石田三成の朝鮮出兵!なぜ嫌われ者になってしまった?
とにかくまっすぐな性格の石田三成、ハートフルなエピソードを見ている限りでは誰からも好かれそうな良い人に見えるわよね。
でも、三成は自分から人に好かれにいくようなタイプではなかったと思う。
あまり多くを語らない、だから誤解される事もある。
きっとマジメでまっすぐな性格が『嫌な奴』になってしまう事があったのでしょうね。
今回はなぜ石田三成が嫌われ者と言われてしまうのか?といった事や、武将達との確執を生んだ朝鮮出兵での出来事などをゆるりとご紹介~!
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三成は『職場にちょっと面倒くさい人がいる』と言われるタイプ?
石田三成は主に内政面で活躍していた武将。
そして三成を嫌っていた事で有名な加藤清正、福島正則らは戦場での働きを主として、第一線で活躍していた武将でした。
同じ職場でも部署が違うイメージですかね。
石田三成は主に戦の計画や準備などを担当し、戦場で働く武将達のサポートや連絡係りなんかをしていたわけです。
そして現場の様子を秀吉に報告するのも三成の仕事…。
マジメな石田三成は、武将達が命令違反を侵したり、ちょっとでも問題行動があればそれを事細かく秀吉に報告しておりました。
三成は役割を果たしただけにすぎませんが、
石田三成がチクったせいで秀吉様に怒られた!
と武将達から恨まれる事がしばしばあったのであります…。
ケース①石田三成、加藤清正の恨みを買う
1592年、文禄の役(朝鮮出兵)…
石田三成はこの朝鮮出兵でも主に現場の支援、連絡係り、現場報告といった役割を任されていました。
一方、朝鮮に派遣された武将の中で特に目覚ましい活躍を見せたのが加藤清正でありました。
加藤清正はこの朝鮮出兵で気合いを入れすぎたか、先鋒隊を務める小西行長を差し置き、グイグイ朝鮮の地を侵攻していました。
清正は朝鮮の王子を捕らえ、明の国境付近にまで進出…
清正同様に先鋒隊を務めた小西行長も明に近い平壌まで進出するのですが、小西行長はここで敵に急襲されてしまいやむなく撤退する事になります。
そしてその後は
武力で明を制圧するのは厳しい。
和睦の方向で話を進めよう。
それがいいね。
とのことで、明への侵攻はいったん保留として和睦交渉が行われることとなりました。
主戦派の加藤清正は
明を制圧しろという秀吉様の命令に反している!
ここまでやってきたのに撤退するとかありえんだろ!
石田三成ら和睦推進派の意見に賛同できず。
そんな加藤清正に石田三成は…
三成殿~!
清正うるさい、和睦交渉の邪魔だよぅ!
ちゃんと状況考えてもらわないと困るよねぇ。
秀吉様に清正が自分勝手な事ばっかしてるって報告するわ。
清正の行動に問題アリと秀吉に報告。
何やってんだ清正!
国へ戻ってこい、悪いことしたなら謹慎だな。
清正は秀吉から国へ戻るよう命じられ、謹慎するよう言い渡されました。
こっちは命がけで戦ってるのに!
そんなに自分の手柄が大事か!腹立つ!
もともと性格的に合わなかったのかもしれませんが、三成はこの一件でかなり清正から恨みを買ってしまったようです。
ケース②石田三成、黒田長政の恨みを買う
1597年、慶長の役(二度目の朝鮮出兵)では…
日本軍は朝鮮の蔚山(ウルサン)という地で戦をするのですが、ここでかなりの苦戦を強いられました。
加藤清正ら日本軍が約1万の兵で籠る蔚山城に、5万を越える朝鮮・明連合軍が攻めてきたのであります。
兵力差も凄いし兵糧も尽きそう!
日本軍大ピンチ!
