木村重成という大坂の花!逸話から垣間見えるイケメンぶりに心震える

木村重成という大坂の花!逸話から垣間見えるイケメンぶりに心震える

徳川家康 ラインスタンプ

木村重成という大坂の花!逸話から垣間見えるイケメンぶりとは

木村重成

生涯 1593年?~1615年
出身 日向(?)
全盛期 3000石
主君 豊臣秀頼
思い出の戦 大坂冬の陣、大坂夏の陣
木村重成といえば イケメン、いい匂い、美しすぎる最後

 

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戦国最後のイケメン武将!木村重成をゆるりと解説

木村重成と書いてイケメンと読むくらい私の中でイケメンのイメージが強い木村重成!


 

この方、23歳という若さで亡くなってしまってるので多くはエピソードが残ってないよのね。

 

活躍したのは戦国時代の最後の最後、大坂の陣!

豊臣家に忠義を尽くし儚く散った美しい武士、木村重成をゆるりとご紹介~!

 

木村重成は豊臣家家臣!逸話から垣間見える人物像とは

 

木村重成の出自については謎に包まれており、生年月日も出身地も定かでなければ父親も『豊臣家家臣・木村重茲(しげこれ)という人物だと思われる』といった程度…。

 

1593年に生まれたとの噂があるので、これが正しければ重成は関ヶ原の戦いの時にはまだ7、8歳ほどというかなり若い世代の戦国武将であります。

 

重成が生まれたのは豊臣秀吉が天下統一した後、戦のない平和な時代ではあったのですが、

 

豊臣秀次付きの家老だった重成の父は、秀次事件の時に連座して罪に問われ自害に追い込まれるという、全く平和的でない最後を遂げておりました。

※秀次事件…秀吉が自分の息子が生まれた後、甥の秀次に謀反の疑いなどをかけ悪者扱いし、自害に追いやった。秀次の家臣や身内なども連座して自害したり処刑されている。

 

詳細は謎ですが、この時重成はまだ幼かったのもあり助命されたようです。

 

 

しかし私の兄、姉にあたる人物は巻き込まれて死においやられたという…。


 

命拾いした重成は後に大坂城に招かれ、豊臣秀頼(秀吉の息子で跡継ぎ)の小姓として豊臣家に仕えるようになったといいます。

 

重成と秀頼は同じ年の生まれであるし、兄弟もしくは友達みたいな感覚で育ってきたかもしれませんね。

 

 

実は私の母が秀頼様の乳母を務めていたんだ。

それもあって結構優遇されてたし、秀頼様は私の事をとても信頼してくれていたんだよ。


 

ちなみに、重成の性格や雰囲気については器量が良いだとか、物腰柔らか目の好青年だとか言われているようなので、仕事もできて好感度も高い人物であった事が予想されます。

 

しかし、

 

茶坊主が重成に対して無礼を働いた時に

 

 

本来ならお前を斬り捨ててやるべきだが、それをすると私も両成敗にて腹を切らされてしまう。

今は秀頼様の一大事、お前なんかの為に死ぬわけにはいかん。


 

と薄っすら笑って言った…なんて逸話があるので、結構気の強い人物でもあったと思われます。

 

そしてなんといっても、木村重成はイケメンであったというのははずせない話題であります。

 

顔良し、雰囲気良し、忠義良し、武士としての心意気良し、ついでに戦でもちゃんと活躍してるというパーフェクト武士、それが木村重成!なのであります。

 

豊臣家と徳川家が衝突!その時、木村重成は…

 

天下統一を果たし、一代で莫大な富と名誉を築いたのが豊臣秀吉!

天下は豊臣家のもの、秀頼の代になってもそれは変わらない…

 

…はずだったのですが、秀吉の死後に豊臣家を上手くまとめられる者がおらず、家臣達の間で仲間割れが起きてしまい戦(1600年 関ヶ原の戦い)にまで発展、

 

 

家康め、天下を狙ってるな?!

そうはさせない、豊臣家を守る!


 

という石田三成が

 

 

秀吉がいなくなった今、日本のリーダーにふさわしいのはワシ以外におらん。

空いた天下人の椅子に座るのはワシじゃい!


 

と荒ぶっていた徳川家康に倒されてしまい、徳川家が天下の覇権を握る事になってしまいました。

 

その後、家康の自由すぎる戦後処理により豊臣秀頼は摂津・河内・和泉に65万石を領するのみの大名となってしまいます。

 

一方、家康は征夷大将軍となって江戸に幕府を開き、トップの地位を確立しました。

 

そして時が過ぎて1614年…

 

俗に言う方広寺鐘銘事件が起こり、豊臣家と徳川家が対立することになってしまいます。

 

 

秀頼くんさぁ~、方広寺を再建してくれたのはいいんだけど、造った鐘に『国家安康』って書いてるじゃない?

