毛利元就と息子達!役割や功績、三本の矢の逸話の真実について!

毛利元就と息子の隆元・元春・隆景についてゆるりと解説!

徳川家康 ラインスタンプ

毛利元就の3人の息子!個々の活躍が素晴らしい!

毛利元就には男子9人、女子3人と沢山の子供がいたの。

 

その中でも絶対にはずせないのが長男・次男・三男の3人!


 

毛利元就の中国統一の覇業に大貢献し、元就の死後も全力で毛利家を支え続けたのよ~!

 

ここではそんな毛利元就の息子達の個性や功績、『三本の矢』の逸話の真実なんかをゆるりと解説!

 

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毛利元就の息子、隆元・元春・隆景をご紹介!

 

長男・毛利隆元(たかもと)

 

長男・隆元は早くから家督を継いで毛利家の当主となりましたが、実際に毛利家の実権を握り指揮をとっていたのは父・元就でした。

 

残念なことに、隆元は元就が現役でバリバリ活躍している時に亡くなってしまったので

 

隆元

 

当主とは名ばかり…ワシ、大した仕事してない…。

戦で活躍するのも父や弟達だし。

 

ええ、わかってます…

自分の才覚が弟達に劣る事は自覚しております…。


 

といった感じのまま、パッとした功績を残す事なく人生を終えてしまいました。

 

ちなみに、毛利元就は隆元の事を

 

 

隆元は生まれつきふがいない性格。

才能もないし不器用な人間。


 

と酷評しております。

自分の息子に酷い言いよう…!

 

このように、なんだかパッとしないのが長男の隆元であります。

 

が、しかし、

 

隆元は地味ながら内政面で優れた仕事をしており、何気にその評価は高かった模様。

 

毛利元就や弟の元春、隆景達が戦の作戦を立てたり戦場で指揮をとったり…といった活躍をしている裏で、隆元は国人達に援助を頼んだり、戦の資金集めや兵糧の調達などを請け負っていたりしていたのですが、

 

これが隆元の死後、今まで隆元がしてくれていた仕事が元就や弟達ではうまくいかず資金繰りに困り、毛利家は財政難に見舞われるという事があったそうな。

 

隆元が何の問題もなくやってきたことが…

 

 

戦するから軍資金とか兵糧の援助お願い。

礼ははずむよ~!


 

 

隆元さんは誠実な人だから協力できるけど、元就さんは人の事騙したりするしなぁ…。

 

まぁ…少しなら援助してあげてもいいけど・・・。


 

こんな感じでスムーズにいかなくなってたんだとか。

 

 

隆元は国人達からかなり信頼されていたみたいね。

隆元がいなくなって毛利家の信用度がまさかのガタ落ち…。


 

弟達

 

隆元兄さん一人欠けるだけでこんなに苦労するとは…

何気に有能だったのね…(´;ω;`)


 

いなくなって初めて隆元の存在の大きさに気づくという…。

隆元は縁の下の力持ちってやつですね。

 

次男・吉川元春(きっかわもとはる)

 

毛利元就の次男・元春は、安芸の国人・吉川氏の養子となったことで『吉川元春』と名乗るようになりました。

 

 

吉川家をものにしたいワシは元春を吉川家の当主に立て、後に養父である吉川興経を殺害したのである。


 

ちょっと悪どい方法で吉川家の当主となったんですね。

 

しかしさすがは毛利元就の息子…

その後、元春はしっかりと吉川家の当主を務め、主家である毛利家を盛り立てる為に力を尽くしてきました。

 

そして吉川元春は策略家の父とは逆に、戦場での働きを得意とする勇猛果敢なタイプの武将でした。

 

元春の猛将っぷりを示すのに、

 

羽柴秀吉が毛利軍の10倍もの大軍で中国地方に攻めてきた時、自分達の退路となる橋を切り落として決死の覚悟で戦いに挑んだ

 

なんてエピソードがあります。

この時はさすがの秀吉も

 

 

こいつらの覚悟…ヤバすぎでしょ…。


 

との事で、戦う事なく兵を退いたそうです。

※ちなみにこれは鳥取城が落城した後に起こった出来事。

 

こういうエピソードだけ見ると、吉川元春は豪胆な性格でパワータイプの武将と思っちゃいますが、

 

元春は戦術に長けた知恵者でもあり、生涯で76度戦を経験して負けた事が一度もないというかなりの戦上手でありました。(引き分けは何度かある)

 

 

元春は毛利が誇る最強武将なのだ

『鬼吉川』なんて呼ばれてたんだから。


 

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三男・小早川隆景(こばやかわたかかげ)

 

毛利元就の三男・隆景は安芸の国人・小早川氏の養子となり『小早川隆景』と名乗るようになりました。

 

元春が元就の陰謀で吉川家当主になったのとは違い、跡継ぎのいなかった小早川家サイドの希望で隆景は養子となり、その流れで当主になっております。

 

 

小早川家は瀬戸内海に水軍を持つ大きな勢力!

