石田三成の最大の魅力は、なんといってもその人柄にあると思うの。
でも関ヶ原の戦いの時に、石田三成を嫌う武将達が徳川家康の味方についたり、土壇場で裏切られたりなんかもして『石田三成は嫌われ者』なんてイメージもついちゃってるのよね。
ここでは石田三成の性格や人柄、心温まるエピソードや、嫌われ者となってしまった理由なんかをゆるりと解説しているわよ!
そう、知れば必ず好きになるのが石田三成という武将なのよーっ!!
スポンサードリンク
石田三成の性格、人柄について
石田三成はとにかくマジメでまっすぐな性格と評される事が多いです。
確かに三成の逸話を見る限り、あまり冗談を言うようなタイプではなく、特に仕事に関してはかなりマジメで厳しい印象を受けます。
悪く言えば融通のきかない頑固者といった感じ。そういった面で職場の同僚から憎まれることも多かったようです。
関ヶ原の戦い勃発前には大谷吉継に
三成、お前の名前じゃ人がついてこないから総大将にならないほうがいい。
なんて言われるほど。
どんだけ人望ないんや・・・。
なんだか嫌われ者のイメージが強い石田三成ですが、実はとっても心優しい人物であり、その人柄に触れた人はみんな三成の事を好いていたのであります。
三成の大親友!大谷吉継との絆に感動エピソード
大谷吉継が、
一生、三成についていこう・・・
と思った有名なエピソードがあります。
今さら言われなくても知ってる!っていうくらい有名ですがあえて書きます。笑
それは、とある時のお茶会でのこと・・・。
秀吉の点てたお茶を、家臣達で回し飲みをするという事がありました。
そこでちょっとした事件が起きます。大谷吉継は、らい病(ハンセン病)という病を患ってたのですが、
大谷吉継がお茶を飲む時に、その病の症状で顔の膿(鼻水とも)がお茶に垂れてしまったのです。
(うわぁ・・・。これはキツイ。)
口には出さないものの、武将達はそれを目撃していました。
大谷吉継の後に回ってきた者は、みな飲むフリをするだけでお茶に口をつけませんでした。
(死にたい…(´;ω;`))
そんな武将達を見て大谷吉継は、屈辱に震え、なんともみじめな気持ちになりました。
そして石田三成にお茶が回ってくると…
ゴクゴクゴクゴク。
ちょ、飲み過ぎ。
すいません、秀吉様の点てたお茶が美味しすぎて全部飲んじゃいました。
!!
皆が無言で大谷吉継を拒否するなか、三成だけは吉継の気持ちを察してお茶を飲みほしたのです。吉継が恥をかかない為に。
(何があってもこの人についていこう。この人になら命を懸けてもいい。)
この日、大谷吉継は心の中でこう誓ったのでした。
そしてこの日の誓いの通り、関ヶ原の戦いでは命を懸けて石田三成に尽くしています。
三成が
徳川家康と戦をする!
と言い出した時は、
あまりにも無謀すぎる。考え直せ。
と何度も三成を説得しました。
それでも戦をすると言う三成に、大谷吉継は知恵を絞り、西軍が勝利する為の策を考え三成に沢山アドバイスしました。
三成は時々、人を不愉快にさせてしまう事があるようだ。それゆえ陰口を叩かれる事もある。
先頭に立って、事を成すには人気がなければ難しい。
毛利輝元や宇喜多秀家を上に立てて、お前は参謀役として裏で動くのが良い。
そしてお前は才覚はあるが、今ひとつ勇気が足りない。
誰よりも一番に命を投げ捨てる覚悟で戦に挑め。
このような厳しい意見、アドバイスも三成を思ってこそ・・・。
関ヶ原の戦いの頃、大谷吉継は病気が悪化して歩くのもままならない状態であったそうです。
それでも輿に乗り、関ヶ原の地に出陣。
そして小早川秀秋を要注意人物と見て、隣に布陣していました。
戦が始まると大谷吉継の嫌な予感は的中、小早川は西軍を裏切り、大谷隊に突撃してきました。
追い詰められた吉継は、首だけは敵に渡すまいと切腹し、42歳で生涯を終えることとなります。
スポンサードリンク
島左近が欲しい!石田三成の熱烈なラブコール!