家康の文字ぶった切ってるじゃない?

ワシのこと呪ってるんじゃない?(๑`^´๑)


 

という理由で家康側がプンスカしたのが事の始まりでありました。

 

これを受け、方広寺再建の責任者だった片桐且元は

 

片桐且元

 

家康さん、かなりご立腹みたいで…。

 

秀頼様は大坂城を出て伊勢か大和に入るように、とか…

江戸に参勤するように、とか…

淀君様は人質として江戸に行くように、とかあるんですけど…

 

戦を避けるには、こういった条件を飲まなきゃいけないかなぁ〜って思うんですよ…ハイ。


 

この問題を穏便に解決させる為、家康サイドの肩を持ちました。

 

そんな弱腰な片桐且元に対して木村重成は…

 

 

片桐且元なんか斬ってしまえ!

それ以外の家康支持者もな!

 

むしろこっちから家康に宣戦布告してやればいい!

やってやるんだよ、この一戦に豊臣家の未来がかかっている!


 

なんてかなり攻撃的な発言をし、猛批判したといいます。

 

 

この後、片桐且元は出奔して徳川家へ寝返ったぞ。

 

で、結局、我々は家康に謝らなかったから、大坂の陣と呼ばれる戦が起こるのである…。


 

大坂冬の陣で見せた気合いと人情!木村重成の活躍とは

 

方広寺鐘銘事件後、豊臣家はきたる徳川勢との戦に備えて浪人達を召集し始めました。

 

徳川の天下が揺るぎない状況なので、残念ながら地位のある大名達は豊臣家の味方にはついてくれなかったのですが、それでも全国から10万を超える浪人達が集まりました。

(しかし徳川軍は20万もの大軍でやってくる)

 

大坂冬の陣豊臣家

豊臣家のメインのメンツはこんな感じ。

 

真田幸村ら浪人衆は、畿内を中心に軍勢を広く展開し、積極的に徳川軍と戦うことを提案したのですが…

 

大野治長

 

ダメ、絶対籠城!

大坂城は落ちない!

家康が音を上げるのを待ち、我々が有利となる条件で和睦に持っていくのだ!


 

淀殿や大野治長などが保守的であった為、軍議で揉めて実現せず。

 

そうこうしてる間に徳川軍が大坂へと詰め寄ってきたもので、豊臣軍は大坂城を守る形で徳川軍と戦う事になりました。

 

大坂冬の陣と呼ばれるこの戦では、大河ドラマのタイトルにもなった真田丸での攻防戦が有名でありますが、

 

木村重成はその真田丸での戦いが起こる前に、豊臣方の兵士が守る今福・鴫野の砦を奪おうとやってきた徳川方の佐竹義宣、上杉景勝らの軍勢と戦闘を繰り広げました。

 

 

今福を守るリーダーが佐竹軍にやられて討ち死にしてね…。

コリャやばいってことで、援軍として今福へと出撃したのだ。


 

ここで木村重成は、今福を占領しつつあった佐竹軍をやや押し返す事に成功。

 

しかし、その後は膠着状態が続き…

 

 

重成が困ってるっぽい!

助けてあげて!


 

らちが明かないので、後藤又兵衛が援軍として重成の元へやってきました。

 

 

又兵衛殿の兵を合わすと我々の兵は3000を超えるぞ!

 

佐竹軍の兵は1500ってところか…?いやもっとか?

まぁでも、大丈夫、いける!!︎


 

勢いを得た豊臣軍は佐竹軍を押し返し、さらに木村重成が配下に指示して狙撃させて渋江内膳という者を討ち取ったおかげで敵の先鋒隊を崩すことができました。

 

 

ヨッシャ!︎

ひとまずこの瞬間は我々の勝ちって感じじゃない?!


 

何気に木村重成はこれが初陣。

きっと戦が始まる前は緊張していただろうし、ひとまず得た勝利に少なからずホッとしたことでしょう。

 

しかし、油断は禁物。

この後、上杉景勝らが佐竹義宣の要請に応えて鴫野方面から援軍にやってきたのであります。

 

 

銃撃開始!


 

そんな中で重成は、配下の大井某がいないことに気づきます。

 

そしてなんと…

 

 

大井!どこにいる?!

無事なのかー?!


 

重成は大井を見つけるべく、大胆にも単騎で戦場を駆け回りました。

 

そして

 

 

いた!!︎

探したぞ!

生きててよかった!


 

重成は手負いの大井某を見つけると馬を降り、抱きかかえて撤退を始めました。

 

重成は…

 

大井某

 

鉄砲が当たってしまいます、危のうございます。

私の事など捨て置いてくだされ。

どうか、命を大切になさって下さアッー!!!!