毛利家にとっても良い話であったね。


 

そして小早川隆景はTHE・知将といった頭の良い武将で、的確な情報判断に優れた外交力で毛利家を支えてきました。

 

 

厳島の戦いの時、村上水軍を味方につける事ができたのも隆景がうまく交渉してくれたおかげなのだ。

 

これらの水軍と毛利の陸軍で敵を挟み撃ちにし、見事勝利を得たのである!


 

元就の死後、羽柴秀吉が中国に攻め入ってきた時も小早川隆景はいち早く状況の不利を悟り、和睦にむけて秀吉とコンタクトをとったといいます。

(和睦交渉中に本能寺の変が起きた事で、秀吉はパパッと毛利と和睦を結んでいる。)

 

武将として有能、それに加えて隆景はとても温厚で律儀な性格&かなりの人格者で人望も抜群にあったそうです。

 

そんな小早川隆景の事を秀吉は凄く気にいっていたようで、隆景は九州の筑前・筑後37万石の大名に取り立てられたり、

 

徳川家康や前田利家と並ぶ豊臣政権トップの役職『五大老』に任命されるなどかなり厚遇されておりました。

 

毛利元就といえば『三本の矢』!この逸話の真実

 

中国地方の覇者となった毛利元就は晩年、病の悪化で死期を悟ると3人の息子達を集め、息子の数と同じ本数の矢を持ってこさせてこう教えを説きました。

 

 

矢は一本だと簡単に折れてしまう。

でも三本を一つにすれば、こんなに細いものでもなかなか折ることができない。

 

これは人にも同じ事が言える。兄弟三人、力を合わせて毛利家を守っていくのだぞ。


 

毛利元就が一族の団結力の大事を説いたこの『三本の矢』の教えはかなり有名ですね。

 

そう、毛利元就といえば『三本の矢』!ってくらい有名かと思いますが、残念な事にこの逸話は創作である可能性がめちゃ高いそうな…!

 

元就が死の間際の遺言として教えを説いた…というのがこの逸話ですが、毛利元就が亡くなる8年も前に長男・隆元は亡くなっているんですよね。

 

 

ワシの死の間際隆元おらんかったんかーーーい!

この逸話嘘なんかーーーーーい!

 

っていう話になっちゃうわけなんだけど、『三本の矢』の逸話の元となった史実がちゃんとあるのだぞ。↓


 

元就が亡くなる14年前に、元就は息子達にこのような書状を送っています。

 

 

三人が仲違いをするような事があれば、いずれ毛利は滅ぼされてしまうだろう。

皆で力を合わせ、本家毛利を立てていくように。


 

矢の話こそでていませんが、テイストは『三人の矢』の逸話と全く同じ!

 

この元就の教え通り、小早川隆景、吉川元春は主家である毛利家を支え続けました。

 

そして毛利家当主が元就の孫・輝元に変わってからも小早川家、吉川家の体制は変わらず・・・。

 

豊臣秀吉が毛利家を乗っ取るべく、自分の養子(後の小早川秀秋)を毛利輝元の養子にしようとした時には

 

小早川隆景

 

子供欲しかったんですよ!

その子、小早川家の養子にください!


 

と毛利家乗っ取りのピンチを救い…

 

関ヶ原の戦いで毛利輝元が西軍の総大将に担ぎ上げられた時には

 

吉川広家(元春の息子)

 

輝元は無理矢理総大将に決められてしまったのです。

私は戦で家康様に協力致しますので、どうか輝元をお許しください。


 

と、主家である毛利家安泰の為に奔走しておりました。

 

しかし、徳川家康は関ヶ原の戦いの後に

 

 

総大将は総大将だし。

毛利輝元をお咎めなしにはできない、所領は一部没収!


 

とのことで毛利家の領地を大幅カットしてしまいます。

 

中国の覇者として君臨していた毛利家は、関ヶ原の戦いの後に120万石から30万石の大名家に転落してしまったのであります。

 

ちなみに、この関ヶ原の戦いが起こった時には隆元・元春・隆景の3人は亡くなっておりました。

 

有能な元就の息子達が存命していたなら、きっとこんな事にはならなかったはず…!?

 

 

輝元はちょっっぴり出来の悪い子…なのかなぁ?


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