という時に、別隊の黒田長政や加藤嘉明などが援軍に来て難を逃れることができたのですが、
この騒動の後、黒田長政は
敵がめっちゃ攻撃してきたのに、黒田長政の隊がろくに応戦してなかった。
と、戦でのワンシーンを奉行衆にチクられてしまいました。
これを秀吉にチクったのは石田三成ではないのですが、
これは大問題ですぞーっ!
戦の最中に怠けるなんてありえなーい!
と騒ぎ立てた結果、黒田長政は
日本へ戻れ、しばらく謹慎だ!
反省しなさい!
とお咎めを受けることになってしまったのです。
ちゃんと状況を見て戦ってたし!
三成なんか戦にでてないし何も知らない癖に!腹立つ!
ケース③石田三成、小早川秀秋の恨みを買う
そして関ヶ原の裏切り者でお馴染み、小早川秀秋も石田三成との間に確執が生まれる事件が…。
小早川秀秋、実は慶長の役で日本軍の総大将をつとめておりました。
小早川秀秋はこの時16歳。
さしたる経験もない若僧がなぜ総大将に…??
なぜなら小早川秀秋は秀吉の妻の甥っ子であり、秀吉が養子にして可愛がっていた特別な子。
こういった事情もあり、秀吉はこの戦で秀秋に花を持たせてあげたかったのだと思います。
それはさておき、総大将といえば普通は先頭に立って戦ったりするなど危険な事はしないものですが、
小早川秀秋はこの蔚山城の戦いで自ら先頭に立ち、味方の援護をしていたそうです。
小早川秀秋的には
凄いでしょ!?
頑張ってるでしょ!?
やればできる子でしょ?!
といったアピールをし、自分の活躍を秀吉に褒めて欲しかったんだと思いますが、これを聞いた三成は
総大将っていう立場わかってる?
そんな危険な事するなんてありえない。何考えてるの?
と小早川秀秋に軽く説教かまし、秀吉にも報告したのでした。
何やってるの秀秋ちゃん…。
まだまだ子供ね。
と言ったかはわかりませんが、秀吉は褒めるどころかお怒りモード。
小早川秀秋はこの一件で石田三成に憎しみを抱いたと言われております。
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もしも豊臣家家臣達がみんな仲良しだったら・・・
…と、こんな感じで石田三成は、朝鮮出兵のチクリ魔となっていたのであります。
とは言っても報告は義務だし、実際チクられるような事をした本人も悪い。
三成が憎まれ役となってしまうのは仕方がない事ですが、
戦場で苦労している人間の気持ちを考えたことあるのか?
少しは我々の気持ちを考えて擁護する気にはならんかね?
三成が恨まれるのはこういったところでしょうね。
『仕事をキッチリ真面目にこなす』『悪い事をするのはダメ!』という正義感が強すぎて、融通がきかない人物であったのは確かかと思われます。
石田三成が少々の事は目をつぶって、
黙っといてやるけどあんまり危険な事するなよ?
バレちまったら俺まで秀吉様に怒られるからな。
なんて事が言えるタイプだったなら、加藤清正ら武闘派武将と仲良くやっていけたのかもしれませんね。
そんな仲良しこよしで結束力の強い豊臣家であったなら、秀吉の死後に徳川家康が天下を狙っていても…
家康が天下を狙ってるかも!
あいつは狸親父だ!
みんな騙されるなよっ!
我々が協力して豊臣家を守らねば!
みんながいれば怖いもんなしだねっ!
これからもみんなで仲良く秀頼様を盛り立てていこうね!
あーん!
豊臣家に付け入る隙がないよう。
…こんな感じになって、関ヶ原の戦いなんかも起こらなかったかもしれません。
しかし石田三成は秀吉の死後、同じ豊臣家の武将達に殺害されかけたくらいだし、本当に一部からは余程嫌われていたんでしょうね。
※石田三成襲撃事件…加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興などが結束して三成の屋敷を襲撃した。
現代でも『職場にすげぇムカつく奴がいるの!』みたいな話はよく聞くし、
記録に残ってないところでも、三成はチョイチョイ武将達をイラつかせていたのかもしれませんね。
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