 

言ってる側から敵が4~5騎、向かってくる!

早く逃げてーっ!!


 

危険な状況に置かれ、大井某にこう言われても

 

 

バカヤロゥ!

そう言われて帰るぐらいなら最初から来てないわっ!


 

決して彼を見捨てませんでした。

それどころか、重成は勇敢にも一人で敵に立ち向かっていったのであります。

 

 

(とはいえかなりヤバイ!)


 

…といった状況でしたが、この時、運よく重成の配下30騎あまりが駆けつけてきてくれたので、2人とも命拾いして無事に大坂城へと撤退する事ができました。

 

 

なんやかんやあちこちの砦を失い豊臣軍は大ピンチ!

この後、大坂城で籠城戦が始まるのだが私は真田丸での戦いに参加していたぞ!


 

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和睦の使者として活躍!堂々たる重成に徳川勢もびっくり

 

およそ2倍の兵で大坂城を包囲し、優勢ではあった徳川軍ですが、やはり守りの硬い大坂城を落とすのは容易ではありませんでした。

 

なので徳川家康は…

 

 

このままダラダラ長引くと士気も下がっちゃうし、いっちょ和睦して戦終わらすかね。


 

和睦の交渉を開始しました。

 

が、

 

 

家康のいう事ホイホイ聞くなんて嫌よぉ!

大坂城は落ちないんだから!

最悪、和睦するとしてもこっちの望みも聞いてもらわないと嫌よ~?!


 

 

和睦反対!


 

 

そうだそうだ!

徹底抗戦すべし!


 

豊臣家は素直に和睦に応じず。

 

 

何ゴネてんだ。

和睦するのかせんのか、早ぅ答えださんかい。


 

そんな豊臣家に脅しをかけるため、家康は大坂城に向けて連日大砲を撃ち込みました。

 

そしてそのうちの一発がたまたま、淀殿の居間の櫓に直撃してしまいます。

 

淀殿の侍女70名あまりが即死したとのことであり、その悲惨な光景を目にした淀殿は

 

 

無理!怖い怖い怖い!

もう嫌!和睦するー!!!!


 

完全に心が折れてしまい、和睦を結ぶことを決めました。

 

 

私や幸村殿ら浪人衆は反対したのだがな。

決定権を持っているのは淀殿なので仕方ない…。


 

で、この和睦を結ぶのに、豊臣秀頼の使者を務める事になったのが木村重成であります。  

 

そして重成が徳川の陣へ行き、誓書を受け取った時のこと…

 

 

(フムフム…

秀頼様の身の安全は保障する…

本領も安堵…フムフム…

大坂城は本丸を残して二の丸三の丸は破却すること…フム…フムフム……)

 

 

ム?!


 

誓書に目を通した重成は…

 

 

最後の署名の部分、家康様の血判が薄いように思われますが?


 

臆することなく家康にこう言いました。

 

 

・・・・。

 

(押し直せってか?)


 

 

・・・・。

 

(そうだ、押し直せ!)


 

 

ハイハイ、押し直しますよ~っと。

もう年も年だから血も出なくなってしまってね~。


 

 

ヨシ!


 

そんなこんなで無事、和議成立。

 

 

ガキが生意気だぞー!!︎


 

 

何様なんだこの野郎~!!︎


 

居合わせた徳川の武将達からはブーイングが起こったようですが…

 

 

先程は大変失礼致しました。

本日は我が主、秀頼公の名代として参りましたので。

何卒、お許しくださいませ。ペコリ


 

 

ぁっ…(,,•ᴥ•,,)

(な、なによ!立派な武士すぎてヤジってたワシが小物みたいじゃない!)


 

 

ぐぅ…( ˶´n`˵ )

(二十歳そこそこの若造なのに…貫禄スゲェ!!︎)


 

 

豊臣家にこんな武士がいたとは…。

秀頼は良い家臣を持ったな。


 

重成の堂々たる振る舞いに、その場にいた者は感嘆したといいます。

 

速攻で破れてしまった和睦。大坂夏の陣へと続く

 

豊臣家と徳川家で和睦を結んだはいいものの、その後すぐ、両者の関係が壊れる出来事が起こりました。

 

家康の強引な政策により、豊臣家の本拠地である大坂城の外堀、中堀が凄まじいスピードで埋められてしまったのです。

 

 

なに勝手な事してるの?

約束が違うんじゃないのー!?


