豊臣秀吉は暴君?朝鮮出兵に秀次事件…なぜ酷い事になってしまった?

豊臣秀吉は暴君?朝鮮出兵に秀次事件…なぜ酷い事になってしまった?

徳川家康 ラインスタンプ

豊臣秀吉の朝鮮出兵!秀吉は晩年、なぜあんな暴挙にでた?

 

1590年…

秀吉は最後の最期まで豊臣家に反抗していた北条氏を滅ぼしました。

 

そして天下人となった秀吉は全国の大名を従え、莫大な富を築き華やかな日々を送っていました。

 

まさに、ここに栄華極まれりといった感じであります。

 

十分すぎる地位と名誉、これ以上望むものなんかないはず…

 

なのに、秀吉の野心は止まることなく、次のステップアップとして海外へと兵を進めることを決めました。

 

そう、俗にいう朝鮮出兵が行われることになるのであります。

 

天下人が

 

 

海外進出!!

やるといったらやるぞ!!


 

と言えば全国の大名達は従うのみですが、秀吉が描く世界進出の夢は…

 

 

正気か?

日本にとって良い未来になると到底思えないんだが…。


 

武将達も困惑の無茶ぶり。でありました。

 

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豊臣秀吉の人生最大の黒歴史?『朝鮮出兵』

 

秀吉の命令により行われた朝鮮出兵…。

 

そもそもなぜ朝鮮に侵攻しようと思ったのか?という話なのですが、

 

実は朝鮮の侵略は前夜戦のようなものであり、

 

秀吉の本当の狙いは朝鮮を越えた先、明(中国)の征服にあったと言われております。

 

朝鮮出兵の始まりは

 

 

ちょっくら明を攻めに行こうと思ってるんで、朝鮮にお邪魔させてもらいますね~。

明までの道案内もよろしく~!

 

…え?無理?

協力してくれないの?

 

じゃ、武力行使で朝鮮の地を突き進んでいくしかないねぇ。


 

…といった感じだったのであります。

 

そして豊臣秀吉が明を欲しがった理由はハッキリとわかっていないようですが、

 

日本の大名達に恩賞として与える領地を手に入れる為
明国と国交を結ぶ為
明国を征服して秀吉が王となる為

 

このような理由が考えられるみたいです。

 

明国の王とかマジで言ってるの?と聞きたくなっちゃいますが、『日本軍が朝鮮の都を落とした』という知らせを聞いた秀吉は側室の淀殿に

 

 

よし、朝鮮の首都が落ちたとな!

いずれ明もワシのものとなる!

そうなればワシが明の国王で、淀が女王だね!


 

 

私が女王?

正室のねね様はどうなさるおつもりで?


 

 

え。

ねねは日本にいてもらうつもり。


 

こんな事を言っていたそうです。

まさかの正室おいてけぼり…。

 

そしてさらに秀吉は、

 

 

明にも日本の皇室を置こう!

後陽成天皇は北京に住んでもらうとしよう。

 

朝鮮は織田秀信か羽柴秀勝に任せて~…

 

秀次は明の関白にしよう!

日本の関白には宇喜多秀家なんかどうだろう?!

 

落ち着いたらインド進出のこともしっかりと考えなきゃあね!


 

こんな事まで妄想していたそうです。

 

凄まじい野望…!

 

秀吉の二度にわたる朝鮮出兵を超簡単に解説!

朝鮮出兵の秀吉

誰にも止められない…

 

1592年…

一度目の朝鮮出兵(文禄の役)では日本軍がグイグイ朝鮮を侵攻していき、首都・漢城を落としました。

 

しかし、そう簡単に朝鮮という国は落ちず。

 

李舜臣という武将の率いる水軍が日本の水軍を破り拠点を奪還したり、

 

朝鮮の民衆が暴動を起こしたり、

 

明が朝鮮に援軍を送ってきたり…と、時間が経つにつれて日本軍はなかなかに手を焼く事になってしまいます。

 

敵の抵抗が強まった結果、、日本軍は襲いかかってきた明・朝鮮連合軍を蹴散らしはするのですが、決定的な勝利を得る事はできず…。

戦は膠着状態となり、

 

 

両軍疲弊してるし、収拾がつかなくなってきたよ。

こんな戦はさっさと終わらせるべき。


 

とのことで和睦が結ばれることになります。

 

そしてこの和睦交渉を担当した小西行長(日本代表)と沈惟敬(しんいけい・明国代表)

 

 

物事を上手く進めるには多少の裏工作も必要だね。


 

との事で

 

 

明国は日本に降伏するとの事です!


