藤堂高虎はなぜ主君を変えまくった?高虎の出世術が凄い!
藤堂高虎はもともと近江の小土豪、一介の武士だったお方よ~。
主君を何度も変えて、その度に出世していった世渡り上手な武将なの。
関ヶ原の戦いでは徳川家康の味方につき、その功績により伊勢を与えられて最終的には32万石の大名にまで出世してるわね~。
彼は一体どういったところが評価されて成功したのでしょう…?!
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藤堂高虎の歴代主君は誰だ
主君変えすぎでおなじみ、藤堂高虎が仕えてきた武将達は…
浅井長政
阿閉貞征
磯野員昌
織田信澄
豊臣秀長
豊臣秀保
豊臣秀頼
徳川家康
徳川秀忠
徳川家光
…といった方々になります。
浅井氏に関しては、織田信長との戦に負けて滅亡してしまったので仕方ない事情があるのですが、
主君を何度も変えるということは職場を何度も変えることであり、現代の感覚と同じであまり良い印象はなかったそうです。
ただ、彼の場合は
今の職場ダリー!
上司ウゼェし合ってねぇわ。
なんでこんなとこで働かなきゃいけないんだよ。まじクソ!
といったネガティッブな理由で職場を変えてる印象はありません。
どちらかというとキャリアアップ思考な印象。
言いように言えば『世渡り上手』、悪いように言えばズル賢い、権力者に媚びてる、節操ないとも言えるような感じでしょうか。
そんな藤堂高虎は
武士たる者、七度主君を変えねば一人前とは言えぬ。
という謎の名言を残しております。
そんな事はないだろと。笑
藤堂高虎が何度も主君を変える理由とは?
節操かない!ズル賢い!媚び野郎め!
藤堂高虎はこう言った周りの目は気にせず、自分の身を立てる事を第一として生きてきました。
忠義や意地に捕らわれ、戦国の激動の荒波に飲まれていく戦国武将がいる中藤堂高虎は決してその波に逆らわず、上手いこと波に乗って戦国の世を生きてきたかしこな武将なのであります。
世の情勢を見て利のある方へ行く!
勝ち組になりたいもん!
藤堂高虎が主君を転々とするのは、お家第一の信念…。
しかし、そう考えるのは誰だって一緒。
現代と同じで職場を変えるのは、そう容易いことではありませんでした。
ましてや、職歴がグダグダな怪しい人間をホイホイと出世させてくれるなんて優しい職場はそうそうありません。
藤堂高虎がこうも上手く出世できたのにはどんな理由があるのでしょう…??
藤堂高虎のここが凄い!高虎の出世術とは?
藤堂高虎が出世できたのは、とにかく主君からの信頼を得ていたという事が大きかったと言えます。
高虎は一度仕えた主君には、とことん誠心誠意忠義を尽くして仕える武将でした。
こんな逸話があります。
1614年、大坂冬の陣の時の事…
※大坂の陣は戦国時代最後の戦。徳川家康が豊臣家を完全に滅ぼした。
藤堂高虎のもとに、大坂の豊臣家から密書が届きました。
が、藤堂高虎はその密書の封を切らず、そのまま徳川家康に見せました。
その密書には、
約束通り豊臣家に協力してくれてありがとう!
今後もこちらに内通してくれたら恩賞も思いのままにあげるからね!
といった事が書いてありました。
これを見た家康の家臣達は、
藤堂高虎は信用できない!
殿を裏切って豊臣家に通じているのではないのか?!
と言いましたが、家康は…
高虎はそんなことをする男じゃない!
豊臣家のやつらめ、こんな事でワシを騙せるとおもうなよな。
高虎を全く疑うことなく信じました。
敵側から密書がきたら絶対中身気になるし、家康に見せる見せないにせよとりあえず中身の確認はしとくと思いますが、
高虎は堂々とする事で家康の信頼を得ていたのであります。
高虎は頭のキレる武将であり、実戦というよりは策略的な部分を得意とする頭脳派の武将だったとのこと。
仕事もできるし誠実、忠義心もある。
こういったところをアピールするのがとても上手な武将だったように思います。
時にはあざといくらいのアピール力大事だぞ!