 

 

やりたい放題しやがって…

豊臣のプライドはボロボロだよ…。


 

これには豊臣方も焦ります。

 

 

和睦の条件に二の丸などは破却する事、とあったけど…

まさか勝手に着手するばかりか、こんなに早く城を丸裸にされるとは…。


 

生前、秀吉は…

 

 

大坂城はね、かつて信長公が10年間戦って落とせなかった石山本願寺の跡地に立ててるんだ。

 

そんな防御に優れた場所に立ててる難攻不落の大坂城なわけだけど、もしも堀を失うようなことがあれば戦になった時にヤバイことになるね。


 

こんな事を言っていたといいます。

 

ただでさえ立場が弱い豊臣家ですが、文字通り、最後の砦となる大坂城まで弱ってしまいました。

 

こうなると今後、豊臣方はこれまで以上に人の力で身を守るしかありません。

 

なのでまた、いずれ迫りくるかもしれない敵に備えて浪人を大坂に召集し始めました。

 

もちろん、この事は徳川家康の耳に入ります。

 

 

和睦したのにまーた戦の準備してる。

浪人たちを大坂城から追い出さなきゃ攻めちゃうよ?

いいの?


 

 

キエエエ!もう騙されない!

くるならこいや!


 

こうして大坂夏の陣が始まるのであります。

 

 

和睦の使者としてはなんとも悔しい展開…。


 

大坂の陣が始まる前、木村重成と妻のエピソードが奥ゆかしい

 

大坂の陣は戦国時代最後の戦、そして豊臣家が滅びることになる戦であります。

 

戦う前から負けると思う事はあまりよろしくないですが、木村重成はこの戦に挑むにあたり、完全に死を覚悟しておりました。

 

重成は結婚してわずか5ヶ月、新婚ホヤホヤの時期に妻と別れの盃を交わしたというし、

 

戦が始まる前には

 

 

最近痩せました?

戦の事で食事が喉を通りませんか?心配です。


 

 

あえての食事制限だよ。

討ち死にした時、切り口から食べ物が出る事があるそうだ。

 

私はそんな無様な死に様を晒したくないからな。


 

妻とこんなやり取りをしていたとのことです。

 

そして大坂夏の陣が始まる前夜、妻が重成の兜に香を焚き込めたというのは有名な逸話であります。

 

顔も性格もイケメン、死に様にも気を使う木村重成は相当意識高いですね。

 

 

良い匂いがするイケメンってたまんないでしょ。

私ってカースト上位のイケてる武士…って感じ?


 

木村重成の最後、大坂夏の陣!

 

大坂冬の陣で豊臣家が召集できた兵は、およそ5万5000…

 

対する徳川軍はこの3倍もの兵を動員し、大坂城へ攻め寄せてきました。

 

籠城もできず、兵力差もかなり不利な豊臣方は敵の軍勢が全て集結する前に、兵を有効に使って各方面からやってくる軍勢を積極的に迎え撃つという作戦で臨む事になります。

 

5月6日早朝、

 

木村重成は長宗我部盛親と共に若江方面に出撃。

藤堂高虎の軍勢と戦い、これを撃破しました。

 

が、その後、重成は井伊直孝の軍勢と戦い敵の武将の槍に突かれて落馬し、討ち取られてしまったのであります。

 

死を覚悟して挑んだ戦、木村重成はきっと最後の最後まで勇敢に戦った事でしょう。

 

そしてこの時点で木村重成ほか塙団右衛門、後藤又兵衛といった豊臣軍の主要メンバーが討ち死にしております。

 

その後、徳川軍は全軍で大坂城へ詰め寄ると、最終決戦に向けて大坂城の南側に陣を構えました。

 

残る豊臣軍はラスボス徳川家康・秀忠の首だけに狙いを定めて突撃するも、やはり兵力差には勝てず敗北…

 

大坂城は家康の手に落ち、秀頼と淀殿は自害して豊臣家は滅亡してしまいました。

 

大坂夏の陣布陣図

真田幸村、毛利勝永は徳川の軍勢を撃破しながら突き進んで家康の本陣まで到達した

 

兜に香を焚き込めた意味!木村重成の死、その後

 

大坂の陣が終わり、徳川家康のもとで首実験が行われた時の話であります。

 

木村重成の首を検分した際、重成の頭から香の匂いがしたもので…

 

 

ハアンッ…いい匂いがする!

首実検に備えて素敵な香り漂わせるとか…エモぃ。

 

それに彼、兜の緒を固く結んで切り落としてたんだね。

兜を脱ぐことはもうない、と、討ち死に上等の覚悟で戦に挑んでたんだ。


 

家康含む東軍の武将達は、重成の戦に対する心意気や、奥ゆかしさに胸を打たれといいます。

 

 

真田幸村殿なんかは主に戦いっぷりで伝説となったけど、

私は私の武士道が美しすぎて伝説残しちゃった感じ?


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