 

 

日本は明国に降伏するとの事です!


 

とお互いが国のトップに嘘をついて話をまとめることにしました。

 

その結果、

 

 

ヨッシャ!

明国が日本に頭を下げるとな?!


 

とウッキウキでテンション上がった秀吉は、

 

 

明の皇女を日本の天皇の嫁に差し出すこと!

貿易を復活させること!

両国の間で誓詞を交わすこと!

朝鮮の王子を人質として差し出すこと!

日本に逆らわない事を誓うこと!

 

これらが和睦の条件!


 

…といった文書を明側に提示しました。

 

 

無茶な事を言うなぁ~…。

こんなのうちのトップが認めるわけがない。


 

 

文章変えて伝えればいいよ。

トップ同士でやりとりすることはないし、私たちが黙ってればバレないんだから。


 

一度嘘をついたのでもう後にはひけず、小西行長らは

 

 

日本は明国に降伏いたします。

貿易は再開したいです。By秀吉


 

と文書を偽造し、明には日本が頭をさげる形で交渉を進めました。

 

これを受け、明の皇帝は秀吉に

 

 

秀吉さんを日本の国王に認めてあげよう!

あと明国の傘元に入れてあげるのはいいけど、貿易はNGです。


 

といった内容の返事を送りました。

 

これを受けて秀吉は…

 

 

なんで降伏した奴が上から目線なの?

話がおかしくないか…?

 

これは一体、どういうことなの?!


 

 

あわわわわわ。


 

当然の如く激怒しました。

(小西行長は処刑されかけたらしい。)

 

このような事があり、日本と明は和解するに至らず…

 

1597年に二度目の朝鮮出兵(慶長の役)が行われることとなります。

 

二度目の朝鮮出兵では日本軍も敵軍も押し押されで奮戦しておりましたが、日本軍が朝鮮に渡ってから約1年半後に秀吉が死去した事で中止となり兵を引き上げました。

 

結局、この朝鮮出兵は日本軍が一方的に敵地を荒らして去っていっただけという…。

 

日本にとっても朝鮮・明にとっても何のプラスにもならない、ただただ遺恨の残る戦となってしまいました。

 

 

天下人・豊臣秀吉の名を汚す黒歴史となってしまった…。


 

秀吉は自分の地位や権力を誇り、日本軍の強さに絶対的な自信を持っていたと思われます。

 

結局は外の世界の事を十分に把握しておらず、井の中の蛙、大海を知らず。という状況であったのは否めません。

 

現代のように色んな情報が手に入る時代なら、秀吉も明国征服だなんて大それた野望は抱かなかったかもしれませんね。

 

 

逆にもっと上手い事やれた可能性もあるよね。


 

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朝鮮出兵だけではない、秀吉の晩年の暴走『秀次事件』

 

晩年の豊臣秀吉の暴走っぷりが酷い、と言われるもう一つの出来事に、『秀次事件』というものがあります。

 

長年、実子がいなかった秀吉は自分の甥っ子である豊臣秀次を養子に迎えて優遇し、

 

1590年に天下人となった後、関白の職と秀吉が京都に築いた豪華絢爛な居宅『聚楽第』を秀次に譲っていたのですが…、

 

その3年後、秀吉の実子・豊臣秀頼が誕生しました。

 

 

秀頼可愛い!秀頼が一番!

秀頼ちゃん秀頼ちゃん~♪


 

やはり我が子がNo1。

秀吉は養子達そっちのけで、秀頼を溺愛するようになりました。

 

 

ワシの跡を継ぐのは秀頼しかいないっしょ!

あ~秀次に関白譲ったの早まっちゃったかも~?!


 

秀次の事を跡継ぎに決めていたとはいえ、やはり実子に自分の跡を継いでもらいたい…というのが親心であります。

 

秀吉は秀頼が可愛いあまり、秀次の存在がちょいと疎ましくなってきてしまいました。

 

また、

 

 

秀次が自分の立場を守る為に、秀頼によからぬことをするかもしれない…。


 

といった被害妄想もあった事でしょう。

 

そして秀次も秀次で…

 

 

秀吉パパは秀頼のことばかり、私の立場は今後どうなってしまうのだろうか…。

秀吉パパにとって私という存在は…?

