毛利元就の下剋上事情!大内氏&尼子氏との関係、幼少期のエピソードを解説!

毛利元就の下剋上事情!元就はどうやって戦国大名になった??<

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毛利元就の下剋上事情とは・・・??

毛利元就はたった一代で毛利家をいち国人領主から中国10カ国を支配する大大名家へと成長させた超~すごい人物!


 

ここではそんな毛利元就がどう頭角を現していったのか、中国地方で勢力を誇っていた尼子氏や大内氏との関係や下剋上の行方なんかを解説しているわよ~っ!

 

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不幸だった幼少期…悔しさをバネに野心家に??

 

1500年、毛利元就が3歳の時、兄・興元が家督を継いで毛利家当主となりました。

 

元就は父の隠居先である安芸国の猿掛城という場所へ共に移るのですが、そこから元就は不幸と苦難に見舞われることとなります。

 

最初の不幸は母の死、元就が5歳の時でした。

 

さらにその5年後、父・弘元も死去。
元就は家臣らの補佐を受けて日々を過ごすのですが…

 

1507年、井上元盛という家臣が元就が幼いのをいい事に強引に所領を強奪。

元就や父の側室ら城から追いだされてしまいました。

 

 

まさかの仕打ち。

住む家もなく、路頭に迷い貧しい生活を強いられることとなってしまったのだ…。


 

この貧しい生活を支えてくれたのが、父の側室であった杉大方(すぎのおおかた)という女性。

 

杉大方は実母を早くに亡くした元就の育ての親となり、城を追い出され路頭に迷う事になってしまった時も元就を見捨てることなく、懸命に側で支えてくれたのであります。

 

 

実家に帰ることも再婚することもせず、ワシの為に身を捧げてくれた優しい人なのだ。


 

思いがけない身内の死、元就は毛利家の当主に!

 

貧しい生活を乗り越えた元就…

杉大方の懸命なフォローにより、兄・興元(おきもと)の許可をもらい14歳で元服することができました。

 

そしてその5年後、その興元が急死。

その跡を継ぎとなる兄の嫡男・幸松丸(こうまつまる)はまだ幼い為、元就が補佐して毛利家を支えていくことに。

 

…が、幸松丸もしばらくして死去。

 

その後、毛利家の跡継ぎ候補に元就と弟・元綱の名が上がるのですが…

※元綱は元就の腹違いの弟

 

元綱

 

当主になりたい…

元就兄さんを暗殺してやる…!


 

戦国時代ではよくある家督争いが起こりそうな予感…!

 

 

なんか企んでる気がする…

先手必勝で元綱をやっちまおう!


 

察しの良い元就はすぐさま家臣に元綱の居城を攻めさせました。

 

そしてパパッと元綱と反元就派の家臣らを消し去ることに成功。

見事、毛利家当主の座をゲットしたのであります。

 

ちなみに興元と幸松丸の死には不審な点が多いらしく、まさか元就が二人の死に関与していたのでは…??という疑惑があるようです。

 

この件の真相は謎ですが、後に毛利元就はそこそこ非情なやり方で下剋上していく&野心強めなのであながち有り得なくもないかも…?

 

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戦国時代を生きる!毛利元就の快進撃が始まる

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※当時、中国地方で勢力を誇っていたのは尼子晴久や大内義隆だった。両者の狭間に位置する安芸の国人達は情勢を見ながら臣従と離反を繰り返し、なんとか戦国の世を生き延びているという状況。

 

のちに中国の覇者たるビッグな大名になる毛利元就…

 

ですが、元就が家督を相続した頃の毛利氏は安芸のいち国人領主であり、尼子氏の傘下に入っていた弱小勢力のひとつでありました。

 

 

しかも当主となったばかりのワシは家臣からナメられており、命令を聞き入れてもらえないどころか謀反を起こされたりして大変だったのだ…。


 

この時点では安芸一国を統一するのはおろか、国人達や家臣団を従えるのも厳しい状況。

 

しかし

 

 

ビッグになるにはまず、毛利家の地盤を固めねば。

確実に、丁寧に、慎重にステップアップしていくのである…!!


 

毛利元就は焦りません。

 

策略や調略を用い、忍耐強く相手が隙を見せたり弱まるのを待ちます。

 

元就が毛利家当主となったのが1523年、

毛利家が大名として独立するのが1555年。

 

大名として独立するまでかかった期間、およそ32年…!

 

中国の覇者になるまでではなく、独立するまでで32年!

 

 

時間はかかっても良いのだ。

確実に、下手な博打は決して打たず。

慎重に物事を進めて確実なる勝利をね。


 

毛利元就が独立するまでにやってきた事

長男・隆元(たかもと)を大内義隆の元へ人質に送った。跡継ぎを差し出したことで大内氏からかなり信頼されていたらしい。

 

次男・元春を安芸国人・吉川興経の養子にして後に当主の座につかせた。そして吉川興経とその息子を後に殺害し、吉川家を強奪した。

 

三男・隆景を安芸国人・小早川家の養子にし、隆景は小早川家当主となった。

 

元就に反抗的で毛利家家臣の中でも権威を持っていた井上元兼(とその身内)を粛清し、家臣団を統率した。

 

力をつけてきたところで大内氏と決別。後に起こった厳島の戦いで綿密な策を巡らせ完全勝利、見事下剋上を果たして戦国大名へとのぼりつめた。

 

 

鳴かぬなら 待つし場合によってはころすし確実に鳴かせてみせるぜ ホトトギス


 

といった感じでしょうか。

戦国屈指の策略家だけあって頭キレるし行動力も素晴らしい。

 

そして『凄い人』だけど結構『悪い人』でもある。笑

 

超簡単に大内氏と尼子氏との関係、歴史の流れを解説

 

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1523年、毛利元就が当主に!この頃はまだ尼子氏の下についていた。

 

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当主になってから二年後、大内氏へ鞍替え。

それからは大内義隆の配下として尼子派の勢力と戦をすることになる。

 

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1551年、大内義隆が家臣の陶晴賢(すえはるかた)に謀反を起こされ死去、大内氏の実権を陶晴賢が握る。

毛利元就は陶晴賢を支持、変わらず大内派として協力を続けた。

 

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その後、陶晴賢と決別。

1555年に厳島の戦いで陶晴賢を亡き者として大内氏の領土をゲットした。

 

毛利元就は安芸の国人から一気に尼子晴久と並ぶ大名に!

 

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1566年、第二次月山富田城の戦いで尼子氏に勝利。

 

尼子氏滅亡でついに毛利元就が中国の覇者に!

一代でこの大勢力を築き上げたのはかなりの偉業!

 

そしてこれから5年後の1571年、毛利元就は居城・吉田郡山城で死去。(老衰とも病死とも)

 

 

享年75、毛利家躍進の為にひたすら駆け抜けた人生…!


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楽しんでいただけたらイイネ!

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