山中鹿之介とはどんな武将?願わくば…七難八苦で尼子家再興!
生涯 | 1545年~1578年 |
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出身 | 出雲(島根県) |
主君 | 尼子義久、勝久 |
思い出の戦 | 月山富田城の戦い、上月城の戦い |
山中鹿介といえば | 『願わくば我に七難八苦を与えたまえ』、尼子家一筋 |
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山中鹿之助とは?滅んだ主家を再興すべく人生を駆け抜けた武将
山中鹿介といえば三日月に向かって『願わくば我に七難八苦を与えたまえ』と願ったという逸話が有名ね!
わざわざ自分から苦難を願うってどんなんよ~!
まぁでもコレは『俺はどんな困難も乗り越えてやるぜ!ドンと来いやー!』的な決意表明だわね!
そんくらい気合入れなきゃやってられないぐらい鹿介の人生はハードだったというわけよ。
ちなみに名前の表記は鹿之助でも幸盛でも鹿助でも鹿之介でも鹿介でもどれでも通用するわよ~っ!
でも本人は『鹿介』と署名しているんだってさ。
尼子家家臣、山中鹿之介とは?簡単に言うとこんな人
戦国時代、毛利氏が台頭してくる以前は尼子氏と大内氏が中国地方の二大巨頭でありました。
山中鹿之介が仕えていたのは尼子氏。
絶頂期には出雲、隠岐、伯耆(の一部)、石見(の一部)などを支配下に置き名を馳せまくっていた大大名家です。
俺はそんな尼子家に2万石で仕えていたエリート家臣なのだ!
ちなみに山中家は尼子氏の一族だったりするぞ。
鹿之介は父を2歳の頃に亡くし、跡を継いでいた兄も病弱だったということで、家督を譲られて山中家の当主を務める事になるのですが、
鹿之介が10歳ぐらいの時(1555年)に毛利元就が厳島の戦いで大内氏を滅ぼして一気に尼子氏と並ぶ大名になり…
尼子氏はその毛利氏の侵攻を受け敗北、1566年に尼子氏は大名としての地位を失ってしまいます。
この時、鹿之介の年齢は二十歳そこそこ。
まさに武将としてこれから!!という時期に主家が滅亡してしまったわけであります。
それから鹿之介がどうしたのかというと…
俺は毛利の世なんて認めないぞ。
尼子家万歳!!かつての栄光を取り戻してみせる!
若さとありあまるパワーで主家再興に執念を燃やし、尼子家滅亡から命を落とすまでの約12年間、尼子家一筋で突き進んで行くのであります。
武勇に優れ、忠義心厚い。
どんなに苦しい立場にあってもめげない、一生懸命。
山中鹿之介は簡単に良く言えばTHE・カッコイイ武士って感じの人物。なのです。
悪く言えばこんな感じかも。
※あくまで個人的イメージです。
武勇に優れていた山中鹿之介のカッコイイ逸話
山中鹿之介は武勇に優れた賢い人物であったと言われております。
鹿之介が本格的に剣術や兵法を学び始めたのは10歳の頃、13歳の時には戦場デビューして敵兵を討ち取る武功をあげたとのこと。
少年時代に武功をあげるというのは、武勇に優れていた系の武将には珍しくないエピソードですが、
鹿之介には8歳の時、病弱な兄を侮辱した人物を斬ったというエピソードがあったりするので人斬りデビューは相当早かった模様…!
8歳といえば小学2、3年…。
これに至っては武勇が優れてる云々でなくただの問題児か?
でもちゃんとカッコイイ武勇伝もあるからね。↓
山中鹿之介は腕っぷしもメンタルも強い
1562年7月…
毛利軍が数万の兵で尼子氏の本拠地である月山富田城(がっさんとだじょう)を包囲。
鹿之介はこの時一人で城外へ出るのですが、敵30~40人に見つかり囲まれてしまいました。
が、
鹿之介はこのうち半分を斬り捨てた後、何事もなかったかのように近くの民家でご飯を食べて城に帰ったのでした。
余裕のある男、カッコイイ。
強い相手には頭を使って勝つ
1565年…
またまた月山富田城にて毛利軍を相手にしている時のお話…
この時、毛利方には
品川大膳
特技は猪の首を素手でねじって切り落とすことです。
という力自慢の武将がおりました。
彼はこの戦で名を上げるべく、武勇に誉れ高い山中鹿之助を討ち取る事を決意します。
品川大膳
ワシは鹿を喰らう狼じゃ!