あぁ…憂鬱…。


 

心穏やかでいられず、持病の喘息が悪化するほど心身に支障をきたしていたといいます。

 

そんな状況なので、自然と秀吉と秀次の関係は悪くなっていきました。

 

そして最終的に秀吉は

 

 

秀次はワシや秀頼に対して謀反を企んでいるっ!!

普段の素行も悪いし、関白に相応しくない!


 

と、秀次を悪者に仕立てあげて高野山へ追放してしまいました。

 

そしてその後、

 

 

私は謀反など企んでいない!

会って話も聞いてもらえないなんて酷すぎる…!


 

無実を主張する秀次に、まさかの切腹を命じたのであります。

 

※高野山へ追放するという罰は・・・領地や地位など全て失ったうえ、俗世とかけ離れた土地に移って一生をそこで終えなければならないという武士にとって屈辱的なものであった。

 

秀次は大人しく高野山で余生を過ごすはずだったが、秀吉は自分の死後、誰かしらの手によって秀次が出戻ってくるのを恐れたのかもしれない。この時、豊臣の血筋を持つ男子は秀頼と秀次しか残っていなかったし、秀頼の後継者争いの相手になりうる秀次の存在を完全に消し去りたかったのかも・・・。

 

豊臣秀次は長い間、秀吉の天下取りを支えてきた人物であります。

しかも秀吉の血縁者。

 

一方的に切腹に追い込むだけでも酷い話ですが、さらに酷いのはこの後…

 

秀吉は何の罪もない秀次の一族三十数名をことごとく処刑したのであります。

 

そのやり方もかなり冷酷なもので、三条河原にて妻子を秀次の首と対面させた後に処刑、その地に大穴を掘って秀次の首と一緒に妻子の遺体を放りこんだとか…。

 

あまりの悲惨な光景に、処刑の様子を見物に来ていた人々は皆後悔したそうです。

 

そしてその後、秀次一族が埋められたこの塚には『秀次悪逆塚』と刻まれた石碑が建てられました。

 

人々はこの塚を『悪逆塚』とは呼ばず、秀吉の方を批判する意味で『畜生塚』と呼んだといいます。

 

 

朝鮮出兵に秀次事件…

晩年の秀吉のこのような行いは、大名達の心が豊臣家から離れていった大きな要因の一つであると言われております。

 

日本での天下統一を最終的なゴールとし、豊臣の血筋や家臣を大切にして国内で豊臣政権の地盤を固めるよう努めていれば、秀吉の死後すぐに天下を徳川家にとられる事もなかったかもしれません。

 

 

その点、徳川は血脈を広げまくったし、天下を取った後はしっかりと徳川幕府の体制を作り上げたのである。


 

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秀吉が晩年に暴走してしまったのはなぜなのか?

 

なぜ秀吉は晩年、こういった自分本意な暴走をしてしまったのか…??

 

秀吉は仮にも農民から天下人へと成り上がった英傑、賢い人物であるのは間違いないのに。

 

 

鳴かぬなら 

鳴かせてみせよう

ホトトギス


 

と例えられるように、秀吉は頭で考え、上手くいく方法をひねり出す事ができる人物なのです。

 

おまけに『人たらし』と言われるほど、気さくで人の心を掴むのが上手かった武将であります。

 

そんな秀吉が、秀次事件や朝鮮出兵で自分の欲望のまま暴走してしまった理由に挙げられるのが、歳をとってボケていたのでは??という事です。

 

ボケていたというと言い方がよろしくないですが、つまりは認知症だった??という事ですね。

(NHK大河ドラマなんかでも、秀吉が失禁してしまうシーンなんかがありました。)

 

認知症には色々なケースがありますが、性格が変わって頑固になったり怒りっぽくなったりするのは割とよくある症状だったりします。

 

秀吉の場合、年を取って判断能力が鈍ってたり感情的になりやすかったり…という変化があったのかなぁ?…と思ってしまいます。

 

 

真相は謎ですがね。


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