鈴木(雑賀)孫一とは?VS織田信長!本願寺の最強助っ人をゆるりと
生涯 | ??(1534?)年~??年 |
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出身 | おそらく紀伊(和歌山県) |
主君 | 決まった主君を持たず。その時その時で権力者に雇われたり割と自由にやってたけど後に信長、秀吉に従ってる |
思い出の戦 | 石山合戦、雑賀攻め、小牧長久手の戦い |
鈴木孫一といえば | 鉄砲。雑賀衆。家紋が八咫烏(やたがらす) |
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鉄砲!信長!本願寺!雑賀衆の孫一!
雑賀孫一って人物、なんか聞いた事あるけど実際何した人?!って思ってる方は少なくないんじゃないかしらっ??
私の中ではそんなに有名じゃないのに割と有名な人物、なぜかそこそこ知名度ある不思議な人物ね~。(ちょっと何が言いたいのかわかんない?;
とりあえず今回は雑賀の孫一についてまとめておりますわよ~。
『面白ぇぇぇ!!!!』みたいなエピソードはこれといってないかもしれないけど、まぁ暇つぶしにゆるりと見てって下さいな♪
名前表記どうしよう。謎が多い雑賀の鈴木孫一。
この人物、『鈴木孫一』より『雑賀孫一』という名前のほうが有名かもしれませんが、孫一が雑賀という名字を名乗った事実はないそうです。
そして『孫一』という名前も通称で、史料によると『重秀』というのが実名であるそうな。
まごいちは『孫市』のパターンもあるし、名前の表記どれにするか迷いますね。統一してほしい。笑
ちなみに、鈴木氏は雑賀という地に昔からいたとされる一族だ。
『孫一』という名前は、鈴木氏のトップに立つ物がいつからか代々受け継いで名乗っている…と言われているぞ。
そんな鈴木孫一は、一言でいうと雑賀衆の頭領とされた人物であり、戦で織田信長を苦しめたことで知名度を上げたって感じの人物です。
けど、孫一本人の詳しい出自や歴史、人物像が浮かんでくるような逸話が残っておらず…割と謎めいた人物なのであります。
聞いたことある『雑賀衆』!有名だけど実際何してる人達?
雑賀衆は紀伊(現在の和歌山県)の紀の川下流域に住まう地侍の集まりであります。
当時、紀伊は畠山氏の守護する地ではあったのですが、雑賀衆ほか根来衆、高野山といった宗教勢力らがそれぞれ独自に力を持って割拠していた為、大名の威厳は発揮されていませんでした。
イメージ的には紀伊国の中に、またいくつかの国があるみたいな感じだね。
俺らは俺らで好きにやってくぜ~みたいな。
雑賀衆がいたのは十ヶ郷、雑賀荘、宮郷、中郷、南郷という五つの地域。
つまり、『雑賀衆』はこの五つの地域の組合の集合体であり、その五つの組合のリーダー的存在だったのが鈴木孫一です。
『雑賀孫一』って呼ばれる理由はこういう事なのだ。
ちなみに俺が属しているのは十ヶ郷!
そして雑賀衆といえば鉄砲を巧みに操る戦闘のプロ集団といった感じで有名であり、
決まった主君を持っておらず、依頼に応じて活動する雇われ武装集団といった感じであります。
雑賀衆はまだ戦場で鉄砲がメジャーでなかった時期からこういった組織を構成していたわけですが、
フリーで活動してる田舎の侍集団がなぜ鉄砲のプロ集団になれたのか?というのが気になるところ…
それにはこんな理由があるのだ。↓
宮郷・中郷・南郷が主に農業で生計を立てていたのに対し、孫一の属する十ヶ郷と雑賀荘は農業に不向きな土地であったそうで、孫一らは海運業や海外貿易を行って生計を立てていたといいます。
そう、俺達は独自に海外と繋がりを持つことで鉄砲の大量輸入を可能とした(と言われている)のだ。
そしてその大量に仕入れた鉄砲で徹底した訓練を行い、集団で戦う為の戦法を編み出すなどして強い組織を作り上げた…とのこと。
しかも孫一らは海運業、貿易を行っている関係で沢山の船を所有しているので、いざという時には水軍となって戦う事もできたというから驚きであります。戦闘力高い!