絶対に勝~つ!!
ということで、自らの名前を狼之介勝盛と変える気合の入りっぷり。
そして大膳は川を挟んで対峙中、たまたま鹿之助と思しき武将が歩いているのを見つけました。
品川大膳
我こそは狼之介勝盛!
鹿之介~っっ!一騎打ちじゃ!!
OK!!
両者は川の中州で太刀打ち勝負と洒落こむのですが…
なかなか決着がつきませんでした。
ので、
品川大膳
決着つかないからさぁ!!
組打ちで勝負しようよ!!
OK!!
大膳の希望で組打ちで決着をつけることに。
品川大膳
(ワシは180cm近い巨体で超力持ち!
一方、鹿之助は150cmそこそこのおチビさん!
組打ちなら絶対にワシが勝てるッ!!)
大膳が圧倒的有利と思われたのですが…
(俺は武勇だけでなく知も兼ね備えた武将…、勝機はあるんだぜ。
ヤツの隙をついてやるっ!)
鹿之介は組んだ際にわざと押されるフリをし、倒れざまに素早く鎧通し(短刀)を大膳の腹に突き刺してやりました。
品川大膳
イタッ( ゚Д゚)!!!!
思わずのけぞる大膳。
鹿之助はすかさず大膳をはねのけて首を討ち取ると、一騎打ち見守っていた毛利軍に向かって
石見の狼を出雲の鹿が討ち取ったりィ!!
とカッコよく叫んだのでした。
別パターンの逸話&山中鹿之介の容姿と身長
↑これに関しては大膳に討たれそうになったところを、仲間が助太刀に入ってくれたおかげで難を逃れることができた。そっから反撃し、大膳の首をとった…というパターンの逸話もあるようです。
そしてこの逸話で鹿之介は身長低い設定だけど、実は身長が190cmぐらいあったとも言われているらしいです。
ついでに中肉中背、色白の美男子という噂。
そしてそして『石州大太刀(せきしゅうおおたち)』という約264cmある大太刀を振るっていたという噂。
となると身長190cm説が濃厚?
そんで勇敢で強いってイケメンすぎやしませんか。
ちなみに俺は三日月宗近という刀を所持していた事があるのだ。
まぁ噂だけどな。
月山富田城落城。山中鹿之介の人生はハードモード
1566年…
尼子氏の本拠地である月山富田城は、毛利軍によって厳しく包囲されておりました。
約3年も続く包囲によって尼子軍は兵糧不足に陥り、城内の兵達が脱走したりと士気は落ちまくり。
そして
尼子義久
頑張って抵抗してきたけども…もうなすすべナシ…。
となった尼子家当主・義久は毛利元就に降伏、月山富田城を明け渡すことになります。
それから尼子義久とその弟らが毛利の本拠地安芸に送られ、大名としての尼子氏は滅亡。
残った尼子家家臣達については
ワシに従えとか仕えろなんて言わないよ。
自分の行きたい所へ行けばいいさ。
といった処置がとられました。
尼子家当主とその親族が毛利の人質となりゃ、残された家臣らも大人しくしてるだろ。
といった考えがあったのか
中国地方で名を馳せていた大内氏、尼子氏を滅ぼした今、毛利家最強!
尼子の残党が悪さしてもどうってことないね。
って感じだったのか。
とりあえず、山中鹿之介は主家を失い野に放たれたのであります。
七難八苦の始まり。山中鹿之介、尼子家再興へ
その後、鹿之介は
このままで終わってたまるかっ!
絶対に尼子家を再興するんだい!
尼子家を再興すべく上洛し、各地を回って諸将に戦略を学んだといいます。
そして、尼子一族の生まれにあり京都で僧になっていた男を俗世に戻って来させ、『勝久』と名乗らせて尼子家再興のシンボルとしました。
各地を渡り共に戦ってくれる仲間も集めた!
打倒毛利!!
素晴らしい行動力で準備を整えた鹿之介は、毛利氏と敵対していた九州の大友氏とも組んで毛利氏を脅かします。
毛利の主力部隊が、九州へ遠征に行っている時には
今がチャンス!
