豊臣家No1最強武将、福島正則をゆるりと解説!加藤清正との違いは?

豊臣家No1最強武将、福島正則をゆるりと解説!

おバカ可愛い猛将!福島正則をゆるりと解説!

福島正則は幼い頃から秀吉に仕えてきた豊臣家を代表する武闘派武将!


良くも悪くもまっすぐな性格で、とても人間味のある愛すべき武将なの。

 

ここでは福島正則の生涯や、関ヶ原でのお話、石田三成との関係などをゆるりと解説しているわよ〜っ!

 

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福島正則と豊臣秀吉の関係とは?

 

福島正則と豊臣秀吉、二人は従兄弟であり、濃い血縁関係にあったのです。

(政則の母と秀吉の母が姉妹であったと伝えられている。)

 

豊臣秀吉との年齢差は24歳。

福島政則は、幼い頃から秀吉の小姓として側で仕えてきました。

 

そして秀吉の妻であるねねには子供がいなかったこともあり、正則の事をとても可愛いがりよく面倒を見てくれていたといいます。

 

 

ねね様は母親のような存在なのだ。


 

農民という身分の低いところからスタートした秀吉には、織田信長や徳川家康のように代々仕えてくれているような家臣がいません。

 

そこからどんどん出世して沢山の武将を従える大名となった秀吉ですが、その大名たちの忠義の心は完全なるものではないし不安になる事もあったことでしょう…。

 

血縁関係もあり、家族のような絆で結ばれている福島正則は、豊臣秀吉にとって安心&信頼できるかけがえのない家臣だったのです。

 

福島正則と加藤清正について

 

なにかと福島正則と比較されたりセットで語られるのが、同じ豊臣家家臣の加藤清正という武将です。

 

加藤清正は福島正則ほど濃い血縁ではないけど秀吉とは親戚で、正則と同じく幼い頃から豊臣家に仕えています。

 

清正と正則は歳も近く、お互いのことを

 

 

虎之介〜


 

 

なんだい市松ぅ


 

なんて呼び合うほど仲が良かったそうです。豊臣家のニコイチ。

 

福島正則と加藤清正、どちらも豊臣家を代表する秀吉自慢の忠臣なのでありますが、清正は武勇に優れていたという評価の他に、築城の名人であるとか、肥後熊本での統治が素晴らしいとかの評価もあり、武将としての評価は福島正則より上と言えるでしょう。

 

福島正則というわかりやすい性格の武将

 

福島正則は非常に感情の起伏が激しい人でした。

 

気性が荒くキレると手がつけられないし、さらに酒癖も悪いので機嫌が悪い時はかなりタチの悪い輩と化していたのです。

 

しかしその反面、普段は人情深くまっすぐな性格で家臣にも慕われていました。

 

裏表がなく純粋で、わかりやすい人物といったイメージであります。

 

 

俺はどの武将に仕えても長続きしなかったのに、正則様と出会ってからは死ぬまで正則様一筋だったんだぞ。

 

それに正則様は善政を敷いていたゆえ、民にも慕われていたのだ!


 

福島正則は豊臣家を代表する猛将!

 

そんな福島正則はまさに猪武者!といったパワータイプの武将でありました。

 

戦の指揮官としては有能で、戦では常に前線で戦い数々の武功を上げてきました。

 

1578年の三木城の合戦では初陣にして兜首二つを上げる武功を立て、

 

1583年の賤ヶ岳の戦いでは、『賤ヶ岳の七本槍』と呼ばれる秀吉自慢の精鋭部隊の一員となり、一番槍に一番首を上げるという武功を立てています。

 

ちなみにこの賤ヶ岳の七本槍のメンバーは、

 

福島正則
加藤清正
脇坂安治(わきざかやすはる)
平野長泰(ひらのながやす)
加藤嘉明(かとうよしあき)
片桐且元(かたぎりかつもと)
糟屋武則(かすやたけのり)

 

…の七名です。

 

福島正則は、この中でも抜きん出た武功を挙げたので、他の6名が秀吉から3000石与えられたのに対して一人だけ5000石を与えられています。

 

 

その後も小牧長久手の戦い、四国征伐、九州征伐、北条小田原攻め、朝鮮出兵…と沢山の戦に参戦してるぞ!