ちなみに、大人だけでなく子供達も鉄砲の訓練をしていたからね。
雑賀衆が強いのも納得だろ?
雑賀衆は案外ビジネスライクな集団であった
謎の多い孫一が有名になったきっかけといえば、織田信長VS本願寺の『石山合戦』であります。
すごく簡単に言えば孫一ら雑賀衆は本願寺の助っ人としてこの戦に参加していました。
ので、俺本人が織田信長となんかあって敵対してた…とかじゃないんだな。
石山合戦前、織田信長に京を追われて本国阿波に逃げ帰っていた三好一党が摂津にカムバック、打倒信長を掲げて挙兵するという事件が起こるのですが、
孫一は三好一党が摂津に来る際に渡航のお手伝いをし、三好軍の一員として戦に参加していました。
そして戦に参加したはいいけど、信長側も雑賀衆の一部(と同じ紀伊の根来衆も)を雇っていたために雑賀衆VS雑賀衆で銃撃戦が繰り広げられるカオスな戦が起こっていたんだとか。
仲間といえどビジネスですから~的な?
雑賀衆ってなかなかに独特な集団。
でも時の権力者たちに必要とされているのは、雑賀の鉄砲隊がそれだけ強いと評判だったのでしょう。
そしてこの戦の最中、一向宗でおなじみの本願寺が
信長はやはり反抗的なやつらに容赦ないな。
次は我々がターゲットかもしれん…!
と先手を打って挙兵、俗にいう『石山合戦』が勃発します。
本願寺チームの軍師は鈴木孫一だった…?!
本願寺は本拠地である摂津のほかに加賀、伊勢、近江、安芸など各地に派生し拠点を構える大規模な宗教教団であり、その信者は全国に何百万もいたといいます。
門徒たちにとって阿弥陀如来の教えが人生の全てということで、本願寺が戦えと命令すれば
死んでも極楽浄土へ行くだけ、怖いもんはねぇ。
と躊躇なく戦ったそうな。
本願寺はこうした従順な信者を沢山抱えていたのに加え、毛利氏や浅井氏、朝倉氏といった当時信長と敵対していた大名達と繋がりを持っておりました。
そんなこんなで本願寺はこれらの人々に打倒信長の協力を呼びかけ、大規模なアンチ信長チームを結成、
一向門徒が大勢いた雑賀衆も本願寺に誘われ、チームの一員となりました。
そして孫一は本願寺チームの中でも筆頭格的ポジションにおり、軍師や司令官といった役割を担っていたといいます。
1570年に始まった石山合戦は、本願寺が信長に降伏するまで10年間もずるずると続いてくんだ。
雑賀衆は本願寺の主力部隊として、長年戦に参加していたぞ!
ワシら織田軍はコイツらに長年苦しめられるのである…。
織田信長、雑賀の孫一の存在がうっとおしすぎてホラを吹く
休戦期間を挟みつつもおよそ10年も続くこととなる石山合戦…
本願寺との戦って聞くと織田軍VS坊さんの集まり…って感じで余裕な感じがするでしょ?
それがやつら、金持ってるし武器とか人とか集めまくって滅茶苦茶手強いのよ。
信長は兎にも角にも本願寺チームに手を焼いておりました。
1576年5月…
毛利が本願寺に兵糧を運ぼうとしてるとか!
本願寺の包囲を強めて補給ルートを断つ!
ということで織田軍が出撃。
…したのですが、ここで采配を振るい織田軍を撃破したのが我らが鈴木孫一でした。
これには…
ウソ~ン(゚д゚;)
信長も困惑。
この後、信長本人が出陣し、激しい戦いを繰り広げることになります。
そして…
勝ったー!!
孫一を倒したぞー!!!!