と出兵し、いい感じに出雲を回復させていきました。
が、月山富田城を攻めたところで毛利軍の反撃にあい敗北してしまいます。
チクショウ。
出雲から撤退するはめになっちまったぜ。
これをきっかけに毛利方に寝返った仲間もいたとのことで、鹿之介は窮地に追い込まれていくのであります…。
人生は七難八苦!あきらめなさすぎる山中鹿介がなんか凄い
出雲を出た鹿之介は伯耆へと移りました。
そしてしばらくの間、末吉城にて抵抗を続けるのですが追い詰められてやむなく毛利氏に降伏…
その後、鹿之介は尾高城にて捕らわれの身となってしまいました。
THE・END。
といった状態。
しかし、こんな状況でも鹿之介は諦めませんでした。
何が何でも諦めない鹿之介は…
なんと、自分の股を刀で刺して
け…血便が…
止まんねぇんだわ(;´∀`)
と一晩中トイレに行きまくり、見張りを油断させて城から脱出することに成功したのであります。なんという策士。
その後は山賊やそこいらのゴロツキの力を借り、略奪や放火、殺人などを繰り返し民家や寺社などを荒らして回ったとのこと。
カッコイイ英雄像とはかけ離れた鹿之介の黒歴史…!
普通にヤバミを感じるテロリストとなっていた鹿之介は、その土地の住民達から鬼と恐れられていたんだとか。
資金繰りに困ってたから略奪は仕方なかった。
なりふり構ってる場合じゃねぇんだわ。
しかしながら、鹿之介のやってることは毛利氏の勢力にダメージを与えているわけではないので状況は厳しいままでした。
なので鹿之介は…
今のままで毛利を相手にするのは無理ゲすぎる。
俺達と同じく毛利の敵であり、今ノリにノってる信長さんをあたってみよう!
織田信長の傘下に入り、パワーアップを図ったのであります。
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不運にも毛利の大軍の餌食となった鹿介…悲願ならず無念の最後
織田信長の傘下に入った山中鹿之介…
その後は羽柴秀吉のチームに属し、中国征伐に参加しました。
そして1578年、鹿之介は前年秀吉が攻め落とした播磨の上月城の守備を任されます。
上月城は中国征伐における重要な拠点の一つ!
尼子家再興チーム、いい仕事もらった!
やっと戦国武将らしいキラキラしたお仕事につけた鹿之介ですが、その後しばらくして吉川元春を筆頭とする毛利軍らおよそ6万が上月城へとやってきました。
なんと。
こっちは多く見積もっても3000、無理ゲすぎる!
え、援軍は来てくれるのだろうか…?!
この一大事に秀吉は…
上月城に毛利の大軍が?!
信長様~!援軍出さなきゃ上月城落ちちゃいまっせー!
今は三木城の戦いに集中して?
そっちのが重要だし、上月城に援軍出す余裕なんてないでしょ。
上月城に援軍を出そうとしたみたいですが、他の戦との兼ね合いもあり信長がそれを許さず…。
信長様は尼子の皆を見捨てろってぇのかい…。
なんとかしてあげたいけど、命令には逆らえない…。
仕方ないので秀吉は
援軍送れそうにないゴメン。
上手く脱出しておいで!ワシらと合流しよう!
といった書状を送りました。
しかし鹿之介は
配下達やその妻子らを見捨てて行くなんて出来ない。
と、城に残って毛利軍と徹底抗戦する事を選びました。
が、当然ながら圧倒的な兵力差もあり勝機などなく…
城が落とされるのも時間の問題、悔しいが降参しよう。
城兵の命だけでも助けてもらえれば…。
鹿之助は毛利氏に降伏することになります。
担ぎ出されていた尼子勝久は助命許されず切腹、上月城は毛利軍の手に落ちてしまいました。
山中鹿之助はというと、捕らえられ備中松山城へと護送されるのですが、その途中に殺害され34歳という若さでこの世を去ったのでした。
吉川元春は鹿之介の命をとるつもりはなかったみたいですが、この時の毛利家当主・輝元が部下に命令して鹿之介を抹殺させたんだとか。
懲りずに何回もクーデター起こしてるもんね。
消しときたい気持ち、わかる。
忠義心厚く、ブレない強い心に行動力のある山中鹿之介…
ポテンシャルの高い人だから、踏ん切りをつけて他の大名家に仕えていたら出世して安定した地位を築いていたかもしれませんね。
いくらでも道はあったろうけど、俺は尼子家の為に自ら苦難の人生を選んだのである。
それをカッコイイと思うか、残念と思うかは受け取る側によるだろうね~。
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楽しんでいただけたらイイネ!