 

初めは秀吉の小姓から始まり、武功を重ねていくうちに伊予・今治10万石の大名へ出世、そしてさらに、秀吉の晩年の頃には尾張・清洲20万石にまで出世しました。

 

 

誰の跡を継いだでもなく、秀吉様と共に天下取りの道を歩み、数々の戦で武功を重ね実力で大名に出世したのだ!

 

脳筋野郎とか粗暴とか言われるけど凄い武将なんだぞっ!


 

猛将、福島正則の短所・・・

 

戦となれば冷静に戦況を見極め、上手く指揮をとることのできる武将だった正則ですが、正直あまり頭がキレるというタイプではなく、策略には弱いという短所がありました。

 

良くも悪くも単純でピュアな正則は秀吉の死後、徳川家康の天下取りの企みを見抜く事ができず、不遇の晩年を過ごすこととなるのであります…。

 

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関ヶ原の戦い、福島正則はどうする?!

 

秀吉の死後に起こった関ヶ原の戦い、結果的には徳川家康が豊臣家を陥れて自分が天下人になったので

 

徳川家康が天下人になるために豊臣家家臣の石田三成と戦をした

 

といったイメージがありますが、関ヶ原の戦いはあくまで豊臣家家臣同士の喧嘩でありました。

 

 

秀吉様がいなくなったとたん好き勝手ばかりして、家康は豊臣家を乗っ取り自分が天下人になろうとしている!


 

 

違いますぅ〜言いがかりやめな〜。豊臣家のみんな助けて三成がいじめる〜。


 

 

豊臣家に仕える者同士で揉めてるぞ!みんなどっちの味方につくんだ?


 

こうして始まったのが関ヶ原の戦いであります。(ざっくり。笑)

 

そしてこの天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発するにあたり、福島正則は結構なキーマンだったのであります…!

福島正則は徳川家康に利用された?

 

福島正則は豊臣家一筋の武将です。

その正則が関ヶ原の戦いで徳川家康に味方したのはなぜなのでしょう…?

 

まず、福島正則は石田三成とソリが合わず、三成の事を嫌っていたからというのは有名な話です。

 

嫌いどころか、秀吉の死後には石田三成嫌いメンバー(加藤清正や黒田長政など)で協力して三成の暗殺まで試みたほどです。

 

石田三成は豊臣家一筋のクソ真面目な仕事人間だった。福島正則ら武闘派とは逆に、文系で戦場での槍働きというより秀吉の秘書といった仕事をしていた。
三成は正義感が強い故、朝鮮出兵の時の福島正則ら武闘派のダメなところを秀吉にチクったりしていた。秀吉にお叱りを受けた武闘派の武将はこの一件で相当三成に対して恨みを抱いたと言われている。

ちなみにこの暗殺計画は失敗している。うまいこと三成が逃げた。

 

しかし、三成が嫌いだから…というそんな単純な理由だけで家康に味方したのではありません。

 

仲は悪くても三成と正則が豊臣家に忠義を尽くす気持ちは同じ…!幼い頃から豊臣家一筋に仕えてきた同士ですもの。

 

この世から消し去りたいほど嫌いな相手といえど、もし『徳川家康は自分が天下人になるために豊臣家を潰すつもりだ!』と知っていたなら、手を組んで家康の野望を阻止するはずです。

 

しかし、徳川家康は表向きは豊臣家に臣従している大名として振舞っています。

 

福島正則は、よく言えば人を疑う心を持たないピュアな人、悪く言えばお馬鹿なので、家康の思惑には気づかないのであります。

 

それ故、正則は

 

 

なんとしてでも福島正則を味方につけたい…!


 

と思う徳川家康の策略に嵌ってしまったのです。

 

なぜ家康がそこまで正則を味方にしたいのかというと、武将としての実績も十分で、幼い頃から豊臣家一筋で忠義を尽くしてきた正則が豊臣家家臣達に与える影響は大きいからです。

 

 

俺は家康に味方するぜ!それが豊臣家の為だ!三成は悪!!


 

と言えば

 

 

正則殿が言うならそうなんだろう!ワシもそうしよう!