現代人は見習えよ、出世できるぞ!
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藤堂高虎が徳川家康の信頼を得たもうひとつの理由
1600年、豊臣秀吉亡き後に起こった関ヶ原の戦いは…
秀吉がいなくなった今、日本最強の大名はワシやん?
豊臣家の跡継ぎはまだ幼いし、天下人の地位を手に入れる大チャンス!
豊臣家に長年仕える身としては、家康がトップの座につくのなんて許せない!
豊臣家の天下は私が守る!
といった感じで対立が起き、最終的に全国各地の大名を大勢巻き込んで起きた戦でありました。
関ヶ原の戦いあくまで豊臣家に仕える武将達による仲間割れから発展した戦であり、この時点で家康に味方したからといって豊臣家を裏切ったことにはならないのですが、
家康は秀吉が生前決めていた決まり事を無視したり、自分の権力を強めるような事をしていたので、豊臣家からすれば非難の対象となる人物でした。
しかし戦に負ければ領地や地位を失ったり、死に追いやられることもあるわけで、豊臣家に恩がある大名でも現実を考えて家康の味方につく者がおりました。
世渡り上手の藤堂高虎はというと、当然の如く徳川家康の味方についています。
しかし、藤堂高虎が他の武将達と違うのは、この14年も前から徳川家康に接近していたということであります。
これより14年前の1586年、徳川家康は一度『小牧長久手の戦い』と呼ばれる戦で秀吉と対決しているのですが、
高虎はこの時の戦で徳川家康を見て
徳川家康という武将、只者ではない!
いずれ必ず、この人は日本のトップに立つ大名になる!
と予感したか、徳川家康と密かにコンタクトをとって友好な関係を築いていたといいます。
この時の高虎にとって家康は、自分の勤めている所のライバル会社の社長だけど、憧れであり仲良くなりたい人といった感じだったと思われます。
そんな2人の間に信頼関係が芽生えた時の逸話があります。
藤堂高虎が豊臣家に仕えている時、高虎は聚楽第の邸内に徳川家康の屋敷を作る際の監督役に命じられたのですが、
※聚楽第は秀吉の築いた豪華な城であり邸宅。
高虎はその屋敷の設計図を見て、警備が薄いという欠点を見つけます。
そこで高虎がどうしたのかというと…
独断で設計を変えて自分の懐から費用を負担し、家康の為にセキュリティ対策万全の屋敷を作ったのでありました。
その結果…
完成した屋敷、最初に見せてもらった設計図と違うみたいだが?
警備に関して問題があったので独断で変更を加えました。
天下の武将である家康様にもしもの事があれば、我が主の面目も立ちません。
もしもいらぬことをしてしまったなら、遠慮なく私を処罰して下さい。
ヒ、ヒエ~ッッ。素晴らしい気遣い!
この子…有能!
高虎は家康の信頼を得たのであります。
自分の主君も立てながら、家康のことも立てるという素晴らしい立ち回り。
未来を知っていたかのような完璧な取り入れ具合。
先を見る目が凄いでしょ?
話が戻りますが、関ヶ原の戦いでは高虎が豊臣家に仕えていた事で敵の情報収集にも役立ったし、脇坂安治や朽木元綱といった豊臣家家臣を家康の味方につけるといった功績も残しております。
そして戦国時代最後の戦となった大坂の陣の後には、伊勢32万石の大名となりました。
長い時間を経て築いた信頼関係と、確かな働きがこの出世をものにしたのだ。
常に誠実であること、気遣いができるという事は大事だね~。
ちなみに藤堂高虎は、とても家臣に優しい人物であったと言われています。
人に仕えるというところでは高虎自身が苦労してきたのもあり、一度自分の元を去った家臣が『もう一度お仕えさせてください』と戻ってきても快く迎えていたんだとか。
部下には優しく!
いばりちらす上司はクソだと思うよな?
その他、高虎のあざと素晴らしい主君アゲの逸話漫画
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