そんな弱腰の隆信に痺れを切らしたのが…

 

 

何をちゃあちゃあ言っとる!

 

お前は猫を怖がるネズミか!

直茂がいい案出してくれてんだから、覚悟決めてやれやな!


 

隆信の母・慶誾尼(けいぎんに)でありました。

 

 

やるよな?


 

 

や、やります!!

直茂、任せたぞ!


 

鍋島直茂

 

お任せあれ。


 

隆信は慶誾尼の一喝で大友軍に夜襲をかける事を決意。したという。

 

明け方、鍋島直茂が兵800を率いて敵陣に奇襲をかけました。

 

酔いつぶれて寝ていた大友軍の兵士はまともに応戦できなかったうえ、

 

 

龍造寺に寝返った者がいるぞー!


 

というデマに踊らされ大混乱。

 

奇襲は成功し、龍造寺軍は『今山の戦い』と呼ばれるこの戦で2000もの敵を討ったばかりか大将の大友親貞をも討ち取り大勝利を収めたのでした。

 

…とは言っても、ここの戦では大友軍の一部を壊滅させただけで決定的なダメージを与えられたわけではありません。

 

 

(宗麟が佐嘉城を攻めあぐねているとはいえ、ワシらもこれ以上はしんどい…。)


 

 

(親貞が討たれるなんて思いもしなかった…。

 

龍造寺は思った以上にしぶとい。

中国の毛利氏の相手もしなきゃいけないし、ここでの戦はそろそろ終わらせたい…。)


 

両者萎えてきたのもあり、ここでの争いは和睦を結んで終わらせることになりました。

 

 

和睦と言っても、大友氏に頭が上がらない状態ではある…。

 

けどあの大友宗麟の侵攻を防ぎ、領地を守りきった!

上出来、自信持ってこー!


 

大友宗麟の魔の手から逃れる事ができた隆信は、これから増々の飛躍を遂げることになります。

 

1572年にはお家再興に燃えていた少弐政興(冬尚の弟)を肥前から追放し…

 

1578年までに周辺の大村氏や有馬氏を降して肥前を統一しました。

 

 

そして1580年には息子の政家に家督を譲って隠居したぞ。

…とは言っても建前だけで、実権は私が握っていたからバリバリ現役だったがね。

 

この後、ワシはさらなる高みを目指して突き進む…!

長くなりそうだから続きは別記事で!

 

次回、龍造寺隆信、沖田畷の戦いにて死す!油断と慢心が招いた結末とは

↑見てくれよな!


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楽しんでいただけたらイイネ!

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