織田軍はこの時孫一を討ち取り、信長は京都でその首を晒したといいます。
(えっ)
ま、孫一の首だもん…
ホントだもん…。
しかし実際、孫一はここで討ち死になんてしていなかったという。
当時、雑賀衆の強さは周知されていたようで、、
その頭領の孫一を倒したとアピールすることで織田信長は世間から一目置かれたかったのかもしれません。
ダサい嘘つきやがって…。
これは戦略だもん。
織田軍の士気も上がって戦の流れも多少変わるだろうし?みたいなね?多分。
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織田信長、孫一らを倒すために雑賀攻めを決行
1576年7月…
本願寺
相変わらず織田軍に包囲されて身動きとれん。
助けておくれ~(;o;)
毛利
なんとかするよ待ってて( ^ω^ )b
本願寺のヘルプに応え、安芸の毛利氏が兵糧・武具等の支援に本願寺へと出動することに。
この時、孫一は毛利軍のお手伝いをするために播磨まで出向きました。
そして雑賀の水軍が合流した後、毛利の水軍とともに大阪湾に突撃して織田軍を壊滅させるという手柄を挙げております。
第一次木津川口の戦いってやつね。
雑賀衆は炮烙火矢っていう炸裂弾で援護射撃していたぞ。
相変わらず本願寺、雑賀衆らに手を焼かされる信長…。
さらに翌年には紀伊の畠山氏、根来衆らも打倒信長を掲げ立ち上がったということで、
何とかしなきゃだわ。
とりあえず雑賀衆強いしどうにかしなきゃ。戦終わんねぇよ。
1577年2月、雑賀攻め(紀州征伐)が行われることになります。
雑賀攻めで大ピンチ…と思いきや大軍相手に大健闘した雑賀衆
織田信長は紀伊を攻略するにあたり、しっかりと調略を行い味方を増やしていきました。
雑賀衆五組のうち三組(宮郷、中郷、南郷)を孫一から切り離し…
さらに、孫一らと同じく信長と敵対していた根来衆の大将を味方につけることにも成功しました。
悲しいことに雑賀衆は強い結束力があったわけではなく、十ヶ郷・雑賀荘の2組と宮郷・中郷・南郷の3組で割れて揉めたりすることがあったそうな。
地元の仲間に裏切られたうえ、根来衆まで敵になってしまうとは…。
この状況、クッソやべぇぞ。
そしてさすが織田信長、すでに追い詰められちゃってる孫一ら相手に明智光秀や羽柴秀吉、丹羽長秀や滝川一益といった武将達を筆頭に10万にも及ぶ軍勢を動員して戦に臨みました。
これに対して孫一らは数千ほどと言われているようです。
絶望的な状況だけど、雑賀衆はよく戦って思いのほか長期戦となったぞ。
普通に戦っても勝てないから色々と工夫したよー!
孫一らは弥勒寺山(みろくじさん)城を根城として周囲に砦を築き、
川に壺やら縄やら桶やらを沈めたり、岸に柵を立てたり逆茂木を並べて織田軍対策を徹底、、
織田軍は川に沈めたアイテムに気づかず川を渡った為に
( ゚Д゚)」( ゚₋゚)」( ゚o゚)」
えっ、なんか足元にある!
(´∀`)」( ´▽゚)」(`∀´)」
そりゃ突撃~
(;゚Д゚)」(;゚₋゚)」(; ゚o゚)」
押すなよ!足元になんかあって進めないんだよ!
(´∀`)」( ´▽゚)」(`∀´)」
行け行け~!
(;゚Д゚)」(;゚₋゚)」(; ゚o゚)」
押すなって!
(´∀`)」( ´▽゚)」(`∀´)」(´∀`)」( ´▽゚)」(`∀´)」
それ突撃~!
続け続けー!
(ノД`)ノ□゚)ノО^)ノД゚)ノ3`)ノo゚)ノ
ウワ~~~ッッ
多分こんな感じでグダついてしまい、、
雑賀衆はそこに鉄砲を撃ちかけるなどして織田軍を倒していったとのことです。
25人を一組とし、交代しながら銃撃することで絶え間ない攻撃を可能としたのだ。
雑賀衆はゲリラ戦得意だし鉄砲隊も強い!
罠&怒涛の銃撃ラッシュで織田軍はかなり痛手を負い、孫一らは割と優勢だった模様。
が、さすがに兵力差がありすぎました。
孫一ら雑賀衆はだんだん劣勢となり、最終的には信長に降伏して戦を終わらせたのであります。
勝った!
むこうから降伏してきたし勝ったわー!
勝ったんで帰りまーす!!
ってな感じで勝者側の雰囲気を醸し出しつつ引きあげた織田軍ですが、戦自体は両軍ボロボロで引き分け状態だったそうな。
和睦したり戦ったり色々忙しい雑賀の孫一
信長と雑賀衆らの戦は和睦という形で一件落着。
…したのですが、
まだ本願寺と信長の戦は終わってないんだぜ!