 

と賛同する武将達が必ずでてきます。

 

しかし豊臣家一筋の正則は、徳川家康が天下取りの為に石田三成を倒そうとしている…とわかれば家康の味方はしないでしょう。

 

家康は内に秘めた天下取りの野望を悟られる事なく、福島正則を味方につけなければならなかったのです。

 

そこで家康は、黒田長政に頼んで上手いこと福島正則を説得させました。

 

 

家康についたほうが良いよ。

三成が豊臣家のトップになったらさ、俺たち武闘派の武将はきっと冷遇されるし豊臣家がダメになっちゃうよ。

その点家康は俺たちのことをちゃんと評価してくれてるよ。


 

 

わかった!

三成嫌いだし豊臣家の行く末を考えれば家康のほうがいいのかもな!


 

福島正則にとって仕えるべきは豊臣秀頼であり、その下で石田三成が政権を握るのと、徳川家康が政権を握るの、どっちが豊臣家にとって良いのか?という事が大事なポイントでした。

 

福島正則は非常に純粋な男であり、まさか家康が後々これみよがしに豊臣家を蹴落としていくとは思っていなかったのです。

 

※ちなみに黒田長政は、次は徳川の世になると察して早くから家康の為に協力していました。豊臣家的には裏切り者ですね。

 

関ヶ原の戦いの後の福島正則は?

 

事情はどうあれ、福島正則は東軍として関ヶ原の戦いに参加して東軍の勝利に貢献しました。

 

 

ちなみ福島家家臣の俺は17も敵首を取り、関ヶ原の戦いに参戦した武将の中で1番の武功を挙げているぞ!


 

関ヶ原の戦いの後、福島正則は関ヶ原の戦いの功績により安芸広島に約50万石を与えられました。なんだかんだで大大名!
※徳川家康が豊臣恩顧の家臣達にこのような厚遇をしたのは、自分が天下人となった後に不満を持たせない為だったとか…。

 

そして関ヶ原の戦いから3年後の1603年、徳川家康は征夷大将軍に任命され江戸に幕府を開きます。

 

福島正則からすると

 

 

は?征夷大将軍?幕府?天下人?

 

は?は?は?


 

です。

 

 

秀頼様を日本のトップとして支えていくのではなかったのか?!騙された…!!


 

なんて思っても、もはや家康の権力は確固たるもので誰も文句を言えないのです。

 

石田三成も天国で

 

 

ほれ見ろ言わんこっちゃねぇ!気づけよ馬鹿っ!


 

と叫んだことでしょう。

 

しかし、徳川の天下となってからも福島正則の忠義は依然として豊臣家にありました。

 

それ故、徳川家康から福島正則は幕府に反旗を翻すかもしれない要注意人物としてマークされていたのです。

 

家康は徳川幕府の安泰の為、不安要素を完全に失くすべく1615年に大坂で戦をして豊臣家を滅亡させるのですが、福島正則が豊臣家と通じて幕府を裏切るかもしれない…と警戒して、正則を戦に参加させずに江戸でお留守番をさせていました。

 

 

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あまりにも可哀想な福島正則の広島改易事件…

 

1619年、福島正則は台風によって破損した広島城の改築をするのですが

 

 

勝手に城を改修したな!城の改築は幕府の許可なしにしてはいけないんだぞ!


 

と難癖つけられて安芸広島50万石から信州川中島4万5000石へ改易させられることとなってしまいます。

 

何が酷いって、福島正則はちゃんと徳川家家臣の本多正純を訪ね、城の改築許可を取っていたらしいのです。(口約束らしいが。)

 

つまりは嵌められたという事です。

この福島正則の改易は、幕府の厄介者払いであったと言われています。

 

完全なる徳川の世となった時、豊臣恩顧の家臣である福島正則は徳川幕府にとって目障りな存在、ゴリゴリの豊臣家の人間は徳川幕府にはいらない!という事ですね。

 

福島正則は関ヶ原の戦いで家康に味方した事を後悔し、

 

 

こんなはずじゃなかった…


 

と失意の中で晩年を過ごしたかもしれません。

 

川中島に移ってから6年後に福島正則は生涯を終えるのですが、その死因は自害であったとの説があります。

 

いい人は騙されやすいと言いますが、政則はまさに…といった感じで徳川家康にまんまと嵌められてしまい、悲しい末路を辿ってしまったように思います。

 

※ちなみに福島正則の死後、幕府の検死をまたずに火葬したと難癖をつけられ、正則の子・正利は所領を召し上げられ、3000石を与えられるのみになった。福島家はとことん幕府に潰されてしまったという…。

 

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