石田三成は官僚としては優秀であったけど、戦においては今ひとつ・・・といった感じでした。
事務的な仕事はバッチリだけど、戦の作戦立てたり指揮したりは苦手・・・。
これを補ってくれるような家臣がワシにもいてくれればなぁ・・・。
なんて思っている時に耳にしたのが島左近(しまさこん)という男の名前でした。
島左近は今まで誰に仕えてきたか?どんな人生を歩んできたのか?そういった記録がほとんど残ってないらしく、謎の多い人物です。
しかし、『島左近は強いし戦術に長けためちゃ有能な人物!』と有名だったらしく、色々な大名からスカウトを受けていたようです。
が、島左近はそのスカウトをことごとく断っていたようです。
島左近、誰の誘いも受けないらしいが・・・ダメ元でスカウトするぞっ!!
申し訳ありませんが、今は誰に仕えるつもりはありません。
石田三成も島左近にフラれてしまいました。
そこをなんとか!どうしても君が欲しい!
ワシ、今4万石もらってるんだけど、この半分の2万石を君にあげる!
半分?!そこまでして私を必要としてくれるのですか?感激(´;ω;`)///
誰にもなびかなかった島左近ですが、三成のあまりの熱意に心を打たれ、ついに士官することを決めたのでした。
三成に 過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城
※島左近ってマジすげぇ人物なんだ!あと佐和山城も立派すぎ!どっちも三成にはもったいねぇ!
と言われるほどに、島左近は優れた人物でありました。
戦が苦手な三成も、島左近が家臣になってくれたおかげで怖いものナシとなったわけです。
ちなみに島左近、その最後も謎めいていて、関ヶ原の戦いで討ち死にしたとも言われているし、京へ逃亡して生き延びたとも言われております。
渡辺勘兵衛と石田三成、胸熱感動エピソード
戦国時代、渡辺勘兵衛という武勇に優れた事で有名な武士がいました。
この渡辺勘兵衛という男、
俺は10万石じゃないと誰にも仕えるつもりはない。
と公言しており、柴田勝家が1万石、豊臣秀吉が2万石でスカウトしたことがあるのをどちらも断ったという強者です。
渡辺勘兵衛!是非ともワシの家臣になってほしい!!
石田三成も渡辺勘兵衛をスカウトしました。
しかし、この時の石田三成の石高は500石。まだまだ武将としては駆け出しの小身者です。
悪いけど俺は10万石って決めてるの。
ワシはいずれ100万石の大名になる。その時に必ずお前に10万石やるぞ。
それまではワシの500石、全部お前にやる!
全部??それじゃアナタ食っていけないじゃないですか。
うん。だからしばらくお前の居候になる。
(そこまでして自分の事を必要としてくれるなんて・・・(´;ω;`)///)
OK!出世払いでヨロシク!!
石田三成は、柴田勝家や豊臣秀吉にもなびかなかった男を見事にゲットしたのであります。
そしてその後、石田三成はグングン出世を重ねていきます。
出世したぞ!勘兵衛、お前のお給料も増やしてあげようと思ってるんだ!
結構です!三成様が100万石の大名なったら10万石貰うんだもん。
渡辺勘兵衛は最初の約束を頑なに守り、いくら三成が出世しても500石を貫き通しました。
そして時は流れて関ヶ原の戦い・・・渡辺勘兵衛もこの戦に参戦。
知っての通り、石田三成率いる西軍は敗北、渡辺勘兵衛もこの戦で大怪我を負ってしまいます。
武勇で知られた勘兵衛ももう終わりか。最後に三成様に会いたい・・・。
渡辺勘兵衛は、今生の別れをすべく石田三成のもとへ行きます。崩れゆく戦場の中で三成は
お前の10万石も夢となってしまったな。
と勘兵衛に言葉をかけました。
渡辺勘兵衛は、最後の最後まで自分の事を気にかけてくれた三成に感謝し、その生涯を終えたといいます。
スポンサードリンク
石田三成の関連ページ
三成は朝鮮出兵で何したの?なぜ三成は嫌われ者になった? | 石田三成の関ヶ原!最後に涙・・・西軍はなぜ負けた? | 徳川家康激おこの直江状を超ざっくり現代語訳で解説! |
関ヶ原の戦い勃発!武将達の葛藤、複雑な状況とは? | 農民から天下人へ!豊臣秀吉の生涯、功績をゆるりと解説! | 大谷吉継の基本スペックや子供達の行方をゆるりと解説! |
スポンサードリンク
くうはく埋め くうはく埋め
楽しんでいただけたらイイネ!