てゆうか俺を裏切った雑賀のヤツらも許さん!ボッコボコにしてやる!
ものの半年もたたない間に雑賀衆孫一チームが挙兵しました。
信長はこれに制裁を加えるべく7~8万の兵を動員し、再び孫一ら雑賀衆を潰しにかかりました。
が、これまた兵力差をものともせず、孫一らは織田軍を撃退しました。
やっぱ俺ら強ぇ~(´∀`)
反信長勢の一員としてこの後も活動を続ける孫一ですが、、
一方で共闘していた毛利氏が『第二次木津川口の戦い』と呼ばれる海戦で織田軍に惨敗し、厳しくなってきた本願寺がついに信長に降伏して和睦を結んだので、孫一の戦生活もひとまず終了したのでした。
本願寺チーム負けちゃったけど、俺たちかなり貢献したよね!
孫一、織田信長に接近して調子アガるも本能寺ショックで撃沈
これまでずっと本願寺の味方につき信長とバッチバチだった孫一ですが、
この後に及んで信長を敵に回すは愚の骨頂!
俺は信長と仲良くなってビッグになってやるぜ。
なんて思っていたかは謎ですが、石山合戦が終わってからは信長に従順になっていきました。
しかし、雑賀衆の中で孫一と並ぶ有力者・土橋若太夫という男はまだ信長を敵視しておりました。
※孫一が十ヶ郷のトップ、若大夫が雑賀荘のトップ的な感じ。
そういったことから孫一と若大夫は対立、争いへと発展してしまうことになります。
そして…
信長さーん!
地元に信長さんのアンチがいるんですけどー!
そんな面倒くさいヤツは殺ッちゃっていいんだよ。
支援ならいくらでもするからさ。
孫一は信長の後ろ盾を得ると、土橋若太夫を殺害してしまいました。
信長さんがバックについてるとか、最高に怖いもんナシ。
ひとまず雑賀は俺が押さえたぜ。
しかし、それから間もなくして本能寺の変が起こって信長がこの世を去ってしまうので…、
信長さんと繋がって調子乗ってたらコレ。
ヤッベ!
孫一は若大夫一派や近隣のアンチ信長勢に追われる事となり、やむを得ず地元から姿を消したのでした。
それから約2年間、俺がどこで何をしていたのかは不明なのである…。
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鈴木孫一、その後の人生…
本能寺の変の後…
孫一が地元にいない間、雑賀衆は台頭してきた羽柴秀吉と対立するようになっておりました。
そして1584年、羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄の間で『小牧長久手の戦い』と呼ばれる戦が勃発。
雑賀衆は秀吉と対立しているので家康側の味方につき、秀吉の留守に乗じて大坂に侵攻するなどしておりました。
この時、孫一は一体どこで何をしていたのか…というと、秀吉の軍に入り鉄砲頭となって戦場で活躍していたというから驚きであります。
俺が雑賀衆の頭であった事はもう昔の話…。
消息不明の時期、どういった経緯で秀吉の配下になったのか謎だそうで。
地元の仲間とは完全に決別してしまったか、孫一はこの翌年に行われた紀州征伐(雑賀衆や根来衆など、紀伊のアンチ秀吉派の勢力との戦)にも参加しております。
この後、紀伊は秀吉の手に落ちて一段落。
…したのはいいのですが、ここらへんから孫一の歴史があやふやになっていきます。
紀州征伐での孫一ついては秀吉軍の一員として参戦し、抵抗を続ける敵に降伏するよう伝えたのが孫一だったとか、
雑賀衆の味方について秀吉軍と戦って討ち死に、もしくは暗殺されたとか
その後も秀吉の鉄砲頭として豊臣家に仕え、関ヶ原の戦い勃発時にはその前夜戦となる『伏見城の戦い』で鳥居元忠を討ち取る武功を挙げた…とか
後に徳川家にも仕えたとか色々な説があるらしいけど、とりあえず関ヶ原の時に活躍したのは鈴木重朝(しげとも)という武将で普通に孫一じゃないそうな。
重朝は一応、俺の息子って事になってる人物ね。
…だとしたら、俺は長い事秀吉に仕えていたのかな??
まぁでも、結局俺が最後どうなったのかは記録に残ってないし永遠の謎なのだ。
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楽しんでいただけたらイイネ!